第2話 迂闊な少女

2-1 朝の手違い

     ◆


 私、赤羽火花はベッドの中で目を覚まし、まだ夢の中にいるような錯覚の中で、どうにか体を起こした。ずるりと布団が滑って、そのままベッドからも落ちていった。

「あぁ、眠い」

 眠ったばかりなのにそんなことを言いつつ、ベッドから降りて、床の布団を雑にベッドに戻した。

 寝巻き代わりの浴衣を、一度、帯を外してどうにか整えてから、タオル一式を持ってお風呂に向かう。いつもの習慣でドアの脇の壁にかかっている古い時計をチェック。六時前。これもいつも通りの時間だ。

 どうにも低血圧のせいか、もしくは別の理由か、ふらふらと廊下を進み、脱衣所に通じるドアを開ける。大昔は大勢が住んでいたこの屋敷も、今は大概が私一人で、この脱衣所は広すぎるし、浴室だって、広すぎだ。

 もしエマがいなければ、扱いに困っただろうなぁ。

 服を脱いで、普段通りにエマが用意してくれて、湯気がもうもうと立ち込める浴室へ。

 さっと汗を流し、湯船に浸かると、やっぱりいつも通りの水温だ。天然温泉ではないけど、湧き水を魔術を流用した装置で沸かしている。まぁ、ボイラーと考えればいい。

 湯船の中でぐでっとお湯に浸かっていると、少しずつ気持ちが整ってきた。

 どうにも寝起きのぼんやりした感じは、低血圧と同時に魔力の状態が不安定なせいもあるようだ。これはずっと続いている症状で、いつだったか魔術師専門の医者にも診てもらったことがある。その時は理由は不明だったけど。

 魔力の流れを整える訓練は毎日、時間を見つけてやっているけど、朝のお風呂の時間にもやっている。

 湯船に浸かって、視線の先、空中に魔術構造式を顕現させる。

 私の魔力がそこを走ると、炎になる前の高熱が生まれる。その熱をお風呂のお湯に浸透させると、ぐっと湯温が上がった。

 次は魔術構造式を書き換え、熱を奪うように働きかける。

 今度はお湯がぬるま湯に変わった。しまった、やりすぎた。真冬でもないから構わないか、と魔術構造式を解除する。私の中で魔力が駆け巡ったこともあってか、だいぶ意識がクリアになったのが感じ取れた。

 湯船を出て、頭と体を洗い、シャワーで流して、さっさと脱衣所へ行く。

 体をタオルで拭いながら、魔術で髪の毛を乾かす。炎にまつわる魔術は私の家系、赤羽家の得意分野なので、魔術構造式をわざわざ構築せずとも、意識に刻まれているそれで発動するだけで済む。熱波が髪の毛をほとんど瞬間的に乾かしていた。

 タオルとしわくちゃになっている浴衣を、洗濯物を入れるカゴに放り込み、これも普段通り、下着で部屋に戻ることにする。別に裸族ではないけど、なんか、寝巻き代わりの浴衣を着直す気になれない。

 だったら、服も持って脱衣所に来ればいいわけだけど、そこはどうしても習慣付けできないのだった。

 まあ、一人だし。

 廊下を歩きながら今日の朝食の内容を考えていると、「ひっ」という息を飲む声がした。

 そちらを見て、ああ、そういえば、とやっと思い出した。

 昨日、変な来客があって、この屋敷に留め置くことにしたんだった。

 すっかり忘れていた。

「おはよう、シナーク」

 中庭から室内に戻ってきたところらしい小柄な少年の暗殺者は、強張った顔で一歩、二歩と後ずさると、こちらに背を向けて廊下を駆け抜けて去って行った。

 そうね、確かにどんなに冷静でも、私が下着姿なわけで。

 本来なら、私が悲鳴を上げて逃げる場面では? そう思わなくもないけど、すでに遅い。

 そして私の思考回路では、逃げるという選択肢は思いつきもしなかったようだった。

 部屋に戻り、手早く服を身につけて、今更だけど、鏡で長い髪の毛に櫛を入れた。

 時計を見ると六時五十分。いい頃合いだ。

 食堂に入ると、ちょうどエマが料理を配膳しているところだった。

「おはよう、エマ」

「おはようございます、お嬢様。お風呂はいかがでしたか?」

「いい湯加減だったよ。今日の朝食は何?」

「雑穀米とワカメと豆腐のお味噌汁、ハムエッグとポテトサラダでございます。牛乳、豆乳、ミックスジュース、どれになさいますか?」

 考えつつ席に着くと、ドアが開いてシナークがやってきた。

「おはよう、シナーク」

「この変態め」

 ボソッとシナークがそんなことを言う。うーん、言い返せないのが辛い。というか、エマがいるところで余計なことは言えない。

「シナークは、牛乳と豆乳、ミックスジュース、どれにする?」

 エマの代わりに私が訊ねると、席について料理を見てから、

「ミックスジュース」

 という返事があった。私は牛乳にして、温めて出してね、と付け加えた。

 食事が始まり、しかしなんとも、私とシナークの二人だけになると、気まずい。

「いや、あのね、今朝のはそのぉ、事故というか」

「あんな事故があるか」

 またボソッと返事が返ってくる。シナークは不機嫌そうに、ハムエッグをナイフとフォークで比較的上品に食べている。ちなみ私の方は箸を使っていた。

「だって、長い間、一人で暮らしているんだもん。廊下を下着で歩いても、誰も見ないのが普通なんだよ」

「俺をここに置いたのはお前だし、つい昨日のことじゃないか」

「朝は意識がぼんやりしていて、考えが至らなかったの。今度から気をつけるわ」

「記憶障害を騙るお色気女め」

 記憶障害を騙ってはいない、断じて。

 しかしもうこの話をやめるとしよう。私が不利だから。

 エマが戻ってきて、まずシナークにミックスジュースの入ったグラスを、次に私のところにホットミルクをマグカップで置いてくれる。

「私は今日も学校へ行くから、留守番しててね。何かあったらエマに言うように。大抵のことには対応してくれるから、頼っていいからね。それとやたらに斬りつけたり、殺したりしないように。それからそれから、あなたはこの山から脱出することは基本的に不可能だから、それは忘れないように」

 上目遣いにシナークがこちらを見た。

「この山の結界はお前が組んだのか?」

「まさか」

 私はくすくすと笑ってしまった。

「あんなに強力で精密な結界は、まだ私の力量じゃ無理ね。あれは両親が共同で構築したの。私の身を守るためにね。今の私にはそれほど必要じゃないけど、あなたを閉じ込める役には立つ」

 自慢半分、からかい半分でそう言ってみたが、シナークは特に怒りもしないようだ。

「俺の魔術破壊魔術と、力比べをしてみるか?」

「本気で言っているの? もし失敗すれば、あなた、体が爆発しちゃうわよ」

 失笑混じりの私にいよいよシナークもかすかに怒りを覗かせたけど、乱暴にグラスを煽る動作で誤魔化したりしている。意外に可愛いじゃないか。

 魔術破壊魔術という分野は、私もよく知っている。いくつかの手法があって、最もスタンダードなのは魔力に魔力を叩きつけて相殺させるというやり口だ。もっとスマートになると、対象の魔力の波長と自分の魔力の波長を同期させて、そこから相手の魔力を崩し、魔術全体を破綻させることもできるけど、それは高等テクニックだ。

 どうもシナークは魔術を使うものの、専門の教育を受けているようでもないし、そもそも魔術師の家系と言っても、だいぶ血が薄まっているんだろう。

 食事を終えて、洗面所で歯を磨いていると、そっとエマが背後に忍び寄ってきたのが鏡で見えた。

「なぜ、お客様にあのようなことを?」

「あのようなことって?」

 鏡越しに式神が冷ややかな視線を向けてくる。

「下着姿でどうこうと聞こえましたが?」

 聞き間違いじゃないかなぁ、式神にもそういう錯覚ってあるのねぇ、と誤魔化して、さっさと自分の部屋に逃げた。

 っていうか、下着姿云々の前に、屋敷の結界のことを伝えた真意を確認する方が重要なのでは?

 制服に着替えて、髪の毛をもう一度、整える。

 廊下に出ると、エマが待っていて、お弁当箱を渡してくれる。

「行ってらっしゃいませ」

「シナークをお願いね」

 かしこまりました、とエマが頭を下げる。

 私は隣の部屋のドアのノブに触れて、魔術を発動させる。刹那で魔術通路が形成される。

 ドアを開けて、通り抜けた先は、異国の空気だ。

 後手にドアを閉め、いつでも薄曇りの埃っぽい空気の中に佇む、古代建築と現代建築の融合した校舎を見上げた。



(続く)

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