1-4 激変の一日
◆
食後にデザートとして和菓子が出た。
「桜餅、わかる?」
まだぎこちないながら、頷くと、よろしい、などと赤羽火花は笑っている。
「で、あなたはまだ私に名前も明かしたくないの? でも、死の導き手の情報を検索すれば、すぐわかるわよ。有名人だし」
「情報は厳密に管理されている」
「守護霊体を常に維持する私が、他人の頭の中に魔術的に干渉できないと思う?」
とんでもないことを言い出したな。ただ、膨大な魔力があれば不可能ではない。
人間の意識と記憶の間には、魔力の干渉を不規則にする壁のようなものがあるのは、俺も知っている。しかしその不規則の壁も、強力な攻撃が可能ならば、突破も不可能ではない。
そして目の前の少女には、その力があるのは認めざるを得ない。
「あなた自身の頭の中を探ってもいいわけだけど?」
いよいよ本格的に恫喝され、俺は諦めるしかなかった。
「シナーク、という名前だ」
「シナーク。それって本名?」
「家族が殺された時、俺は別人になった。名前なんてどうでもいいだろう。シナークという名前が、今の俺の名前だ。文句があるか?」
「とんでもない。文句なんてないわ。よろしく、シナーク。桜餅、もう一つ食べる?」
頷くと、素早く式神がもう一つ、桜餅を持ってきた。
夕食が終わり、お茶も飲み終わると、本当に家事を式神に丸投げしているらしく、後片付けもせずに赤羽火花は俺を空き部屋に案内していった。その道すがらにトイレの場所とお風呂の場所を教えてくれた。
与えられた部屋は客人のために整えられているようだが、夕食の間に式神が掃除をしたのか、まるでどこかのホテルのようだ。
「荷物がないようだけど、明日には身の回りの品が揃うようにするわね。歯ブラシもあるし、ドライヤーはそこ、櫛もね、当面の着替えとして用意してあるのはそっちのクローゼットの中、CDプレイヤーもあるし、CDのコレクションは図書室ね、自由に本は読んでいいわ、朝ごはんは七時からだからね、オーケー?」
よくわからなかったが、言い淀みつつ、「お、オーケー」と答える。
よし! と声を出して俺の肩を叩き、
「また明日ね。おやすみなさい」
颯爽と赤羽火花は部屋を出て行ってしまった。
ひとりきりになり、ベッドに腰掛ける。柔らかい感触は、いかにも高級そうだ。この屋敷のある山に来る前に一泊したビジネスホテルとも比べ物にならないが、仲間たちの拠点や俺が生まれた家のベッドとは、全く違う。
満ち足りた生活。穏やかな生活。
何より、強力な力。魔術という暴力。
「そこにいるのか? 守護霊体」
誰もいない部屋の隅に声をかけると、姿を見せない相手からの変に反響した声が部屋に流れる。
(お前など、一撃で葬れることを忘れるなよ、小僧)
「守護霊体と張り合える魔術師は少ないさ」
(もう一度、火花に手を上げてみろ。お前のクビが飛ぶと思え)
もっと仲良くしたいね、と呟くが、もう返事はない。守護霊体は去ったのかもしれないが、守護霊体という存在は、どこにでもいるものだ。あまり迂闊なこともできないな。
ベッドに横になってから、まずは風呂に入ろう、と決めた。風呂なんて祖国ではなかったが、世界を少しずつ理解して、好きになった文化だ。
部屋を出て風呂へ行くと、ドアの先はだだっ広い脱衣所だ。これなら十人は同時に利用できるだろう。隅の方を利用して、カゴに服を放り込み、浴場に入る。
こちらもとんでもなく広い。本当にホテルの大浴場みたいだ。体を流し、素早く全身を洗うと、石鹸の泡を流し、湯船に浸かる。
ちょうどいい温度だ。こういう時、日本人は、極楽、極楽、などと言うそうだが、さすがに理解が難しい。そもそも極楽とはなんなのか。俺は幼い頃はイスラム教に触れていたが、すっかり忘れてしまった。
俺の仲間たちが無宗教を貫いていたからだ。
魔術師という奴は不思議なもので、自らが本来的な人間の領分を超えた奇跡を行使するためか、神の存在に依存するものは少ない。
むしろ、自らが神の座に上がろうとするのが、魔術師かもしれない。
だいぶ暖まってから、俺はザバリと湯船を出て、全身を拭い、脱衣所へ戻る。
「あら」
脱衣所で、赤羽火花が服を脱ごうとしているところだった。
そして、俺は全裸だった。
「今度から」
赤羽火花が動揺するでもなく、しげしげとこちらを見ている。
「誰が入浴しているか、わかるようにしないとね」
俺は彼女に背を向けて脱衣所から逆に走り、浴場に戻ると反射的に湯船に飛び込んだ。
「私は後にするか、ゆっくり温まってね、シナーク」
脱衣所からそんな声が飛んでくる。さすがに振り向くことはできなかった。笑い声が離れていく。
くそ、なんでこんなことに。
しばらく湯船に沈んでから、改めて脱衣所へ。ゆっくり戸を開けて伺うが、赤羽火花はいない。まったく、なんて女だ。恥ずかしいとか、そういうことを考えないのか?
俺が服を着ようとすると、外に通じるドアが開き、そこからまた赤羽火花が顔を出す。
「ああ、ごめん。まだだったか」
俺はさすがに頭にきて、服を入れるカゴの一つを投げつけていた。
きゃー、などとふざけて言いながら、赤羽火花が逃げていった。
くそっ!
俺はさっさと服を着て、廊下へ出た。
自分の部屋に戻り、鏡台の前で髪の毛をバスタオルで拭い、ドライヤーで雑に乾かした。ドライヤーなんて、滅多に使わない。普段は自然と乾くのに任せているし、乾きやすいように、短めに髪の毛を切ってもいる。
面倒になってベッドに倒れこみ、布団の中に入る。枕元のスイッチで部屋の明かりを消した。
今日の朝までは、赤羽火花を殺すことしか考えなかった。
それが一日が過ぎてみると、当の殺す相手の世話になって、柔らかいベッドの上で眠りにつこうとしているとは、自分でもよくわからない展開だった。
今はこれを受け入れるとしよう。赤羽火花を油断させればチャンスも生まれるかもしれない。守護霊体は厄介だが、どこかに油断が生じる可能性もある。
それに、赤羽火花のことを理解していけば、そのチャンスや油断を、より早く、より正確に理解することにも繋がるだろう。
そんなことを考えているうちに、眠りがやってきた。
夢の中で、誰かが叫び声をあげる。両親、そして姉の断末魔。
魔術生物が咆哮し、ビリビリと俺の体が震える。
十年前のあの瞬間は、今でもこうして夢の中で、繰り返し繰り返し、再現される。
目が覚めることだけを念じて、しかしなかなか夢は覚めない。
母と姉から生まれた魔術生物が、俺の方へやってくる。巨大な手が振り上げられる。太い腕がしなり、手の先の鋭い爪が、俺を抉る。
瞬間、覚醒していた。
カーテンの向こうはまだ薄暗いようだ。ベッドから降りて、カーテンを開ける。やはりまだ夜明け前。部屋にある時計を見ると、五時にもなっていない。
しかし眠り直す気にもならないので、少し体を動かすことにした。
服装を整え、俺は部屋を出て、中庭へ向かった。
開けた場所を見つけて、体を動かす。体術の動きと、剣術の動きを確認。
俺はまだ、一本の刃としての力を失っていない。
赤羽火花や、ハルハロンと呼ばれた守護霊体のデタラメさに、実は気落ちしていたかもしれない。彼らが異常なだけで、俺だって、並じゃない。
必死になって、俺は体を動かし続けた。
(第1話 了)
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