七話
驚きのあまり言葉を失う。それは座間や藍原も同じようだった。
感情エネルギーを利用してきた張本人が、まさかそれを消そうと言うのだ。
「どうして、そんなことをするの?」
絶句する俺達に代わって、プリシアが尋ねた。
「どうして……だと?」
視線を向けられたプリシアが小さく悲鳴を零す。
無理もない、ハイトの眼光には刃物に喩えることさえ甘く感じるほどの鋭さがあった。
「我々精霊は、人間界から漏れ出た感情エネルギーに多かれ少なかれ影響を受けた。人間のせいで、我々は感情などという不要物をこの身に植え付けられたのだ」
ハイトの言葉には、それこそ剥き出しになった感情が乗っているように感じる。それはきっと、
「苦痛、憎悪、悲哀、私はこんなものを知る必要などなかった。知りたくなどなかった。だが知ってしまった。私はこのどうしようもない負の感情を、決して消えぬほどに深く心に刻みつけられたのだ!」
感情に対する強い感情、憎悪だ。
プリシアが感情に触れることで世界の美しさを知ったように、ハイトは同じように感情を知り、しかし真逆の世界の汚さを見せつけられてしまったのだろう。
「感情は不要な闘争や軋轢を生み出す。これは我々精霊に、世界に必要のないものだ。ゆえに私はこの世界から感情を消し去る」
「そんなことができるなどと、君は本気で考えているのか」
「できるさ。もっと多くの感情エネルギーを収集すればな。私は未来のために己を捧げよう。感情という地獄に、この身を突き落としてでも悲願を成就させる」
ヴェールの揺さぶりにも一切動じず、ハイトは演説する指導者のごとく腕を横に振るった。
「貴様らはどうだ!? 貴様らにならわかるはずだ、感情により傷つけられた貴様らになら。私に力を貸せ。今こそ感情を、その苦しみを捨て去るときだ」
みんな下を向いてしまう。
ハイトの言う通りだった。ここには感情のせいで辛い経験をした者しかいない。プリシアやヴェールでさえ、その感情に振り回されて苦しい思いをしている。
いっそのこと、こんなものなければいいのかもしれない。苦しまずに済むのかもしれない。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもなくなるのかもしれない。
――だとしても、
「ふっざけんなぁぁぁぁぁ!!!!!!」
俺は声高に叫ぶ。
他人の感情を踏みにじることは、自分の感情を蔑ろにすることは、俺がもっとも許せないことだから。
「俺は感情のせいで傷ついた。だけどっ、俺は絶対にこの気持ちを捨てたりしない。何かを好きだと堂々と言える自分が、どうしようもなく好きでたまらないからなァ!」
「……本当に、理解に苦しむよ。この痛みを知りながら、どうして無駄な反抗を続けようとするのか」
ハイトは呆れたように首を振ると、しかしすぐにその貫くような視線を俺へと向けた。
「ならば、これでどうだ?」
そう言ってハイトが手を天にかざすと、上空に黒い穴のようなものがぽっかりと空く。そこからおもむろに姿を現したモノを見て、俺は目を見開いた。
「梨子ッ!?」
それは紛れもなく、俺の妹だった。禍々しく発光する鎖のようなものに縛られて、意識はなさそうだが時折うめき声を漏らしている。
「この少女から発する濃密な負の感情エネルギー、それをいま私の中に取り込んでいる。より長い時間をかけて醸成されたエネルギーほど質がいいということも、貴様らに教わったことだ」
「梨子から、負の感情エネルギーだと……?」
「そうだ。そしてそれは、貴様のせいだ。美泉柿太郎」
衝撃の事実に、とうとう俺も二の句を継げなくなる。
ハイトは追い打ちをかけるように俺を睨みつけた。
「教えてやる。貴様は感情により傷つけられただけではない。この世に感情が存在するせいで、貴様は実の妹を傷つけたのだ」
黒い粒子のようなものが空に飛び散る。それは波となって俺の全身をさらい、俺の中に何かを流し込んできた。
それは、記憶。
それは、感情。
美泉梨子という少女がずっと身の内に秘めてきた、闇の正体だった。
――中学に上がって少しした頃、同級生にあることを訊かれた。
梨子の声が脳内に反響する。
――美泉さんって、三年の美泉柿太郎っていう人の妹なの? と。私が頷くと、その子は重ねて尋ねてきた。お兄さんって、家でも変な人なの? と。
――確かに、兄はどちらかといえば変な人だったと思う。ある日突然「耳かきをしてやる」と言ってきて定期的に私に耳かきをしてくれるようになったし、ヘッドホンをつけてだらしない顔をしていることもしょっちゅうだ。
――でも私は、そんな兄のことが好きだった。暇さえあればいつだって遊んでくれたし、勉強がわからなかったら教えてくれたし、困ったことがあったらいつも助けてくれた。私にとって自慢の兄だった。
――だけど、私は。私はきっと、いい妹ではない。
――兄が一年の時、学校にバラの花を持ってきて告白をしたという話を聞いた。そんな人が家族なんて恥ずかしいよね、そう笑いながら言うクラスメートに、私はつかみかかって、引きずり回して、その無駄に整えてある前髪をむちゃくちゃに切り刻んでやりたい気分だった。
――私はそうしなかった。ただ笑って、そうだねと頷いていた。
――恥ずかしかった。あんなに大好きな兄を、お兄ちゃんを好きなのだと主張することが恥ずかしかった。私のお兄ちゃんをバカにするなと声を上げることが恥ずかしかった。
――なにより、お兄ちゃんのことを恥ずかしがっている自分自身が、一番恥ずかしかった。
「わかるか美泉柿太郎。これが貴様の妹が抱えている感情だ」
「梨子……」
妹が決して見せなかった弱音の数々に、俺は呟きを漏らす。
恥ずかしいのは俺の方だ。こんなくだらないことで、俺はおまえを苦しめてきたのか。苦しめているということに気づいてさえやれなかったのか。
――お兄ちゃんと仲良くする資格が、私にはないんだと思った。お兄ちゃんとどういう風に接していたのか、わからなくなった。そのまま何年もの時間が過ぎてしまった。
そんな小難しいこと考えなくていい。俺は今だって変わらずおまえの兄でいるのに。
――最近、お兄ちゃんに彼女ができた。
……ん?
――すごく可愛らしいというか、綺麗な人だった。なぜか髪の毛はすごい色をしていたけど、正直なところすごく贔屓目に見てもお兄ちゃんにはもったいない人だと思った。
待て待て待て待て。
――私から見ても釣り合わないのだから、私以外の人から見たらまさしく月とすっぽんぐらいの格差カップルに見えることだろう。
「なんか変なの一緒に流れてきてるけど!?」
「貴様はこのことを知ってもなお、感情を捨てる必要はないと主張するのか? 貴様の妹が抱える、これほどの負の感情エネルギーを知ってもなお!」
俺の制止にもかまわず、ハイトは梨子の感情を俺の中に流し込んでくる。
――彼女はお兄ちゃんに膝枕をして、あまつさえ耳かきをしていたようだ。私でさえ触ったことのないお兄ちゃんの耳かき棒を、彼女は手にしていたのだ。
――私は心臓が破裂してしまいそうなほどの動揺を必死に押し隠しながら部屋の戸を閉めた。そして自分の部屋へと駆け込み、枕に顔を押しつけ思い切り叫んだ。
――私がっ! 私がっ、お兄ちゃんに耳かきをしてあげたかったのにっ!
「いい加減にわかったはずだ。感情に存在する価値などないということを」
「いろんなことが一気に判明しすぎて頭こんがらがってんだよちょっと黙ってろ!」
怒鳴り散らせども頭に直接響くような梨子の声が消えることはない。
――膝枕だってしてあげられるしっ、密かに買っておいた耳かき棒で練習だってしてるしっ、私が誰よりも早くお兄ちゃんに耳かきしてあげたかったのにっ、なんでなんでなんでなんでなんでああもうっ!
「えぇ……待てよぉ……」
俺は力なく声を漏らした。
要するに、だ。いま梨子が発している負の感情エネルギーとやらの正体は……、
嫉妬?
「理解したか。ならば私の手を取れ。共に世界から感情を消し去ろう」
「これで説得できたと思ってるならおまえとんでもない大物だよ……」
気づけば視界は晴れ、朝日が降り注ぐグラウンドの光景が目の前に広がる。
「カッキー……」
「美泉くん……」
「皆まで言うな、言わないでください」
座間と藍原に懇願してから、俺は顔を上げる。視線の先にいるハイトは、つい先ほどまでレベルをカンストしても勝てない裏ボスのように見えたというのに、今となっては着込んでいる鎧さえコスプレに見えてなんだか滑稽な人に思えてきた。
「とりあえず、礼を言うぜ」
「我が野望の崇高さに気づいたか」
「いいや。それはやっぱりさっぱりだ」
「なに?」
怪訝そうに眉をひそめるハイトに、俺は言う。
「梨子に嫌われてるわけじゃないってわかってよかったよ。だから余計に、俺はおまえを食い止めなきゃならない」
「なぜだ。貴様のせいでこの少女は途方もない苦しみを味わい続けてきたというのに」
「それも謝らなきゃいけないし、なによりも言ってやらなきゃならないことがあるからな」
「それはなんだ」
「決まってる」
俺はビシッ、とハイトに指を突きつける。
「俺だってずっと、妹が大好きなお兄ちゃんなんだってことをな!」
「カッキーはシスコンだったのか」
「シス、コン……」
「シスコンってなにー?」
「妹に常識を逸脱するレベルの愛情を注ぐ者、という意味らしい」
「ええいなんとでも言うがいい! 俺は好きなものにはとことん好きと表明し続ける男! 当然、父も母も妹もっ、一応兄のことも大好きなんだよ!」
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