六話

「え?」


 どこか戸惑うようなプリシアの声。


「それ、どういう」

「俺はおまえに耳かきをしてもらうためにヒーローになった。その目的は達成されたんだ、もうヒーローをやる理由はないだろう」


 いつだったかヴェールも言っていた。『精霊は人間に見返りを与える代わりにヒーローとして戦ってもらう』のだと。

 耳かきをしてもらう分の働きを、俺は充分に終えているはずだ。


「藍原もヒーローをやってくれると言ってる。座間も、役に立つかは知らんが試合のない日なら大丈夫だろ」

「でも、大丈夫じゃないかも」

「そんなこと、俺がいようといなかろうと同じだろ。何より、何度も言うが俺にヒーローをやる〝理由〟はない」


 そうだ。俺は善人じゃない。最初から耳かきをしてもらうためにヒーローになったんだ。

 俺はこういう人間だ。俺は俺のやり方を間違えてはいないはずだ。

 俺は――何も変わっていないはずだ。


 すっかり押し黙ったプリシアに、さらにダメ押しのホームランを叩き込むように告げる。


「それに、おまえもこんな文句ばかり垂れる奴と離れられて清々するだろ」

「っ」

「今まで手間をかけさせたな。今日のことはちゃんと覚えて墓場まで持って行かせてもらうさ」


 さて、と身を起こしかけた俺の頬に、何かが当たった。

 なんだと思い首を捻って上を向く。視界に映り込んできたものを見て、こぼれ落ちんばかりに目を見開く。


「ぇぁ、ご、めん。あれ、なんでだろ」


 プリシアが、泣いていた。

 大きな瞳にいっぱいに涙を湛えて、溜めきれなくなった雫がポロポロと俺を糾弾するように落ちてくる。それを避けることすらできず、俺は身動きが取れなくなってしまう。


「止まんない、や。これ、なんだろ。あはは、おかしくなっちゃったのかな、私」

「おまえ」

「ごめんっ」

「――おわっ!?」


 プリシアが勢いよく立ち上がり、俺は膝に乗せていた頭を押し出されるようにしてベッドから転げ落ちた。床にぶつけた鼻っ柱の痛みに悶絶する。


「ちょっ、待て、っ!」


 駆け出したプリシアを鼻を押さえながら呼び止める。彼女はドアを開けてからふと立ち止まって振り返り、泣き顔に無理矢理笑みを浮かべる痛々しい様子で、


「――バイバイ、カキタロー」


 ただ一言、別れの言葉を告げていなくなった。



――――――――――――――――――――



 それから、プリシアが帰ってくることはなかった。梨子と二人きり、どこか気まずい夕飯を終えて部屋に戻り、動画サイトで新着の耳かき音声を聴き漁っても、プリシアは帰ってこなかった。

 別に、何の問題もない。元々そういう予定だった。最終的にはこうなるはずだった。ただちょっと、あいつの反応が予想とかけ離れていたというだけに過ぎない。


 精霊は元々、感情とは無縁の生き物だったという。人間の感情エネルギーに影響されて芽生えた自分達の感情を持て余しているのだと、ヴェールも言っていた。昨日のあれも、きっとそういうものだ。なんだかんだ、突然終わりを告げられて動揺したのだろう。だとしたら悪いことをしたかもしれない、もう少し丁寧に、時間をかけて俺達の関係を終わらせればよかったのだ。


 ふっ、まるで冷え切った恋人みたいなことを考えているな。恋人なんていたこともないくせに。初恋の相手にフラれて恋愛などとは無縁だったくせに。

 ふふっ、あははっ、あはははははは!


 ……まったく、笑えん。


「なんか顔色悪いけど」


 翌日、朝食の席で梨子に指摘された。妹が素直に心配してくるということは、よほど俺は酷い面構えをしているのだろうか。


「……べつに、なんでもない」


 短く返すと、俺は残りのご飯を無理矢理かき込んで食卓を離れた。洗面所に行ってみれば、確かにいつもより青白い気がする冴えない面が鏡に映っている。


 だからといって体調が悪いわけではない。俺はいつも通り高校へと向かった。

 そうだ。今日からは登校中も耳かき音声が聴ける。誰に邪魔されることもなく、ヘッドホンの奥から届く甘美に酔いしれることができるのだ。

 嬉しいことのはずなのに、どこか心が弾まない。むしろ街中の雑踏が今までより煩わしく感じる。ヘッドホンの防音性が悪くなったのだろうか。


 教室にたどり着くと、クラスメート達の談笑の声がもはや耐えられないレベルに思えた。いっそ叫んで怒鳴り散らせば静かになるだろうかと、くだらないことを考えていた俺を誰かが呼ぶ。


「美泉、くん」


 淀みない川のせせらぎのようなその声は藍原のものだった。

 振り向くと、どこか気遣わしげにこちらを覗き込んでいる。


「元気、なさそう」

「俺はそんなにダメそうな顔をしてるか」

「ダメそう、っていうか」

「心配ない。俺は元々そんな感じだ。ヒーローなんて役者不足の男なんだ」

「待って」


 一方的にまくし立てて席に向かおうとする俺の袖口を、藍原の指がつまんだ。


「プリシアちゃん、私の家に、きたよ」

「……そうか」


 それだけ返すと、藍原も手を離してくれた。ほとんど無意識のうちに辺りを見回す。いない。学校には連れてきていないのか。もしくは、俺には見えていないだけか。

 どちらにせよ、もう俺には関係ない。

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