五話
衝撃的な試合観戦を終えて帰宅した頃には、すっかり夕陽も落ちかけていた。
部屋に入り、短く息を吐き出す。梨子はまだ帰ってきていないし、両親もどこかへ出かけているようだ。家の中には、俺とプリシアしかいない。
「休日っていうのはな、休むためにあるんだぞ」
そんな愚痴を吐き出せど、返事をする者はいない。不審に思ってプリシアを見ると、彼女はどこかぎこちない足取りでベッドの傍へと歩み寄り、すーはーと音がするほど大きく深呼吸をしてから帽子を外して寝台の縁に腰掛けた。
「俺より先に休憩しようってか? いい度胸だな」
「……ねえ」
俺の軽口には応じず、プリシアは仄かに上気した顔をこちらに向けた。
ほんの一瞬の沈黙、しかしそこに漂う妙な甘ったるさに胸の奥がざわざわする。その予感を肯定するように、綺麗な桜色の唇が言葉を紡ぐ。
「耳かき、してあげる」
思わず息を止める。ついにその瞬間が訪れたのだと、頭と心が同時に理解した。反面、身体は現実についていけないかのように動こうとするのを拒んでいる。
身動きが取れずにいる俺を咎めるでもなく、プリシアは柔和な笑みを浮かべて、
「膝に頭、乗せて?」
そのあまりにも聞き慣れたフレーズに、ようやく俺の身体は反応した。脚が自然と、吸い寄せられるようにプリシアへと近づいていく。
さながら前奏もなしにいきなり歌が始まる楽曲のように、導入もそこそこに即座に耳かきへと移行する。それは俺が敬愛する同人作家の耳かき音声で、頻繁に見る構成だ。動画サイトに投稿される音声作品などは、動画時間も短めのためそういう場合が多いものである。
俺はベッドに身を横たえ、プリシアの膝に頭を乗せる。スカートの柔らかな生地が肌に優しく、ほどよい肉付きの彼女の足から頬を包み込むような温もりを感じる。視線の先には綺麗な膝頭が見えた。
「それじゃあ、耳かき、するね」
どこか普段よりも強張ったような声。プリシアはいつの間に用意していたのか耳かき棒を取り出すと、空いている方の手を俺の頭に添えた。
「ん……っ」
左耳に耳かき棒が差し込まれるのを感じて息を漏らす。誰かに耳かきをしてもらうなんていうことは、子供の頃に母にやってもらって以来だった。
はじめのうちはプリシアの手つきは拙くて、耳を掻くというよりはおっかなびっくり触れるだけというような具合だった。むしろくすぐったさが募るのをじっと耐える。言葉少なに奮闘する様子から、プリシアの一生懸命さが伝わってきた。
次第に慣れてきたのか、ほどよい力加減に近づいていく。むやみに耳の中を傷つけるようなこともなく、しかし掻いているという実感は得られるぐらいの感触。鼓膜を傷つけないように耳かき棒を短く持つという基本中の基本も、しっかりと実践しているようだ。
「……思ったより、上手いな」
「えへへ、そうかな」
素直に褒めると、プリシアの照れくさそうな声が降ってくる。先ほどまでの緊張も、少しは和らいでいるようだ。
「ちゃんと勉強したからね」
「勉強?」
「今朝、カキタローが起きる前にパソコンでいろいろ調べたの。カキタローのお気に入りの耳かき音声も聴いて、参考にしてみた」
「待て、なんでおまえが俺のお気に入りを知っているんだ」
「ずっと一緒にいるんだもん。それぐらいわかるよ」
当たり前のように言われて顔が熱くなる。確かに、好きな作品は寝食さえ共にする勢いでリピート再生しているからプリシアにバレていても不思議ではない。
ほどなくして、プリシアが嬌声を上げる。
「うわぁ、すごい耳垢取れてるよ。見る?」
「そんなとこまで再現せんでいい……」
耳かき音声には取れた耳垢を「戦果」と呼び、隙あらば見せつけてこようとするタイプの女の子が稀に出現する。拒否反応を起こすほどではないが、取り立てて好きなタイプではない。
取れた耳垢をティッシュで包む音、そしてプリシアが顔を近づけてくる気配。
「それじゃ、耳の中、ふーってするね」
「んん――ッ!!」
プリシアの髪の毛先が頬をくすぐり、吐息が耳朶の内側を蹂躙する。
――耳ふーっ! 耳ふーっ!!!!
あらゆる感覚を蹴散らし脳内を快感が埋め尽くす。蕩ける! っていうかもう溶ける! 何がかはわからないが人としての尊厳とかを司る大事なものがすべて融解して消えてなくなりそう――だがそれでいい!
これは俺が勝ち取った勝利だ。見よ! 幾多の怪人達をちぎっては投げボコっては飛ばし、とうとうこの約束の地へとたどり着いたのだ!
もう何も要らない……。
「カキタロー、なんかだらしない顔してる」
「……認めるよプリシア。振り回されて最悪な一日だと思っていたが俺が間違っていた。今日という日は俺の人生において間違いなく最高の一日だ。ありがとうプリシア、そしてありがとう」
「大げさだなー」
笑い声でさえASMRの一環であるように聞こえる。このままだと本格的に堕落してしまいそうだ。
夢見心地な気分を残酷な現実へと引き戻したのは、部屋の戸をノックする音だった。
「お母さんが帰り遅くなるから夕飯すませておいて、って」
妹よ、ノックはすればいいというものではない。した上で相手からの応答を待たねば意味がないのだと、説教する余裕はなかった。
梨子の視線が俺を、俺とプリシアを射貫く。より克明に描写しよう、妹の目には見たこともない奇抜な髪色の女に膝枕されている実の兄の姿が映っている、うーんヤバい。
「…………………………」
夏の海で騒ぐヤンキーボーイやヤンキーガールでさえ思わず沈黙してしまいそうなほどに凍った空気の中、いっそ詰ってでもくれればどれだけ楽だったろうか。「ああ、また妹からの好感度が下がった」と明確に理解できればどれだけよかっただろうか。
梨子は暗黒を湛えた目を決して俺達から離すことなく、そのまま無言でドアを閉めた。
「……カキタロー?」
「誰も悪くない。強いて言うならタイミングが悪い」
要するに運が悪い。あと多分日頃の行いが悪い。
すっかり心が冷え切ってしまった俺は、長いため息をこぼした。
「もはや耳かきしてもらうような気分じゃないな……我ながら重症だ」
「カキタローは生首になっても耳かき音声を聴いてそうだもんね」
「なにその生々しい妄想、やめてくんない? さすがにそこまで人間やめられないから」
イヤホンつけてる生首とかそれなんてホラーだよ。
「どうする? 反対側もしなくていいの?」
「ああ、いや充分だ。もう悔いはない」
「だから、言い過ぎだって」
「そんなことはないさ」
俺は軽く鼻で笑い飛ばし、
「これでもう、全部終わりなんだからな」
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