四話
プリシアの一声で、俺達は市民球場へとやってきた。
ちょうど我らが鈴見高校野球部が試合をしている。以前「応援に来てくれてもいいんだぜっ」などとなぜかウィンクをしながら言ってきた座間を思い出した。あいつ白目剥いてたんだよな、あの時。
入場チケットを購入し、観客席へと向かう。高校野球の観戦って金かかるんだな、服を買わされた今の俺にはもはや気にならない程度の額だが。完全に金銭感覚が麻痺している気がする。
客席は満員というわけではないがそこそこ盛況のようで、各校ベンチ近くの席には父兄をはじめとした熱烈な観客、各校の部員、吹奏楽部やチアリーディング部などがワーキャーと騒がしい。
さすがにその周囲に近寄る気はないので、比較的空いているスペースにプリシアと並んで腰を下ろした。
「ねえ、あれキュウイチじゃない?」
座席に座ったプリシアが早速声を上げる。見やれば、マウンドに見覚えのある顔が立っていた。背番号には燦然と輝く1の文字。高校野球の伝統とかはよくわからんが、1番なのだからすごいのだろう、多分。
「本当にエースピッチャーだったのか」
短くため息を吐きながら感心する。いや疑ってたわけじゃないんだが。
試合は六回裏、鈴見高校の守備で点差は1-0とリードしているようだが油断できない戦況だ。
「ねえねえカキタロー、野球ってどういうものなの?」
「わからないのに見たがってたのかよ」
「わからないから見たかったんだよー」
ふむ、一理ある。そう思って、俺は説明してやることにした。
「いいか、これから座間がボールを投げる」
「うん」
「それをあそこにいるバッターが打つ」
「うん」
「すると俺が喜ぶ」
「へえ!」
プリシアが綺麗な瞳でほうほうと唸っている。誰も指摘してくれないとテキトーなことを言ったときの後ろめたさがすごい。
「まあ……今のは冗談だ」
「えっ、そうなの?」
「欲を言えば、最後まで一球も打たれないのが理想だな」
簡単に野球のルールを教えてやっているうちに試合も進んでいく。座間は何度か危なげな場面を迎えつつもすんでのところで敵チームを抑え、八回までを投げ抜いた。
九回表の鈴見高校は追加点をもぎ取ることができず、ピッチャーを楽にしてやることは叶わない。
とうとうやってきた九回裏、マウンドに座間が立つ。どうやら最後まで投げきるつもりらしい。
この炎天下、俺ならあんな灼熱のマウンドに立つだけでも嫌気が差すことだろう。それを座間は、きっとこの夏だけでも何時間と味わってきた。そしてその何時間のためだけに、何十時間も何百時間も自分の人生を捧げてきたのだ。
自然と膝の上に置いた拳に力が入る。
座間のピッチングは、ここに来ても衰えを知らない。ニュースで話題になるような神童というわけではないのだろうが、速度もコントロールも悪くないように思う。事実、ここまで相手校をキッチリ抑えてきたのだ。
だから、褒めるべきは敵チームなのだろう。
ついに敵のバットが座間の球を捉え始めた。一人目の打者はセカンドゴロに倒れたものの、二人目はセンター前に落とすちょうどいい当たり。続く三人目は右中間を抜けるツーベースヒットでランナーが二三塁にたまってしまった。
それでもなんとか踏ん張ろうとした座間は、この回四人目の打者から見事三振を奪い取ってみせた。しかし次の打者を四球で出塁させてしまう。
九回裏ツーアウト満塁、点差は一点。いよいよ大詰めという場面で相手をするのは敵チームの四番。カウントはすでにツーストライクスリーボールまできている。
「漫画かよ……」
そんな呟きを漏らさずにはいられなかった。鈴見高校ベンチに近いところでは、年配の女性が祈るように手を組んでいる。もしかしたら座間の家族かもしれない。
「カキタロー……」
「打たれたらかなりまずい。そんなところだ」
手短に状況を説明する。ホームランなんてもってのほかだし、ただのヒットでも二点タイムリーになる可能性は大いにある。ファウルでさえ座間の体力を考えると勘弁願いたいところだ。
フォアボールなんて言語道断、いたずらに体力を消費しただけで同点に追い込まれてしまう。打たれる打たれないにかかわらずとんでもない窮地だ。
マウンドに立つ座間は、もうすっかり息が上がっているように見える。肩を大きく上下させ、太陽を見上げながら手の甲で額の汗を拭っている。
座間が二三度ほど小さく頷くような動作を見せた。キャッチャーのサインを確認した、という風ではない。まだ座間は構えてすらいない。
熱狂のど真ん中で、座間が腕を振り上げる。その姿にどこか異様な気配を感じた俺は思わず立ち上がり――
金属バットの奏でる快音は、聞こえなかった。
ボールがキャッチャーミットに飲み込まれる音もしなかった。
バッターは空振ったバットを構えたまま硬直し、キャッチャーは前のめりにうずくまっている。座間のボールは、キャッチャーのプロテクターに当たってホームベースの傍に転がっていた。
結局、キャッチャーがボールを拾い上げホームベースを踏み、審判のアウトコールで試合は終了した。野球のルールはよくわからないが、キャッチャーが球を取りこぼすとややこしいことがあるらしい。
そんな煩雑なことはどうでもよくて、俺の視線はただバックスクリーンに煌々と点灯している数字に釘付けだった。
「……マジで漫画じゃねぇか……」
時速160キロ。野球に詳しくない俺でもわかる。それはもはや、メジャー級の球速だった。
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