四話

 四時限目の現代文は、さすがにシャーペンを走らせる音は聞こえてこなかった。


 教室を見渡してみると、先生不在に乗じて友達と談笑する者、縦横無尽に立ち歩く者、頬杖ほおづえをつきながら物思いにふける者であふれていた。

 こいつらのなかには、空いてる自習監督の先生が様子を見に来るんじゃないか、という警戒心はないのだろうか。


 前席の葉山はというと、だらしのない格好で机に突っ伏して爆睡していた。 


 みんな無防備すぎて心配になる。

 せめて、僕の邪魔だけはしないでくれと切に願うばかりである。


 僕は持参した文庫本を鞄から取りだして、しおりの挟んであるページを開く。

 今読んでいる本は、数日前に駅前の書店で購入した『桂川かつらがわに恋の橋は架かる』という全国書店大賞にノミネートされた話題沸騰中の恋愛小説だ。

 

 生粋きっすいの恋愛小説を読むのはこれが初めてだった。

 恋愛小説なんて無縁に等しかった僕だけど、全国書店大賞の肩書きに魅了され衝動的に購入してしまった。

 

 僕はベストセラー、全国書店大賞、何万部突破と記載されている書籍には目がない。

 ついつい手にとって読んでしまいたくなる。

 僕の悪い癖だった。


『桂川に恋の橋は架かる』のジャンルとしては青春純愛小説で、舞台は京都。

 

 京都・嵐山を代表する夏祭りの夜、嵯峨野さがのの竹林で運命的な出逢いをした二人の高校生の男女が、お互いに心を通わせていく過程で恋愛感情を抱いていることに気がつくが、その想いを伝えられないまま時間だけが過ぎていく。

 大まかなあらすじはこんな感じだ。


 表紙には嵐山の象徴である渡月橋わたつきばしが、水彩画のようなデザインで繊細せんさいに描かれている。

 第一章の半分くらいまで読み進めていたときだった。


「なーに読んでるの?」


 不意に後方から、彼女、東雲さんが僕のところにやってきた。

 僕は小説から視線を変えない。

 活字だけを視界にとらえた状態で彼女の質問に答える。


「小説だよ」

「そんなの見ればわかるよ。どんなジャンルの本読んでるのかなぁーって」

「自己啓発の本だよ」

「嘘だね」


 彼女は迷いなく言った。

 どうやら、この本が自己啓発ジャンルではないと直感的に見抜いているらしい。


 彼女がそう簡単に引き下がってくれない性格なのを僕は知っている。

 最初に会話をしたときもそうだった。


 こんな僕でも、少なからず尋常な学習能力は備わっている。

 仕方なくブックカバーを外して、彼女に小説の表紙を見せた。


 直後、彼女のおしとやかだった口調が、好奇心に満ちた口調に変わる。

 

「西宮くんって恋愛小説とか読むんだね。めちゃくちゃ意外なんだけど。どう、面白い?」

「まだ序盤じょばんだからなんとも言えない」

「私も読みたいなぁ〜」

「・・・・・・」


 僕はそれ以降、何も答えなかった。

 彼女を軽く無視しつつ、続きを読み進める。


「・・・・・・・・・・・・」


 そのあとも、沈黙を貫徹かんてつする。

 しびれを切らしたのか、彼女が話題を変えてきた。


「そういえば西宮くん、本読むの好きだよね?いつも読んでるし」

「うん」

「あのさ、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「お願いというのは・・・・・・?」

「オススメの本を紹介してほしいなぁーって」

「僕と東雲さんとでは好みが違うと思うけど?」

「西宮くんが面白いって断言する本を読んでみたいの」


 僕は少し考えた。

 そして、最近読んだ長編小説で一番心に残っている作品を彼女に伝えた。


「その本ってどこに売ってるの?」

「多分、書店の店頭に並んでると思うよ」


 すると彼女は「あ、そうだ!良いこと思いついた!」と、何かひらめいたらしく声を張り上げる。


 ものすごく嫌な予感がした。


「今日の放課後、空いてたりする?」

「なんでそんなこと聞くの?」

「だってここで話すより、西宮くんと一緒に本屋さん行ったほうが早いし。何より本屋さん詳しそうだから」

「はい?」


 僕は今まで凝視していた小説から、視線を彼女に変えらざるを得なくなった。

 それにともない、クラス中の視線が僕一点に集中する。

 みんな唖然とした表情で、金縛かなしばりにでもあったかのようにその場に硬直していた。


「で、どうなの?空いてるの?空いてないの?」


 僕が茫然ぼうぜんと彼女を見つめていると、すぐに返答をうながしてくる。

 ここは「空いてる」と答えるのが正解なのか。

 それとも「空いてない」と答えるのが正解なのか。

 僕には咄嗟とっさの判断がつかなかった。


「ねぇ、聞いてるの?」


 彼女の声音に、ほんの少しだけ怒気が増した。


「え?あ、うん・・・・・・空いてると思うよ」


 彼女の気迫に押された僕は、語尾だけにごしたものの、実質的に「空いてます」と答えてしまった。

 新手の誘導尋問を受けている気分だった。


「じゃあ決まりね!放課後、下駄箱前に集合で!絶対だからね?」


 彼女は満面の笑みを浮かべながら、自分の席へ戻っていく。

 クラスのざわつきがより一層大きくなる。


 次はどんな根も葉もない噂をささかれるんだろう。

 いくら荒唐無稽こうとうむけいな話だとしても、SNSで拡散されたりしたら・・・・・・。

 もしそうなれば、もう僕に阻止するすべはないし、弁明の余地もない。

 想像するだけで戦慄せんりつを覚える。


 ひとしきり途方にれていると、机をトントンと叩かれて正常な意識を取り戻す。

 

「お、もしかしてもしかするとデートか?」


 葉山だった。

 青二才あおにさいすぎて、にやつきを全く隠しきれていない。

 ただしそれは何かをたくらんでいるような悪戯いたずらな表情ではなかった。


「起きてたんだ・・・・・・」


 ついさっきまで爆睡してた奴とは思えないくらい瞠目どうもくしていた。

 本当は最初から寝てなどおらず、僕のことをずっと監視しながら、話しかける機会をうかがっていたんじゃないかと疑念を抱くほどに。


「それがさ。ふと目を覚ましたら、西宮が東雲さんからデートに誘われててマジでビックリしたぜ。そんなことより、だ。やっぱりお前に気があるじゃねーの?どう見てもそうだろ。東雲さん、めちゃくちゃ美人だし羨ましすぎるわ」


 葉山は僕にだけ聞こえるような小声で言った。


「彼女は僕をからかってるんだよ・・・・・・」


 僕が例に漏れず否定したタイミングで授業終了のチャイムが鳴る。

 今まで授業中だったということをすっかり忘れてしまっていた。


 クラスの連中は、昼食確保のため購買部を目指して教室から出ていく。

 弁当組はそのまま教室に残り、友達同士で固まって会話に花を咲かせている。


 僕は心を落ち着かせる目的で、購買部とは逆方向の図書室に足を運んだ。

 一口も昼食をらずに図書室にもっていたのだけれど、決して心が落ち着くことはなかった。


 ーーーそして、昼休みをまたがり、午後の授業へと時間が流れる。


 それから午後の授業は、何一つ頭に入ってこなかった。

 ずっと考え事をしていた。

 いつになく、前頭葉が多忙を極めていた。

 期末テスト期間でさえも、これほどまでに頭を酷使こくししたことはない。


 こんな状況は生まれて初めてだった。

 もちろん、その最大の原因は彼女、東雲命架にある。


 気がつけば、授業の板書をノートに写していないどころか、教科書すらまともに見ていなかった。

 机上のキャンパスノートは新品同様に罫線けいせんが等間隔に引かれているだけ。

 

 先生からの指名も一度飛んできていたらしいけれど、まるで記憶にない。

 結果的に、先生を無視していたことになる。

 

 それが起因したのか。

 あげくの果てに、体調不良を懸念けねんされるという災難にも見舞われた。


 放課後にこれ以上のイベントが待ち構えているのかと思うと、疲労困憊こんぱいを通り越して、本当に体調を崩してしまいそうだった。


 窓から見える青空は、僕の心境を具現化するように鈍色にびいろの雲がいくつか浮かんでいた。

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