五話

 太陽が本日の使命を果たし、一時ひとときの別れを告げるかのように、淡い光をまといながら西側へ沈んでいく。


 あざやかな夕焼けが刻一刻と深まる真下の市街地を、僕は東雲さんと肩を並べて歩いていた。


『これは悪い夢なのだろうか?』


 僕の脳内はこの一文で埋め尽くされていた。


 状況が把握できない。

 頭が混乱しすぎて目眩めまいがしそうだ。

 

『これは悪い夢なのだろうか??』


 蓄積されたそれが次第に脳から伝達されて、喉元から口先へ。


『これは悪い夢なのだろうか???』


 遂に飽和状態となった悩みの種を吐きだしたくなる衝動が、津波のごとく押し寄せてくる。

 僕は唇をぐっと噛みしめて、どうにかその衝動を抑え込む。

 ここまで心乱されたのはいつ以来だろう。

 多分、"あのとき" 以来だと思う。


 横に視線を移すと、彼女は僕の葛藤かっとうなんて知ったことではないといった様子で愉快ゆかいそうに歩いている。


 上機嫌さをうかがえる優しい笑顔が、どことなくかんに触って複雑な気持ちになる。


 あぁ、どうしてこうなってしまったんだろう・・・・・・。


 最初は軽い冗談だと思っていた。

 放課後、帰り支度を済ませた僕は速攻で昇降口へと降りて、下駄箱で靴を履き替え、逃げるように学校から立ち去ろうとしていた。

 

 だけど、彼女はすでに下駄箱前で待機しており、僕を見つけるやいなや「遅い遅い、早く行くよ」と声をかけてきた。


 彼女の純粋すぎる笑顔を見ていると、なんだかしらばっくれるのも気が引けた。

 繰り返しくどいようだけど、彼女がそう簡単に引き下がってくれない性格なのを、僕は知っている。

 こればかりはどうにもならないなと判断した僕は、いささか強引な約束通り、彼女と一緒に書店へ行くことにした。


 僕がいつも利用している書店は、駅前のアーケイド内にある。

 品揃えも豊富で幅広いジャンルの本を扱っていることから、ここら辺の界隈かいわいではそれなりに知名度のある書店だった。


 もうすぐ、十七時を迎えようとしている駅前大通りは、帰宅途中だと思われる人々で往来が激しかった。

 年齢層の分布は、学生もとい、高校生がその大多数を占めているような気がする。

 勝手に推測するに、学校帰りの学生が日没間近の駅前をおとずれる理由なんてのは、二パターンぐらいに限定されると思う。


 まず一つは、バスや電車等の公共機関を利用して帰宅するために駅前を訪れるもっともな理由。

 もう一つは、暇を持て余した結果、暇潰し目的で駅前を訪れる模糊もこたる理由。

 僕等といえば後者に分類されるが、行く当てがあるため、正確にはどちらにも属していない。  

 つまり、無駄に駅前を彷徨さまよい歩く流離人さすらいびとではないということだ。


 まぁ、どちらにせよ。

 何も差し支えはないのだから、せんじ詰める必要はない。


 大勢の群衆をかわしながら、僕達は目的地である書店を目指す。

 取り留めのない会話すら無いまま歩いていると、奥床しい青文字看板が視界に飛び込んでくる。


『駅前大通り書店・YASURAGI 〜 あなたにオススメの一冊を提供します』


 書店自体はそれほど規模が大きいわけではないのだけれど、こぢんまりとした店舗だからこそ、感じ取れる魅力があったりする。

 当初ここを通りかかった僕も、そんな不思議な魅力に心奪われたんだと思う。


 店内に入ってまず目をくのがシリーズ本を除く新刊小説、累計発行部数ランキングに名をせるベストセラー小説、そして注目の映像化小説のコーナー。


 僕はこのコーナーから本を選ぶことが多かった。

 巻数のあるシリーズ本よりも、一冊完結の小説を好んで読んでいる僕にとって、それは至極当然なのかもしれない。


「やぁ、西宮くん。いらっしゃい」


 ど真ん中に『本』と印刷された主張の激しいエプロンに身を包んだ中年の男性が話しかけてくる。


「こんにちは」


 いつも通りに挨拶をする。

 この人は駅前大通り書店の名物店長である清瀬きよせさん。

 とても気さくな人柄で、僕が通い始めた頃から度々お世話になっていた。

 一流大学を首席で卒業した経歴があるらしく、相当に頭脳明晰めいせきとの噂。

 本人は否定しているのだけれど、首席卒業の肩書きは頭脳明晰さを裏付ける証拠としてそれ相応だと思う。


 ちなみに、趣味は晩酌ばんしゃくしながら読書をすることだそう。

 果たして、そんなことが可能なのかと思った。


 もし酔い潰れて朝を迎えれば、本の内容なんて跡形もなく忘れてしまうのではないだろうか。 

 たとえ微醺びくんを帯びた状態だったとしても、読書後の余韻よいんを楽しめるだけの情報を覚えていられるのだろうか。

 飲酒未経験である未成年の僕が抱いた素朴な疑問だった。


「今日は新刊の発売日じゃないけど、どうしたの?」

「えーと・・・・・・読む本がなくなったので新しいのを探しに」

「そうかそうか。ゆっくり選ぶといいよ」


 すると店長は何かに気づいたようで、面食らった表情を浮かべる。


「あれ?そちらの素敵な美少女さんは?」

「あ、はじめまして。私、東雲命架って言います。西宮くんのクラスメイトです」


 彼女が僕の横に移動してくる。

つご

「うむうむ。まさか西宮くんにもこんな美人な彼女さんがいたとは。いやぁー青春だねぇー。仲良くやりなよ?喧嘩は絶対駄目だよ?わかったね?」

「いえ、決してそんなーー」


「あのーすみません、会計お願いします」


 僕の言葉は、来店していたお客さんの声で遮断しゃだんされた。


「はーい、今行きまーす。またね、西宮くん」


 店長は去り際に親指を立て、僕に向かってガッツポーズをした。

 なんだか、店長に変な勘違いをされてしまっている模様。


 このままでは色々とまずい。

 東雲さんに皺寄しわよせがいくのもできれば回避したい。

 いや、絶対に回避しなければならない。

 あとで誤解を解いておこう。


「西宮くんって、ここよく来るの?」

「一応、店長の認識だと僕は常連客ってことになってる」

「そうなんだ。やっぱり本が好きなんだね」

「まぁね」


 彼女は白い歯をこぼしながら優しく笑う。

 その姿は機嫌の良さを顕著けんちょに表していた。


 本来であれば、ここで「楽しそうでよかった」とか「僕もすごく楽しいよ」なんていきな言葉をかけてあげるべきなのだろうけれど、僕は何も言わなかった。

 何も言わなかったし・・・・・・何も言えなかった。


 真綿まわたで首をめるように劣等感が沸き上がる。

 自分で自分を情けないなと思った。


 殻をやぶれるのなら、今すぐにでも実行したい。

 だが、そう簡単に生まれ変われるのだとしたら、人間は苦労なんてしない。


 店内を時計回りに物色していると、恋愛小説のコーナーに差しかかったところで彼女が足を止めた。


「ねぇねぇ、これって面白いかな?」


『ー私が見つけた自分だけの小さな幸せー』


 彼女が手に取った小説は、僕の知らない作家さんのエッセイ本だった。


「自分で面白そうだと思ったなら、買えばいいんじゃない?」


 エッセイ本をほとんど読まない僕が、ましてや存じ上げない作家さんの本を独断で書評するにはあまりに不条理だと感じたので、自分の意見を尊重するよう彼女に伝えた。


「そうだよね。自分で決めた方がいいよね」


 彼女は小説をパラパラとめくったり、裏表紙を眺めたり、買うか買わないか真剣に悩んでいる様子だった。

 これは趣味が読書の人なら、共感できるんじゃないだろうか。

 

 結局、彼女はエッセイ本『私が見つけた自分だけの小さな幸せ』、そして僕が今日読んでいた恋愛小説『桂川に恋の橋は架かる』の二冊を購入した。


 本棚の整理をしていた店長に軽く挨拶を済ませ、店をあとにする。

 空は夕焼けが占める割合が増えていて、日没はもう間もなくであろう。


「今日はありがとう。久しぶりに楽しかった。また明日ね」

「うん、また明日・・・・・・」


 彼女は笑顔で手を振りながら、人通りがまばらになった駅前を歩いていく。

 僕はその場で深呼吸をして気分を落ち着かせようとしたが、複雑な心境が消え失せてくれるはずもなく、そのまま家路につくしかなかった。

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