第33話 汚染浄化

 首を舐めるようにして顔を滑り込ませる。嵐のように荒れ狂う彼女の顎が頭蓋を叩いた。思わず身を引きそうになるが、アリエの身体にしっかりと密着し、そのままねじ込んだ。激しく揺れる白銀色の髪が目を攻撃してきたため目を瞑り、耳に食いついて舌先で探す。


 最初は恐る恐る探していたシャノンだが、耳をなぞる度に暴れる力が強くなったため、長くは続けられないと思い切った。貪るようにして舌を動かし、ようやく硬い物に触れた。申し訳ないと思いつつもシャノンはそれを咥え、思い切り引き千切った。


 小さな悲鳴が漏れ、身体が痙攣したようにびくついた。その拍子にシャノンは吹き飛ばされたものの、獲物はしっかりと咥えていた。口の中に鉄の味が広がる。吐き出すと、黒い宝石のついたイヤリングが地面に転がった。


 アリエはすぐさま身を起こして、シャノンに襲いかかろうと構える。


 その足が地を蹴る前に、シャノンはポケットから取り出した魔法筺を剣の形に変化させ、逆手に構えた。そして、宝石目掛け振り下ろす。


 甲高い音とともに黒い宝石が砕け散った。それとともにアリエの瞳に光が戻る。


 正気に戻った彼女を確認して、シャノンは笑みを浮かべた。ファリレもほっと胸を撫で下ろす。


 だが、それは同時に地獄の始まりでもあった。


「ああああ、があああああああああああああ」


 アリエはその場に勢いよく崩れ落ち、呻き声を上げた。全身が異常を訴えるように震え、苦悶に顔を歪める。


 今まで精神汚染によって押さえられていた感情が表に出たのだ。彼女が感じていた痛みは変わらない。


 だが、感情や表情がつくだけでここまで変わるのかというほどに、その様は壮絶だった。彼女が感じていた痛みが想像以上のものだったと知る。


 シャノンはアリエに駆けよって声をかけた。だが、回復魔法が使えないためそれ以外に何もできない。あとから来たファリレもまだ魔法が使えないようで、悔しげな表情で瞳を湿らせた。


「ハーフエルフ! 今、回復魔法は使えるのかしら?」


 問いかけるも、彼女は反応を示さない。聞こえていないのか、それとも話すことすら困難なのか。いずれにせよ、この場の誰にも彼女を治すことはできない。


「どうしたら、いいの……」


 ファリレは震える手を強く握り締めて胸を押さえる。


 どうしたらいいのか。そんなのシャノンにだって分からない。


 痛みを堪えるためか、アリエは自らの腕に爪を立て、さらなる傷を作る。痛ましい姿を見ていると、酷い考えが湧いてくる。このまま彼女を放っておいても、苦しみながら死ぬだけだ。それなら、いっそ楽にしてあげた方がいいのではないか。


 シャノンはファリレの手に触れて、小剣を作り出した。


「お前、何を――」


 気づいたファリレが問いかける。だが、すぐに意図を察したのか、息を呑んだ。


「俺たちじゃ助けられない。なら、殺して楽にしてあげた方が、いいんじゃないかって思うんだよ。だって、こんなにも辛そうなんだから」


 ふるふると首を横に振るファリレを無視して、シャノンはその剣を両手で包み込むように、逆手に構えた。


「アリエさん――ごめんなさい」


 振り下ろしかけた刹那、アリエの手がシャノンの腿を掴んだ。縋るようにして顔を上げた彼女は、目から涙を流し、苦しみに喘ぎながら言った。


「死に、たく、ない」


 そして、


「助けて」


 と。


 シャノンは振り上げていた腕をゆっくりと下ろした。垂れた手から剣がこぼれ落ち、溶けていく。きつく目を閉じて、自分を責めた。


 助けるなんて息巻いていた自分が馬鹿みたいだった。現実はそんなに甘くない。この悲惨な光景を目の当たりにして、楽な方へ流れてしまった。


 そもそもアリエ自身が、死という救いなど望んでいなかったのだ。


 ただの偽善だった。


 自分が見ているのが辛くなったから、勝手に相手の命に幕を引こうとした。それは勇者の行いではない。ただの人殺しだ。


 勇者を目指す資格など、最初からなかったのかもしれない。


 そうやってまた、簡単の方へ行こうとする自分に腹が立った。


 シャノンは目を開いて、アリエに視線を落とす。


 資格がないのなら、まずはその資格を得ることから始めればいい。


 これは最初の一歩だ。


 現状、この場で回復魔法が使えるのはファリレだけだ。


 だが、ファリレは精神が不安定になっているために魔法が使えない。それは心が安定していないと魔力操作が難しくなるためだ。


 だったら、その魔力操作を誰かが補ってやればいいのではないか。


「ねえ、ファリレ。魔法を使うときに別の人が魔力操作を補助することってできるの?」


「馬鹿なのかしら? そんなことができるわけないでしょう? それには他人の魔力に干渉しなきゃいけな――」


 言っている途中でファリレは声を上げた。


「――お前! できるじゃない、干渉!」


「うん。けど、ファリレの魔法行使を補助できるかは分からないよ」


 ――それでも。


 シャノンは瞳に力を込めて、一歩を踏み出す。


「やってみる価値はあると思うんだ」


 ファリレは指を顎に当てて、ほんの数秒だけ地面に視線を落とした。そして、覚悟を決めたように大きく頷く。顔を上げた彼女もまた、瞳に力を宿していた。


 ファリレの指示でシャノンは彼女の背後に回り、身体を密着させる。


「こ、こう?」


「もっと、ぎゅってするのよ」


「ぎゅ」


 シャノンは思い切って腕を回して抱き締め、頬を首筋に密着させる。


「こう?」


「んっ――ば、馬鹿なのかしら!? 耳に息をかけるんじゃないわよ!」


「いや、別にそういう」


「あぅ…………ど、どうなのかしら!? 感じる!?」


 熱っぽい表情でファリレが問いかけるが、シャノンは首を傾げて唸る。


「何か流れっぽいのを首筋から感じる、ような気がする」


「くっ……やっぱり肌を触れている面積が小さいせいかしらね」


「けど、いつもは手を握るだけで十分だよ?」


「今までは魔力を盗るだけだったから、その程度でも十分だったのかも知れないわ。けれど、今回は私の魔力を操作しようとしてるわけだから、今まで以上に繊細に感じ取る必要があるはず。もっと接地面積を増やせばいけるかもしれないわ」


 期待と希望の眼差しで言うファリレに、シャノンは曖昧な表情で頷いた。


「どうしたのよ。何か間違っていたかしら?」


「いや、その……」


 自分の言ったことの意味に気づいていないファリレ。それを指摘するべきか迷うものの、急がなければアリエが力尽きてしまう。


 シャノンは決意の眼差しで、ファリレの服の裾に手をかけた。


「じゃあ、脱がすよ?」


「は、はあ? ばばばっば、馬鹿なのかしら? 何でそういうことに――あっ……」


 ようやく気づいたのか、ファリレは顔を真っ赤に染めて涙をためる。羞恥と怒りの入り交じった表情で罵詈雑言を吐こうとするが、思い止まって口を閉ざした。


 今は恥ずかしがっている場合ではない。そのことをファリレも理解したのか、恨めしそうにシャノンを睨み上げ、不承不承といった感じで頷いた。


「お前はあっち向いて上を脱いで、目を瞑っていなさい!」

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