第28話 一人がいい。一人は嫌だ
暗闇の中で、目の前を誰かが通り過ぎていく。あやふやだった輪郭が形を成し、はっきりと照らし出される。
それはどれも見たくない顔で、聞きたくない声で、ファリレは瞼を閉じて、両耳を塞いだ。けれど、どれほど強く押さえても姿が見えて、声は耳に滑り込んできた。
「出来損ない」
二人の姉が言う。
「お前のような失敗作など要らない」
父が言う。
「あなたのような子、産むんじゃなかった」
母が言う。
「あんなのが同じ一族なんて、恥さらしもいいとこよ」
親類が言う。
「弱いくせにでかい顔すんな」
誰かが言う。
「面倒くさい」
「空気読めないよね」
「生きてて恥ずかしくないの?」
「死ね、ゴミ」
誰かが言う。誰かが言う。誰かが言う。
誰かが言う。
「うるさい」
閉じた世界で、ファリレは誰かに向けて叫ぶ。
「うるさいうるさいうるさい」
近づくな。喋るな。
放っておいて。
独りでいるから、関わらないで。
音が消えた。胸を撫で下ろして目を開く。視界に入った光景に悲鳴を漏らした。
全員に囲まれていた。もうどれが誰だが分からない。黒い影のようなものが何か言い始めた。雑音のようなそれらは、しかし、容赦なくファリレの心を抉っていく。
「違う」
頭を抱えて、膝に埋めて、ファリレは首を横に振り続ける。力なく、否定を繰り返す。
「お母様はそんなこと……言わない……」
言葉にした途端、胸の奥に不安が渦巻いた。
本当にそうだろうか。母は本当に、そう思っていないだろうか。
唐突にファリレは思い出した。
*
小さい頃の話だ。
母が牢獄に閉じ込められていることが我慢できなくなって、ファリレは父に懇願した。母を出して欲しいと。素っ気なく突っぱねる父に、ファリレは涙ながらに抗議して、初めて父に「嫌い」と言った。魔法の授業をサボって、母のところで泣きじゃくった。
その翌日。母は魔法の授業を受けるようにファリレを優しく諭した。その頬が赤く腫れ、目元には涙の跡があることに気づき、ファリレは悟った。
父に暴力を振るわれたのだと。
ファリレのせいではないと母は言ってくれた。
だが、それはただの気休めにしか聞こえなかった。魔法の授業に行き始めると、母の傷がそれ以上増えることはなかった。
以来、父に反抗しなくなった。
ファリレは母のことが大好きだ。だから、自分のせいで傷ついて欲しくなかった。
だが、母の方はどうだろうか。母は自分のことを好きだろうか。
訪れた際に、嫌な顔をしていなかっただろうか。
思い出す。思い出す。そのときのことを。どの表情も笑顔だ。嬉しそうに笑っているように見える。しかし、愛想笑いにも見えてしまう。鬱陶しく思っているように見えてしまう。そうなるともう分からなかった。
もう、何も信じられなかった。
分かっている。自分が好かれるような性格をしていないことくらい、痛いほど知っている。それでも、どうしようもなかった。
怖かった。
素直になって、心を開いて。
それで、素の自分を拒絶されたら。
そう思うと怖くて駄目だった。喉が震えて、言葉を飲み込んでしまう。そうして出てくるのは、いつもの憎まれ口だった。
それで爪弾きにされるのはよかった。だって、そんなの嫌われて当然だ。
いや、嘘だ。本当は嫌われたくない。爪弾きになんてされたくなかった。
ただ、理由が欲しかった。明確な嫌われる理由が欲しかったのだ。
だって、そうすれば。
こんな自分なのだから仕方ないと、認めることができるから。
本当の自分が嫌われているわけではないのだと、安心できるから。
囲む人影の中で、一つだけ彼女に手を差し伸べる者がいた。
ファリレはすぐにそれが誰なのか分かった。シャノンだ。微笑みを讃えて、こちらに手を伸ばしている。
よかった。迎えに来てくれた。
ファリレはその手を取ろうと、自らも手を伸ばす。だが、届かない。すぐそこにいるのに、シャノンの手を掴むことができない。そうしているうちに、彼の手を別の誰かが盗った。シャノンの笑顔はその誰かに向いて、二人はどこかへ行ってしまう。
「待っ――」
発しようとした言葉を、途中で躊躇ってしまう。ファリレは胸を押さえて項垂れた。
――嫌だ。
――行かないで。
胸が詰まる。気持ちが膨らんで、溢れ出そうになる。熱い何かが込み上げてくる。目頭が熱くなって、想いを代弁するように頬を流れ落ちる。
言葉が出ない。声に出来ない。素直になれない。
いつだって、心の中で願っていた。
いつだって、心の中で願うだけだった。
――助けて。
その声は誰にも届かない。
誰もいなくなった。姿は見えない。声もしない。
独りになった。
独りになれた。
もう誰からも傷つけられることはない。
もう誰とも触れ合うことはない。
ああ、それはきっと。
とても辛い。
だから、全部仕方ないと諦める。
願いを捨てて、何もなかったことにする。
身体が闇に沈んでいく。冷たい。けれど、心地いい。
ようやく、楽になれる。
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