第5章

第23話 行くあてはなく

「何なのよ! もう!」


 ファリレはツリーハウスから十分に距離を取ったのを確認して、石ころを蹴飛ばしながら叫んだ。石は大して転がらず、数歩進んでまた蹴飛ばす。


「ふんっ、私よりあんな肉の塊がいいなんて、所詮あいつも下等種族だったということかしら。まあ、いいわ。別にあいつじゃなくたっていいもの。そもそも、わざわざ弱い奴を選ぶ必要なんてないのよ。もっと強い奴を探してやるわ」


 ファリレは思い切り足を振り上げ、石ころを蹴――ろうとして空振り、その勢いのまま背中から転んだ。


「いっ――たいわね! 何なのよ!」


 身体を起こして、空を見上げる。アリエの家を出るまでは少し晴れ間が見えていたが、もうどこにも青い部分は残っていない。一面灰色になった空模様のせいで、少しだけ世界の色が褪せているように見えた。


 ファリレは立ち上がって、土埃を払う。


 行く当てなどない。だが、今更戻るわけにはいかない。そんな素直さをファリレは持ち合わせていなかった。もし持ち合わせていたなら、今頃ここにはいない。


 何気なく手を見ると、赤い筋が垂れていた。先ほど転んだ際に切ってしまったのだろう。


 シャノンの傷を思い出す。魔法を使うつもりなどなかった。けれど、気づけば勝手に発動して、傷つけてしまった。もう治っただろうか。もう痛みはないだろうか。考えれば考えるほどに、自己嫌悪に陥った。


 今頃、清々したと二人で笑っているかもしれない。また出そうになった涙を必死に堪えた。


 もう、関係ない。


 ファリレは足を止めずに回復魔法で傷を塞ぎに掛かる。だが、一向に塞がる気配はない。


「っ――、何で治らないのよ!」


 悪態を吐きながらも辛抱強く続け、完治するまでに一〇分ほど要した。どっと疲労の溜まった息を吐き出して、それでも足は止めない。もう一度立ち止まってしまったら、もう進めない気がしたのだ。


 自分がどこに向かっているのか分からない。だが、何も考えずに歩いていたとしても、無意識に知っている道を選んでいたようだ。知らない道よりは知っている道の方が安心するのは当然のこと。気づけば、目の前に石壁がそびえていた。


 もうこんなところまで歩いてきてしまったのかという気持ち。


 帰るのが大変だなという気持ち。


 ここからどこに向かうべきだろうという気持ち。


 それらがない混ぜになって、ファリレは思わず足を止めてしまった。


 もう動けない。そんな矢先、手に冷たいものが触れた。顔を上げると、分厚く空を覆った雲から滴が落ちてきた。それはすぐに数を増して、地面に降り注ぐ。あっという間に土砂降りになった。


 溜まらず、ファリレは洞窟の中へ走る。


「はあ……最悪だわ……」


 身体についた滴を払い、水を含んだ服を絞りながら空を見上げる。雨の勢いは増すばかりで、しばらく止みそうにない。


 肌に服が張り付き、不快だった。ファリレは少し奥に移動して、壁の窪みに身を隠す。徐に服を脱いで、下着姿になった。壁の出っ張りに服を引っかけ、地面に腰を下ろす。洞窟の中は肌寒く、膝を抱えて腕を擦った。


 自分の小さな胸を見下ろして、ため息が漏れた。やはり、男の人は大きな胸が好きなのだろうか。ファリレは膝頭に頬を乗せて目を伏せる。


「こんなとこ、来るんじゃなかった」


 思えば、この洞窟に来たのが原因だ。ここにさえ来なければ、アリエに会うことはなかった。そうすれば、シャノンを盗られることはなかった。


 ――盗られる?


 ファリレは鼻で笑った。


 馬鹿馬鹿しい。何を考えているのだろう。あんな奴のことは関係ない。どうでもいい。所詮はどこにでもいる人間だ。


 代わりなんて、いくらでもいる。


 ――違う。


 それは自分にこそ当てはまる言葉だと、ファリレは自嘲の笑みを浮かべた。シャノンにとって、ファリレという存在はアリエで代替可能だったのだ。


 それはそうだ。当たり前だ。大して長い時間をともに過ごしたわけでもない。シャノンにとってファリレと一緒にいる理由は、強制的に王族の争いへ巻き込まれたからであって、決して彼自身が望んだことではない。


 シャノンは顔が女のように綺麗だが、少年らしい純粋なところがある。飲み込みも早く、魔力操作の才能もある。それに、彼は魔王の娘にすら同じ目線でいようとする。良いところだらけだった。


 思えば、あんな風に気安く接してくれる相手が、ファリレにはいなかった。


「面倒くさいなんて、私が一番分かってるわよ。……けれど、じゃあどうしたらいいのよ……」


 本当は分かっている。素直になればいいということ。簡単なことだ。だが、ファリレにとってそれはとても難しいことだった。




 小さな頃から厳格な父親に育てられた。生まれたときから魔王の娘という肩書きがあり、多くの者が平伏した。


 姉が二人いた。そこまで歳は離れておらず、いつも比較された。


 最初はよかった。簡単な魔法の授業では、ファリレが最も優秀な成績を叩き出していた。規格外の膨大な魔力量によって、ファリレが使えば簡位魔法ですら中位魔法メディアム・マギアレベルの破壊力を生み出した。


 これには厳格な彼女の父親も、誇らしげに頬を緩めてくれた。それがファリレにとって何よりも嬉しかった。


 だが、下位魔法インフェラム・マギアの授業あたりから、成績が振るわなくなった。姉たちはどんどん高度な魔法を会得していくにも関わらず、ファリレはまったく進めずにいた。


 高度な魔法の習得には魔力操作に優れている必要がある。


 ファリレには魔力操作の才能がまったくと言っていいほどなかった。いくら努力を重ねても上達せず、姉たちとの差は開く一方だった。


 彼女が失敗を重ねるごとに、父親の態度は冷たくなっていった。いつの間にか落ちこぼれの烙印を押され、分家からも馬鹿にされるようになった。


 ファリレにあるのは、父をも凌ぐ魔力量だけだった。


 だが、彼女はそれを認めることができなかった。もっとできる。自分は、こんなところで立ち止まっていていい器ではない。その気持ちはどんどん強くなった。


 そうして、プライドばかりが膨らんでいった。棘のある態度は周囲を遠ざけ、それでも素直になれずに一層孤立した。


「あんたってほんと面倒くさいわよね」


 姉たちはいちいち突っかかるファリレを鬱陶しく思い、遠ざけた。


 唯一、ファリレに優しくしてくれるのは母――フレイラだけだった。


 フレイラの前ではファリレも素直になることができた。


 城の地下にある牢獄。囚われた人間や重罪を負った魔族などが収容されている施設だ。その一番奥にある一際頑丈な扉。そこにファリレの母はいた。


 常に見張りの魔人がおり、理由なしに立ち入ることの難しい場所。だが、娘である彼女は入ることを許されていた。


 重厚な音とともに、開かれる扉。その先には、ベッドから伸びる鎖を片足に繋がれたフレイラがいた。


 黒の髪は乱れ、艶がない。頬は痩せこけ、腕は折れそうなほどに細かった。着ている服もみすぼらしい。


 生気のない顔をしているフレイラは、しかし、ファリレが訪れたときだけはその瞳に光を取り戻していた。


 以前、フレイラは聖女と呼ばれ、未来を啓示していたという話をファリレは聞いたことがあった。その力は父に捕まって失われたことになっているが、本当は今でも少しだけ見られるのだと、大切な秘密を教えてくれた。


 後継者を決める争いが迫ったある日、フレイラは言った。


「ファリレ、よく聞いてください。あなたは、あなたの尻尾を最初に取った者の性奴隷にならなければなりません。その者にわざと負け、その者を勇者に仕立て上げるのです。彼は魔王を倒し、あなたを妻に迎えます。どんなときもあなたを気遣い、あなたを愛するでしょう。あなたもそれに答えるならば、添い遂げることができます」


「お母様、奴隷とは何をすればいいのですか?」


 ファリレの耳に口を寄せ、フレイラは囁く。その壮絶な内容に、ファリレは耳まで赤くして息を呑んだ。


「わ、私に……できる、でしょうか」


 羞恥に身体を捩り、不安を覗かせるファリレに、フレイラは満面の笑みで言った。


「男なんて、キスをしてしまえばこっちのものです」

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