第24話 第八魔王子

「……お母様の嘘つき」


 勇気を出してキスをした。シャノンも求めてくれた。だから、大丈夫なのだと思っていた。


 しかし、現実は違った。シャノンはアリエの方がよかったのだ。


「何でよ。助けられただけじゃない。それなのに家まで行って。泊まって。魔法まで習って。…………他の女と、キスしないでよ」


 朝。目覚めてすぐにファリレは家の中に二人がいないことに気づき、外に出た。そのときに見てしまったのだ。


 井戸で、二人が唇を重ねているところを。


 最初はアリエがまたシャノンに悪ふざけで迫っているのだと思った。しかし、そうではなかった。シャノンの腕はしっかりとアリエの背中に回されていたのだ。


 それを見た瞬間、胸が苦しくなった。嫌だった。見たくなかった。


 それはまるで、愛し合っている二人に見えて。


 まるで自分が、二人の恋を妨げる邪魔者に思えて。


 自分の居場所はここにないのだと、ファリレは感じてしまった。


 身体が鉛になったかのように重かった。地面に沈み込んでしまいそうで、感情が制御できなかった。胸が張り裂けそうで、吐き気が止まらなかった。ベッドに横たわり、布団を被って溜まらず泣いたのだ。


 そのことを思い出したせいで、途端に息苦しくなった。腕に力を込めて膝を寄せる。


「本当に、私って面倒くさい女ね……」


 零れそうになる涙を、唇を噛みしめて堪える。大声で叫んで何もかも吐き出てしまいたい。そうしたら少しは楽になるだろうか。


 そう思った矢先、入り口の方向から音がした。


 ファリレは服を取り、壁に身を寄せる。耳をそばだてて、それが何であるのかを確認する。


 足音だった。誰かがこちらへ向かってくる。


 期待していなかったと言えば嘘になる。


 だが、それはシャノンではなかった。アリエでもない。


 薄い茶髪の男だ。すらりとした高身長で、銀縁の眼鏡は知性を漂わせている。だが、その奥の双眸はギラついた光を放っており、尋常でないことは彼が纏う空気から察せられる。


 その顔にファリレは見覚えがあった。


「ギルレドがどうしてここに……」


 ギルレド・クァットゥオル・リヒトルヴァリエ。分家の魔人で、第八魔王子にあたる。彼もまた、後継者争いに参加している一人だった。


 ファリレは息を殺して身を潜める。ギルレドはこちらに気づいた様子はなく、洞窟の奥へと行ってしまった。


 しばらく逡巡したファリレだが、すぐに後を追った。まだ濡れている服を着るのは不快だったが、下着のまま行くわけにもいかない。


 候補者同士が鉢合わせた場合、まず殺し合いになる。ライバルは少ない方がいい。むしろ、それを推奨しているきらいがあった。


 特にギルレドは外道を絵に描いたような魔人だった。他の候補者と遭遇すれば、彼なら間違いなく相手を蹴落とす。


 幸い、ファリレはギルレドが火属性の魔法を得意とすることを知っていた。雨が降っている今、火属性は力が弱まる。彼は厄介な相手だ。残しておけば後々面倒になることは容易に想像できた。今のうちに消しておくのが得策だ。


 ファリレは距離を保ちつつ、見失わないように後を追いかける。


 ようやくギルレドが立ち止まったのは、石造りの巨人がいる大きな部屋だった。奇妙なことに彼が足を踏み入れても石造りの巨人は出てこない。


 不思議に思って観察していると、突然、ギルレドがこちらを振り向いた。


「いつまでコソコソ隠れてんだ? 早く出てこいよ――ファリレ」


 目が合ってしまい、ファリレは肩を振るわせた。気づかれる要素など、どこにもなかったはずだ。だが、バレた以上、隠れたままではいられない。


「ふんっ、まさか、こんなところでその陰気面を見ることになるとは思わなかったわ。残念ね、得意の火属性魔法は生憎の雨で萎んでるわよ?」


「言ってろドカス。どうせ、てめえはここで死ぬんだからな!」


 ギルレドが手を挙げる動作を見せた瞬間、ファリレは指を弾いた。


「それはこっちのセリフよ!」


 だが、放たれたのは言葉のみで、何も起こらなかった。


「――――っ、な、何で魔法が使えないのよ!」


 何度指を鳴らしても、魔法は発動しない。魔力は十分にある。


 まさか、先手を打たれたのか。焦りを浮かべるファリレに、ギルレドは堪えきれなくなったのか、腹を抱えて笑い声を上げた。


「おいおい、そう睨むなよ。俺はまだ何もしてねえぜ?」


「嘘よ。お前は卑怯者だもの。魔法が使えない細工をしていてもおかしくないわ」


 その言葉に、ギルレドはさらに大きな笑い声を上げる。


「こりゃ傑作だ。確かに俺は勝つためならどんな汚い手も使う。でもよ、てめえみてえなカスは、何もしなくたって自滅すんだよ。策を用意すんのは無駄だっつうの」


 楽しくて楽しくて仕方がないといった表情で、ギルレドは口を歪ませた。


「なあ、雨の日って気分が沈むよな?」


「は? 急に何言ってるのかしら。ついにイカれた?」


「ったくよ。そろそろ認めようぜ、落ちこぼれ。気分で魔法を使ってるような奴が、死にかけの心で魔法を使えるわけねえだろうが?」


「え――」


 ファリレは雷に打たれたような衝撃を受けた。


 気分で魔法を使っている? 心が弱っている?


 そんなわけが。そんな――。


 急に全身の力が抜けて、足下が柔らかくなる。地面が液状になり身体がゆっくりと沈んでいく。まるで底なしの沼にはまってしまったように、黒い地面に足が吞み込まれていく。


 逃げなければまずいと分かっているのに、動けなかった。動く気力がなかった。他人事のようにすら感じられる。おかしい。それも分かっているのに、何もできない。


 視界が闇に覆われていく。その中で浮かんだのは、シャノンが言っていたという、『迷惑』という言葉だった。


 手を伸ばしても、それを掴んでくれる相手はどこにもいない。


 閉ざされていく視界の片隅で、ギルレドが口端を吊り上げた。


「俺の得意な魔法は炎属性じゃねえ、水属性だ。ここに立ち入った時点で、てめえはすでに俺の魔法に掛かってんだよ。まずは、その壊れかけの心を完全に殺してやる。――汚れた泥はその色を濁すアポニマルティオ


 ファリレは完全に意識を呑まれ、身体は人形のようにその場に立ち尽くした。


 抜け殻のようになった彼女に、ギルレドは歩み寄る。


 その顔を狂気の笑みで染めて。

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