6
くしゃみを一つ。大きく体を震わせる。
外の温度が低くて空調が利かないのか、室温が下がっているような気がする。
出発ロビーはさっきより閑散としていた。
欠航や遅延が相次ぎ、それがメディアの交通情報に流れたのか、人は減りこそすれ、増えてはいない。
ぼくは腕組みをしたまま、曇った鈍色のガラスを見上げた。
雪は、まだやまずに降り続いているのだろう。
そのとき、不意に、コートの袖が引かれた。
「パパ」
驚いてそちらを見ると、小学生……低学年くらい女の子が、ぼくの袖口をつかんでいる。
迷子だろうか。出会ったころの美恵によく似ていた。
「こら。パパは、おつかれさまなんだから、ダメでしょう?」
目の前に立つ人影から、懐かしい声が降りてきた。
女の子はヘヘヘ、と言いながら、膝へよじのぼってくる。
「この子の転校手続きが終わったら、すぐに追いかけるからね」
美恵が、ぼくを見下ろしていた。
母親らしく、たくましくなっていた。体つきも、印象も。
ただその屈託のない瞳だけは、変わらなかった。
「ゴメンネ。あなたはついていくのに反対でしょうけど、でもやっぱり、家族は一緒が一番」
「イチバーンだよ! パパ」
女の子が膝の上で笑った。
『708便にご搭乗のお客様にお知らせいたします』
「あ、ほら搭乗よ」
ぼくは美恵につられて電光掲示板に目をやった。
頬が、冷たいもので濡れていた。
手の甲でぬぐう。
うたたねを妨げたアナウンスだけが、現実のものだった。
ぼくは夢から醒めたことを知った。
結局、ぼくは国公立の二次試験も、ほかの私大の試験も、すべてを棄権し、受けることはなかった。
ただ14日に受けた試験だけは合格してしまい、それが美恵のおかげで、美恵のためになることだと信じて、論文試験、面接試験を受けた。
まともな受け答えができた記憶はないのに、どちらも突破することができた。
それから小児診療、それも救急医療の専門家を目指し、日夜勉強を続けている。
責任が重い割に儲からない不人気な分野に、大学のランクは無用だった。
学内の病院で研修を終えたぼくは、これから離島を多く抱える地域に赴任することになる。
ぼくが後に得た知識を付け加えておこう。
美恵はおそらく脱線時、衝撃によって転倒した多くの人に圧迫されたか、手すりなどに腹部をぶつけたかで、常位胎盤が早期剥離した。
出血はほとんどが胎盤と子宮壁との間の内出血だ。
そのとき母体は顔面蒼白、頻脈、血圧低下などの出血性ショック症状を示す。
それが駅員の目には貧血と映った。
出血が多いと、胎児は死亡し、母体も場合によっては出血が止まらなくなり死亡する場合もある。
腹部からの出血というのは、子宮からの出血が下着から染み出て、衣服に広がった結果そう見えたということなのだろう。
妊娠さえしていなければ、つまりは、ぼくにさえ出会わなければ、美恵は生きていることができたのだ。
ぼくたちの世界にもしもはない。
時間を巻き戻すことはできない。
だからぼくは、悲しい未来をひとつでも減らしたい。
そのために生きる。
けれどいつも、繰り返し願うのだ。
戻りたい。
そして、それが叶わないのなら、もう二度と目覚めることもなく、美恵と、名づけることさえできなかった子の夢を見ながら、永遠に眠り続けたいと。
雪の日には瞳を閉じて。
雪の日には瞳を閉じて @KENSEI
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