5
試験では、完璧な解答を書くことができた。
ランクを落としたことが一番大きいだろうが、余計な気負いが一切なくなっていた。
あと3校、試験を残していたが、そのうちの1校は私大でも上位の大学だった。
いけるかもしれない。
今日の調子で試験に臨めば、どこでも合格できるという自信を取り戻せていた。
試験会場を出ると、すでに雪はやんでいた。
レンガでできた門までの道を歩きながら、芝生に残った雪を、西日がオレンジ色に染める光景を眺めた。
きれいなキャンパスじゃないか。ここに通うのも、いいかもしれない。
雪のあとのせいか、空気が澄んでいた。
ぼくは清清しい気分で、そんなことを考える。
そして、なぜあんなに頑なになっていたのだろうと考え始めた。
そもそもぼくはなぜ医者になろうとしただろう。
それは父に憧れていたからだ。だから父と同じ大学に行きたかった。
それが長い時間をかけて捻じ曲がってしまったのだ。
試験の出来に手ごたえを感じ、傍流の医大に進路を落ち着ける空想に、ぼくは自分自身の「落としどころ」を探したのかもしれない。
それでも、できること、できたことを発見するのは、できなかったことばかり振り返るより、ずっと心地良かった。
美恵のおかげなのだろうか、ふと思った。
ぼくは美恵に甘えた。それは事実だった。
謝ろうか。美恵なら許してくれる。
いや、許してもらえなかったとしても、この気持ちを伝えよう。
そうしたら、これからの先のことが、ひどく明るいものに思えてきた。
美恵の部屋からキャンパスまで乗り換えなしで通える。いっそのこと家を出で、美恵と暮らしてみようか。
そんな身勝手なことまで考えて、携帯電話の電源を入れた。
着信履歴が残っていた。
それは自宅からのもので、試験の最中である時間帯にかかってきている。
ぼくは何事か予想もできず、自宅へ連絡をとった。
母が出て、開口一番、
「美恵ちゃん、憶えてるよね?」
と言った。咄嗟に、なにがばれたのだろうと警戒する。
「実はね、今朝、脱線事故に巻き込まれたらしくて、病院に運ばれたんだって。それでお前にも来てほしいって、なんでかわからないんだけど、緒方さんから電話が」
母が「緒方さん」と呼ぶのは美恵の父親、「おじさん」のことだ。
さらに母は都内の大学病院の名をあげた。ここからは2駅で着く。
「そこにいるらしいのよ。朝ニュース速報が流れたけど……」
血の気が引いていき、耳の底に血流の音が聞こえてくる。
母が告げた路線、時間帯は、自宅前でぼくと別れた美恵が乗り込んだ列車に違いなかった。
「いま夕方のニュースでやってる。軽傷が5人だって。雪が原因だったみたいね。この雪で置き石が見えなかったんですって」
駅に向かって歩き出し、母に確認する。
「軽傷が5人なら、たいした事故じゃないんだろ?」
「でも、昼前に電話があったきり、緒方さんとも、奥さんとも、まだ連絡が取れないのよ。ともかく行って確認してきてくれる?」
ぼくはわかった、と電話を切り、改札へと急いだ。
あのバカ、懲りずにぼくにチョコレートなんて渡しにくるから。足の一本も折れたに違いない。
美恵の携帯に電話する。電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません。
目的の駅に着きロータリーに出る。
濡れた歩道を急ぎ足で進む。
落ち着くよう自分に言い聞かせるのに、足を休めることができない。
黄土色をした病院の建物が見えてくる。雪の残る植え込みの緑の向こうには車廻りがあって、そこには人があふれていた。
サイレンの赤い色、人の頭の黒い色、そして雪の白い色。
ぼくはそれら横目にすり抜けて、自動ドアをくぐる。
待合室も、あわただしく人が動いている。
ぼくは受付で緒方美恵の居場所を尋ねた。
「緒方さんでしたら、集中治療室です。この奥を左に曲がってください」
集中治療室。おかしいですよ。重体の患者を処置するところじゃないですか。
ぼくは重ねて問おうとしたが、次がつかえていたのでともかく示された廊下へ向かった。
そのまま歩いていくと、緒方のおじさんとおばさんが、二人で長いすにかけていた。
集中治療室には、施術中のライトが灯っている。
「ごぶさたしてます」
ぼくは二人に挨拶した。こうしておじさんとおばさんを揃って見るのは、8年ぶりということになる。
「美恵が呼んだんですか? どこにいるんです?」
おばさんが気色ばんだ。おじさんがおばさんを制した。
「いま、手術中だ」
「だって、軽傷が5名って……」
おじさんとおばさんが、目配せでやり取りした。
「あっちで話そうか?」
おじさんは立ち上がり、廊下のさらに奥、窓際にある「自販機コーナー」と表示されたスペースを示した。
「あなた」
「お前は黙っていてくれないか」
おじさんはぼくの肩を抱え、歩き出した。
スペースは廊下から直角に曲がっていて、5メートルほどで突き当たりそこに自動販売機が置かれている。
窓に向けて、長いすが2脚並べられていた。廊下からは死角になっている。
窓には夜景の中に自分の姿が映って見えた。
ぼくらはひとりでひとつの長いすに座り、おじさんがなにも言わないので、この人はどこまで美恵との仲を知っているんだろうと、そればかり心配していた。
「……美恵ね、妊娠していたんだって。4ヵ月目に入ってたんだってさ」
美恵は脱線時、2両目に乗り合わせていた。
救出されたとき、外傷がなく真っ青な顔をしていたので、貧血を起こしたものだと判断され、駅長室で寝かされていた。
ところが腹部から出血していたことがわかり、救急搬送された。
そこで実は美恵が妊娠しており、その出血が胎盤からのものであることが判明したという。
「もう、子どもに望みはない。いまは、美恵も危険な状態だ」
「美恵は助かるんですか?」
「ひとつ確認していいかい?」
おじさんがぼくを静かに見つめた。
「子どもの父親は……きみかな?」
いいえ、と言いたかったし、ぼくの子だと確信があったわけでもない。
でも、言えはしなかった。
「……はい」
殴られると思って目を閉じ、歯をくいしばる。
しかし、衝撃が来ない。
恐る恐る目を開けると、おじさんは色のない目で、さらにぼくを見つめていた。
ぼくは、あの日のダイニングキッチンを思い出した。
「あいつは、今朝、きみの家に行ったんじゃないかな」
「バレンタインだから、チョコレートを届けにきてくれたんです。あと、お守りも」
「そっか。やっぱりきみに会いに行ってたのか」
「……はい」
「そっか……美恵、笑ってた?」
「はい。試験がんばってって。あと、雪ではしゃいでました」
嘘なんて簡単だ。
「そっかそっか」
おじさんは、微笑んだ。そしてその目の端から、大粒の涙が零れ落ちた。
「あいつにわたしたちは、すまないことばかりしている。わたしもずっと独り身だったんだけどね、再婚を考える相手ができてさ。美恵にそのことを話したら、独り暮らしなんて急に始めて」
おじさんが出ていった日、おばさんは浮気相手と会っていた。
その浮気相手とおばさんはぼくと美恵が中1の年に、結婚していた。そのことは、母から聞かされていた。
ぼくは知らなかったのだが、美恵は高校に進学したころにその義父と折り合いが悪くなり、おじさんのもとに身を寄せていたのだという。
そのおじさんにも再婚の話が出た。
美恵とぼくが出会ったのは、ちょうどそんな時期だったのだ。
「この間会ったときね、きみがそばにいてくれるから、美恵は、もうお父さん心配しないでいいよって……」
「いつのことですか」
「10月くらいかな……」
ぼくは美恵のことをなにも知らなかった。
ぼくは美恵に関心なんてなかった。
美恵がそれから、目を開けることはなかった。
8時間後、静かに息を引き取った。
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