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11月、模試はD判定にまで落ちていた。
夏の終りに美恵の部屋に泊まってから、ぼくは予備校へほとんど行かず、毎日のように美恵の部屋へ入り浸るようになっていた。
美恵は夜中の3時ごろ店から帰ってきて、昼過ぎまで寝ている。
店休日の日曜と、休みを取った日はずっと一緒にいたし、同伴がない日も午後訪ねて行って、出勤時間が来るまで抱き合っていた。
美恵の部屋はモノがなかった。
フローリングの部屋の真ん中にソファベッドが置かれ、その横の鏡の周囲に化粧品が並べられている。
そのほかにはなにもないと言っても過言ではない。
自炊はしないし、掃除も滅多にしない。
そもそもモノがないから、散らかりようがないのだ。
食事はコンビニで弁当を買ってきて、適当につまむ。好きなおかずだけ食べて、あとは捨ててしまう。
ぼくは美恵がいなくなるとそのままベッドで寝るか、気が向けば参考書を広げて過ごした。
9月、10月はそれでも成績が落ちなかった。長年の蓄積が、基礎学力となって現れていたのだろう。
ただ現役生が本格的な受験勉強を開始する秋以降に、学力ではなく競争力が決定される。
11月からがその本番だとされていた。
ぼくは高校生のときから、志望校の判定をAから落としたことはなかった。
模試の結果が返ってきたとき、息が苦しくなるような不安を覚えた。生まれて初めて親に成績を隠した。
油断した。
浪人生は、学力を維持できても、上げることは絶対にできない。
ぼくは去年、勉強を重ねてピークを維持することができた。ここから現役生以上に勉強したとしても、どこまで取り戻せるものなのか。
後悔と焦燥が胸を締めつける。
大学に入ってさえしまえば、いくらでも遊ぶことはできたのだ。なのに、目の前にぶら下げられた餌を我慢できず、食いついてしまった。
ぼくは本当に久しぶりに、美恵の部屋へ向かわず真っ直ぐ予備校へ向かった。聴き飽きたはずの授業に出席した。
授業は思ったとおり、既知の内容だった。こんなことをしても無駄だ。ぼくは一時間で聴くのをやめ、自習室へ行った。模試の結果を検討するためだ。
結果は、どの科目のどの分野に明確な落ち込みがあるというものではなく、全体的に取りこぼしがあるという状態だった。
どこから手をつければいいのだろう。
去年はこの時期、すでに赤本にあたっていたはずだ。
いや、でも浪人した去年と同じことをして、ぼくは合格するのだろうか。しかも去年より成績が落ち込んだ状況で、同じやり方が通用するのだろうか。迷った。
両親から浪人は2年までだと言い渡されていた。
もう時間がない。効率的にやらなければならない。
面談を無視していたし、いまさらチューターに相談するわけにもいかない。そうやって方法を模索していると、あっという間に時間がたってしまう。
考えている時間をとるくらいなら、一問でも問題を解いたほうがよいのではないか。よし、そうしよう。手持ちの問題集を手始めに終わらせることにする。
解き始めると、なんの苦もなくページが進んでいく。
待てよ。この程度の難度の問題集では、もう成績は上がらないんじゃないか。苦手教科の底上げを図ったほうがいいんじゃないか、そう思うと、急に焦りがこみ上げてきて、手がつけられなくなった。
書店でいい参考書を見つけ、買ってこなくては。
ぼくは自習室を出て、予備校のそばにある書店へと歩いた。
デイパックが震えて、携帯がメールを受信したことを伝えてくる。
『きょうは来れないの?』美恵からのメールだった。
なにを気楽なこと言ってるんだ。
ぼくは『しばらくいそがしいから、部屋にはいかない』と打って、送った。
すぐに『いつまでいそがしい?』と返信がきた。つきあっていられない。
ぼくは携帯の電源を切って、デイパックの底に放り込む。
書店で目ぼしい問題集を買って、自習室へ引き返す。
やるしかないんだ。自分に言い聞かせ、シャーペンを動かした。
12月になっても成績は思うように戻らなかった。
チューターにも頭を下げ、受験プランの再検討を行った。
用意された予想問題集を、地道にやりこなすしかない。ここからの粘りが勝敗をわける。
美恵とは1度電話で話した。
あまりにもしつこくかけてくるので、言い訳ぐらいしようと思ったからだ。
「あのさ、受験が終わるまで、会わないようにしよう」
「えっ……」
美恵は絶句し、ぼくはなにか言われる前に一方的に電話を切ってしまおうと考えた。
「全部終わったら電話するから。じゃ……」
「待って! 少しだけでもいいから会えない? 年末とか」
「そのあたりは集中講義が入ってる。無理だ」
「……」
沈黙した美恵の反応に、もう十分だなと判断する。
「じゃあ時間がもったいないから、切るよ」
「あっ」
通話とともに電源を切って、デイパックの底に再び放り込む。
さすがに着信拒否にはできないが、もうかけてきてほしくないな。そう思った。
集中講義、直前対策ゼミを終え、いよいよ本番を迎えた。
成績はB判定まで戻していた。
それにもかかわらず、センター試験を惨敗した。
最初の科目で時間配分を間違え、実力の半分も発揮できなかった。その失敗を得意の英語にまで引きずってしまったのだ。
その夜は「後がない」プレッシャーに負け、ほとんど眠ることができず、翌日の試験も気持ちだけが空回りして終わった。
自己採点では、国公立の二次試験に出願したとしても、志望の学部はどこにも引っかからないような点数だった。
ぼくはそこで、去年までは眼中になかった「滑り止め」目的の私大へ次々と出願した。
どの世界でもそうだろうが、医師もただ免許をとればいいというわけではない。
その後の研究・臨床で力を発揮するためには、一流の大学を卒業し、その「閥」を利用する必要がある。
それらの私大は強い学閥を持たない、傍流といえた。
その日は、それらの私大の中でも比較的ランクが低く、去年のぼくなら合格していても入学していなかったであろう大学の試験日だった。
ほかにも併願した私大の試験を受けていたが、どれも芳しくない結果に終わっていた。
ひどくみじめな気分だった。
自分が「あそこだけは嫌だな」と笑い話にしていた大学を、受験するということが。
それでも後はない。どこかに合格しなければならない。
前日から雪が降ることが予想されていたので、ダイヤの乱れを考慮して、一時間半の余裕を持つことにする。
夜も空けきらないうちに支度を整え、ぼくは自宅を出た、が、そこで立ち止まった。
「あっ……」
とつぶやいたのは美恵だ。門扉の脇、郵便受けの前で、紙袋を抱えて立っている。雪が降っていた。薄く辺りに積もっている。
「なんで……」
ぼくは半ば呆然となりながら、門扉を開け、道路に降り立った。
店からそのままタクシーを飛ばしてきたのか。
美恵は胸元に抱えている紙袋を差し出した。有名なパティシエの店のものだ。
今日が2月14日であることは承知していたが、バレンタイン・デーであることは、自分に関わりがないと思っていた。
美恵はひどく早口で話した。
「最近、いそがしいいそがしいって会ってくれないし、チョコと、それにね、お守り、持って来たんだよ? 今日大事な試験なんでしょ?」
一瞬、脳裏が空白になった。
美恵が言っていることが理解できなかったからだ。
大事な試験?
今日の大学が?
なにが大事な試験だ。
最低ランクの滑り止めで、そこしか受かる見込みがなくて。
なんで大事な試験になってしまったんだろう……それは……考えるまでもない……
「……のせいじゃねえか」
「え?」
「みんなお前のせいじゃねえか……なにカノジョ面してノコノコ来てんだよ」
紙袋を払いのける。赤い光沢のパッケージが飛び出て、白い路面を滑った。
それを無感動に眺める。
「お前なんかと会わなきゃよかった」
言い捨てて先を急ぐ。振り返る必要など感じなかった。
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