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美恵と再会したのは、ぼくが二浪の浪人生だった19歳の夏だ。
医大の受験に失敗し、それでもあきらめきれずに都内の予備校に通っていた。
毎年模試ではA判定が出るし、体調を崩すわけでもないのに結果が出ない。
理由がわからないだけに苛立ちだけが募る。
そんな日々を過ごしていた。
その日はいつも乗り換える駅に新しくショッピングモールが併設されたので、見物がてら参考書を買いに寄り道し、それから予備校へ向かうつもりだった。
1階は女性向けファッションのフロアになっていたので、素通りしてエスカレーターに乗ろうとした。
そのとき、美恵から声をかけてきたのだ。
金髪で、黒いキャミソールにローライズのジーンズ。盛り上げられたまつげと、グロスのついたリップ。
遠目からでは、ぼくには絶対に美恵だとわからなかっただろう。
「久しぶり! わたし。わかる?」
「わかるよ。緒方だろ」
美恵は屈託なく笑った。
「なにしてんの?」
「本屋行こうと思って。そっちは?」
「時間つぶし。待ち合わせなんだ」
「……コーヒーでも、飲む?」
本当に、自分でも思いがけない言葉だった。
それだけぼくは他人との会話を求めていたとも言えるだろう。予備校生活はひどく味気ないものだ。
さらに驚いたのは美恵があっさりと「いいよ」と答えたことだった。
30分くらいなら余裕があるという。
ぼくらは出来立てのカフェテラスで、美恵おすすめのキャラメルマキアートを片手に、近況を報告しあうことになった。
「いま大学生?」
「残念ながら予備校生」
「そっか、タイヘンだねー」
ぼくがひどく他人事な反応に苦笑すると、美恵はこう続けた。
「だって、人より多く勉強するわけでしょ? よく余計に勉強する気になるよね」
ぼくはさらに苦笑しつつ、こういうやつだったっけ? と少し戸惑った。
「緒方は?」
「バイト」
「フリーター?」
「そ」
「なんのバイト?」
「キャバクラ」
どう返答しようか、わずかに迷った。美恵が首をかしげた。
「なに?」
「……楽しい?」
「楽しいよ。いろんな人と話せるし」
独り暮らしを始めたので、いろいろと物入りなのだという。
「ね、やせた? 中学のときより」
美恵は唐突に話題を変えた。美恵の癖だった。
「あたしなんて体重減ってんのにウエスト大きくなっちゃって。なんでだろ」
「それは運動不足で体脂肪が増えてんだろ……」
そっか、アタマいいねと美恵は言った。
これは美恵の口癖で、たぶんその台詞がいつもぼくには心地よかったのだと思う。
「中学っていうか、浪人してからやせたね。ストレスかな」
「じゃあさ、気分転換したいときに誘ってよ。久しぶりに遊ぼうよ。番号は?」
携帯の番号とメールアドレスを交換しその場は別れたが、夜にメールをして、美恵の予定をたずねた。
店休日は日曜で、平日にも疲れると休みをとっているのだという。
次の週の水曜に、待ち合わせて会うことにした。
ぼくは浪人生活に飽きていた。
なによりも一足先に大学に合格している同級生が、とっくに彼女をつくり、遊んでいることを羨んでいた。
美恵なら、中学のときから彼氏もいて、いまもキャバ嬢をやっている。
彼女なら、あるいは「やらせて」くれるかもしれない。童貞を捨てる絶好のチャンスなのではないか。
そう思いついたら、それしか昼も夜も考えられなくなった。
インターネットで「女性をモノにする」方法を調べて、必死に計画を建てた。
もちろん最初のデートからそんなことを言い出しても、無理に決まっている。手順を踏む必要があるし、あるいはアルコールの助けがいるかもしれない。
ぼくは雑誌も参考にして、おそらく何年ぶりかになる美恵との時間を、まったく異なる意味で大切に扱うことにした。
初めてのデートは映画だった。家族向けのフルCGアニメだったが、美恵は予想以上に喜んでいた。
そのあと一緒に食事をし、美恵はバイトへ行った。
夜にぼくから「今日は楽しかったからまた誘っていいか」とメールするのを忘れなかった。
美恵からは「もちろん」と絵文字つきで返信があった。
美恵と遊ぶことは、気を置かずにすむという点で、とても快適だった。
希望も素直に言うし、何度か出かけると気安さがよみがえってきて、多少感情をぶつけたところで関係が途切れないような感覚さえあった。
ただ時折美恵が見せる行動に、神経質なぼくは我慢できなくなるときもあった。
例えば、注文した料理を平気で食べ残す。
ぼくが支払っているのだし文句を言いたくもなるのだが、機嫌を損ねることはしたくないので口には出さない。
昔はそんなことはしなかったはずなのに。
そのうち食事ではなくて、出かけたあと居酒屋へ飲みに行くようになった。
美恵はアルコールが好きらしく、中学のころから「先輩たち」と誰かの家に集まっては飲み会をしていたのだという。
強さに自信があるのか、ペースがひどく速い。
酔うと、2倍笑うようになる。
そして同じ位ぼくにも飲むことを強要した。
美恵の酒癖は悪いと言っていい。目の前でウーロン茶でも飲もうものなら、即座に取り上げられ、罵られる。
これが「先輩たち」の薫陶の賜物なのかは知らないが、つらい仕打ちだった。
ぼくはまだ酒をそれほどうまいとは思えず、そのペースについていくのだけで精一杯で、先に酔いが回り、介抱され、駅まで送られるということを数回繰り返した。
駅でぼくは電車に乗り、美恵はタクシー乗り場からタクシーで帰る。いま美恵は、都内で一人暮らしをしているのだ。
部屋を見たいと言っても、警戒しているのか、そのうちねという返事しか返ってこない。
両親は喫煙にはうるさかったが、飲酒にはある程度まで寛容だった。
今日は高校のときの同級生と会う、向こうは大学生だと言い訳すれば、酔って戻っても小言はない。
こうして小学生からのお年玉を積み立ててあった貯金は、瞬く間に減っていった。
投資効率を考えれば、回収を急がねばならない。
ぼくはどうすれば美恵より先に潰れないですむか、一計を案じた。
つまるところ水分をたくさん補給するしかない。
美恵が席を立つとき、デイパックから隠しておいたミネラルウォーターを取り出し、飲む。
トイレに行くついでに、厨房へ立ち寄って水を飲ませてもらう。
おかげで終電間際になるまで、正気を保つことができた。
むしろペース配分が狂い正体を失いつつあるのは美恵のほうで、何度目かの水分補給から戻ると頬杖をついて居眠りをしていた。
さてどうしようか。
ぼくに意識こそあったものの、そこから先のことを立案するような思考力は残されていなかった。
ぼんやりと過ごしていたら、突然美恵が目を覚ました。
「何時!」
ぼくは腕をあげるのも億劫だったが、時計を見た。
「0時5分前」
「終電! 急がなきゃ!」
美恵は自分のトートバッグをつかみ、店員に声をかけ、会計を済ませてしまった。
ぼくの腕を取り、ソファから立ち上がらせる。デイパックを肩にかけられ、そのまま引きずられるようにして外へ連行された。
ここから駅までは歩けば10分ほどだ。切符を買って、階段を上って、間に合うかどうか。
「走ろう!」
美恵は小脇にバッグを抱え、ぼくの左手をつかんで走り出した。
転びそうになりながら明かりの消えかけた商店街を駆け抜ける。
酔っ払いを交わし、ホームレスとすれ違い、カップルの仲を引き裂く。1分ともたず、ぼくの足は次第にもつれはじめた。
美恵は人の流れを邪魔と判断したのか、途中で裏通りにルートを切り替える。
「早く! 早く! 終電間に合わないよ!」
美恵の速度は落ちない。
視界が白くなり、明滅し始めた。ぼくは足を止めた。
「もうダメだ!」
演技ではなく動けなかった。ここ2年の運動不足がたたっているのだ。
脳の芯が脈打ち、締め上げるように痛んだ。
息を整える間もなく、美恵は容赦なく腕を引っ張る。体が揺れる。
「急いで!」
「つかれたよ!」
引かれた勢いにのって、右手で美恵に抱きついた。そのまま体重を少しだけ預ける。
美恵が黙った。
酔いなのか興奮なのか走ったせいなのかわからないが、心臓が静まらない。
上半身すべてが血の塊になったように収縮し、膨張し、鼓動が響いた。
深呼吸する。
美恵の髪の香りが胸を満たす。
また深呼吸する。
少しずつ頭痛が遠のいていった。
「美恵の髪のニオイ、好き」
「そう?」
美恵はそっけない返事をして、ぼくの左手を解放すると、汗ではりついた前髪を払った。
ぼくはデイパックを足元に落とすと、自由になった両腕で美恵を包んだ。そうすると、美恵がとても小さかったことに気づいた。
美恵が動くのを止める。
ぼくの鎖骨のあたりに、美恵の額があたる。
髪をなでる。美恵は鼻をすりよせてきた。
耳にかける。美恵の頬があらわれ、ぼくはそこに口づけた。
そして顎に手をかけて、持ち上げる。唇が赤く、きらめいている。吐息が届いた。ぼくはその吐息ごと飲み干すみたいに、恵美の唇をむさぼった。
美恵の唇は甘かった。不思議だ、と思った。確かめようとなんども味わった。
夢中で繰り返していると、不意に美恵が顔をそらして、てのひらでぼくの口をふさいだ。
「ね、わたしのこと、好き?」
美恵が見上げている。ぼくは美恵の手を外した。
「……好きだよ」
嘘は簡単に喉を吐いて出た。
美恵はうつむき、腕の中で身をかすかに震わせた。いまにして思えば、笑っていたのかもしれない。
しがみつくようにして、美恵が耳元で囁いた。
「タクシーつかまえよ。部屋、行こ?」
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