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幼なじみの緒方美恵と出会ったのは、小学校に入学する直前の春だった。

新興住宅地の一角に、父が自宅を兼ねた診療所を開業したことから始まる。

内科と小児科が標榜科だったし、当時は一次診療圏がとても重視されていて、入居者の多くは若い夫婦で今後子どもの数が増えていくであろうことに、父は将来性を見出したのだと思う。


緒方家はほぼ同時に隣へ越してきた一家だった。

美恵もぼくも一人っ子で、すぐにはほかのともだちができなかったこともあり、兄妹のようにいつも二人きりで遊んでいた。

同い年の子を持つ両親同士も交流を深めて、合同で誕生日を祝ったり、クリスマスをしたり、“家族ぐるみのつきあい”が展開されていたのだ。

しかし、低学年はそれで構わなかったが、高学年にさしかかってくると、互いに異性として意識するようになる。

加えてぼくは塾通いをするようになり、美恵と遊ぶこともあまりなくなっていた。

例えば友人を招いた誕生会に、美恵が混じったら次の日からなにを言われるかわからない。

だから誕生会には絶対に呼ばないで。そう母に頼んだ記憶がある。


そんな風にして距離が開いていった中、5年生になってぼくと美恵は初めて同じクラスになった。

幼なじみだというだけでからかわれ、一緒に集団登校してくるだけで「夫婦!」などと囃し立てられる。

ぼくはそのことにうんざりしていた。

美恵もそのことを察してか、教室ではぼくに話しかけないようになっていた。


しかもその年のバレンタイン・デーに、ある事件が起きた。

ぼくにとって間の悪いことに、女子に「手作りチョコ」をつくって渡すブームが到来したのだ。

熱病にうかされたみたいに女子みんなが渡す相手を物色して、男子は期待に胸を膨らませていた。

そんな雰囲気の中、美恵から「手作りチョコがもらえる」ことが推定されているぼくは、やはりからかいの対象だった。

ぼくは義憤にも近い心情でその濡れ衣を払いたいと願っていたが、同時に美恵からチョコがほしいとも思っていた。

塾からの帰り、みんなには内緒で、家の前で待っていてくれればいいな。そんな甘い絵図を描いていた。


当日、ぼくの予定はしっかり狂わされる。

美恵があろうことに放課後、クラスメイトの全員の前でチョコを渡してきた。女子全員に後押しされるような形で。

それが個々に渡される場面ならぼくも耐えられたと思う。

ただ美恵は一番手で、ぼくは男子の代表のような構図になっていた。

当然、クラスの男子からは盛大なひやかしが巻き起こった。ぼくはその圧力を、堪えて受け流すことができなかった。

屈託なく微笑み、包みを差し出す美恵の手を払いのけると、そのまま振り返ることなく教室を出る。

教室からは悲鳴とも怒号ともつかない響きが重なり合って聞こえた。

それ以来女子からの人気は激減したが、男子からは一目置かれるようになる。

美恵との関係も終わりだな、そう確信した。実際に挨拶以外は口を開かなくなる。


それから半年たって、6年生の夏休みのことだ。

もう完全に切れてしまったと思っていた美恵との仲が、予想もつかない形で再びつながる。

夕方の6時くらいだっただろうか。塾から戻りネットサーフィンをしていたところへ、電話がかかってきた。

両親はまだ仕事中だったので、ぼくは自室の子機を取った。

「もしもし」と呼びかけると、少しの間無言だったが、泣き声が聞こえてきた。

美恵の声だ。

「美恵か? どうした?」

美恵は嗚咽交じりで答えた。

「部屋が……部屋がね……」

「家にいるのか?」

コードレスの子機をつかんだまま窓際に歩き、カーテンを開ける。

隣家を見ると、外灯はついているが、照明はついていない。夕闇がどんどん濃くなっていく。

「うん。あのね。あのね……」

その先は泣くばかりで話にならない。

「待ってろ。いま行くから」

ぼくは電話を切ると、部屋を飛び出した。

階段を駆け下り、靴をひっかけ、玄関から5秒の緒方家へ走る。

鍵はかかっていない。扉を引く。

薄暗い廊下の先に、美恵の白いスカートと、靴下が浮いて見えた。

靴を脱ぎ捨て、小走りで美恵のもとへ。


「ミー?」

ぼくは二人だけのときにしか使わない、幼いころの呼び名を口にした。

肩に右手をかけると、美恵は振り向きざま両手でぼくの右腕を捕まえた。

驚いて腕を抜こうとしたが、すごい力で放さない。諦めて膝立ちになり、左手でデニムの上着越し、背中をなでた。

「どうしたんだよ?」

美恵はずっとすすり上げるだけだ。

美恵が座っていたのは、ダイニングキッチンの入り口だった。

引き戸を開けて、そのままそこにへたりこんでいるのだろう。美恵の横には電話機のプッシュボタンが淡いピンク色に光っている。

室内になにかあるのだろうか。

夕方から夜へと移り変わりつつある空からは、もう明かりが届かない。

「ミー、電気つけるよ?」

何度も足を踏みいれたダイニングキッチンだ。スイッチの位置も体で知っている。

ぼくは体勢を変え、左手を戸の脇へ伸ばした。


照明がつくと、そこはぼくが知っている光景ではなかった。

まるで嵐が通り抜けたように、破壊され、乱雑にまき散らされた残骸が部屋を占拠していた。

食卓は脚を折られ、転がっている。

食器棚の食器はすべて床に落ち、破片となっている。

冷蔵庫は仰向けになり、棚は引き倒され、ジャーは潰れて中身をこぼし、レンジも、まな板も、包丁も、写真立ても、カップアイスも、ありとあらゆるものが、あるはずのにない場所に、あるはずのない角度で存在していた。

(泥棒?)

一瞬そう考えたが、そこにこめられた悪意は、子ども心にも理解できた。では一体誰が……ぼくは呆然と部屋を眺めた。


我に返って、ともかく家へ戻り両親に知らせる必要があることに気づき、立ち上がろうとする。

すると脱臼するのではないかというほどの勢いで引き戻された。美恵が全身の体重をかけている。

肩の内側に痛みが走った。

「ミー、放せよ。知らせなきゃ」

「行っちゃやだ!」

「放せって」

左手を使って指を引き剥がそうとするが、美恵の力には敵わなかった。

面倒くさくなって力を抜く。

「わかった」

美恵の隣へ腰を落として、柱に寄りかかる。

そのまま美恵がすりよってくるのにまかせた。二の腕に腕を回されたうえ、しっかりとつかまれる。

美恵の頭が胸に乗る。美恵はぼくのトレーナーに頬を擦り付け、涙を拭いた。

「パパだと思う」

「……おじさんが?」

美恵の唐突な断言に、温厚そうなおじさんの風貌を思い返した。おじさんはおばさんの「尻に敷かれて」いるように、ずっと見えていたからだ。


その夜はおばさんも遅くまで帰って来なかった。心配した母がおばさんの携帯に電話をかけ、おばさんが家に戻ってきた。

そこで廊下で眠っているぼくと美恵を見つけたのだ。

美恵は久しぶりにぼくの家に泊まった。

おじさんが出て行ったのを知ったのは、数日後のことだ。美恵は何日かうちに暮らしていた。おばさんと母は緒方家の整理を行っていたようだ。

その間、ぼくは塾に行かず、美恵と一緒に家にいた。

美恵は外へ出たがらなかったし、テレビばかり見ていた覚えがある。

美恵とおばさんはその年の暮れに、家を売り払い、市内の公営団地へと移っていった。


中学に入ってからは、まるで別の世界の住人だった。

クラスが一緒になることもなく、ともに登校するわけでもない。視線が交わることもなければ、言葉を交わすこともない。

とくに美恵は中学では派手なグループに属するようになり、内申点が気になるぼくとしては、近寄ることさえ危険に思われた。

派手といったって、田舎のことだ。髪を染めて、スカートを短くして、化粧して、その程度だったが。

学校の噂では美恵は上級生の「ものすごい不良」とつきあっていたが、先輩の卒業を機に別れた。

一方ぼくはパソコンのゲームに夢中で、リアルな女性とのつきあいはどんどん苦手になっていった。

母親同士のネットワークは健在で、時折近況らしきものを聞かされた。進学先を聞いたのも母からで、美恵は公立の商業科に進むということだった。

そこは成績の悪い生徒、正直に言えば、バカが進学することで有名な高校だった。

ぼくは医学部を目指していたので、私立の男子校を受験し、合格した。

そこから噂を聞くどころか、その存在さえもぼくの心からは消えてしまっていた。

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