侯爵が見た痛い目(前)



「トリス! なぜフェルエラ村を!」


 私とライエ以外は誰もいなくなった部屋で、ライエが怒っていた。


 なぜ?

 なぜと問われるとどう答えたものか……。


 本当に。

 本当にちょっとした、意趣返しというか。


 ちょっとした、まさに軽い気持ちでの、やり場のない気持ちを発散するための、悪ふざけのようなものだったのだ。


 あいつの話をした時の、リアのあの表情!


 あれは間違いなく恋に落ちた顔だ。


 あんなにわかりやすい表情にさせる奴がいるなんて!

 メフィスタルニアの跡継ぎとの婚約では眉ひとつ、動かさなかったリアが!


 断腸の思いで孫娘の後押しをしようと婚約を持ちかけたら、あれだ!


 侯爵になるつもりなどない、だと?

 まったく、何様のつもりだ!


 ライエがどのような形であっても取り込むべきだと言うから、名前だけでもケーニヒストル侯爵家の寄子ということにしたのだ。


 私が望んだことではない!


 だが、領主として必要な決断なら、それは実行するべきこと。


 そんなことはわかっている。


 だから。

 だから、だ。

 ちょっとした意趣返し、という訳だ。


 あのフェルエラ村で、何ができるか。


 本当にライエやリアが言うような、すごい少年なら、あのフェルエラ村で、何の問題がある?


 武官嫌いのイゼンと衝突して、村をうまく統治できない? そんなことはあるまい?


 結果を楽しみに待とうではないか!


 どうせ、はっきりと取り込むことはできないのだから。


「まあ、ライエがそこまで言う、それだけの者なら、別に問題ないだろう?」

「トリス……その顔。また、ちょっとした悪戯気分で、なんてことを……」


 ライエは二人きりになると、こうして幼友達の顔を出す。


「あれほど、手紙でも念を押しておいただろう? あれは、毒にも薬にもなる存在だ、と。余計な手出しはせず、名前を与えて放っておくのがいい、と」

「放っておくのなら、一番遠い辺境でよかろう」

「おまえはそうやって……昔から軽い気持ちでやったことに、いつも痛い目を見てきたクセに、まったく……」


 ……いつまでも昔のことを。私も、もういい歳だ。そうそう痛い目など、見るはずがない。






 すがすがしい顔をして、とんでもなく情けない報告をしてくる騎士団長は、クビにした方がいいのではないか、と思ってしまったのも無理はないと思うのは、私だけだろうか?


 騎士団長カリザールの後ろに控えるライエは、表情をうまく隠しているつもりなんだろうが、長い付き合いの私にはわかる。


 あれは、ほら、これでもまだわからんのか、と言いたい時の顔だ。


「それで、1本も取れなかった、と?」

「ですから、1本も取れなかったのではなく、あっさりと10本取られたのです! 閣下!」


 だからなぜ、たかが12歳の少年に、そこまでやられて、そんなすがすがしい表情で報告できるのだ? おまえはうちの騎士団長ではないのか、ひょっとして? 私の勘違いか?


 その顔!

 そういうのを喜々として、というのだ!


「10分もかからず、10本連続で、一瞬にして急所に剣先を寸止め! オブライエン殿が止めてくださらなければ、100本は連続でやられたでしょう! 勝てる想像がまったくできませんでしたぞ、閣下! あれは勇者などではありません! 剣聖でございます! 間違いありません!」


 騎士団長は団員の序列を決める模擬戦に参加しないが、騎士団長になる前のカリザールは序列1位だった騎士だ。


 しかも洗礼で『剣士』と神託が下りた武人だぞ?


「今すぐ騎士団へ入団させてください! 爵位持ちの入団は前例もあります! 年齢など問題になりません! さあ、今すぐ!」

「……その方、どうしてそう、嬉しそうに負けたことを話すのだ?」

「どれほど努力を重ねても、天才に勝てないのは当然でございます、閣下!

 よろしいですか? こちらが振りかぶって、振り下ろした瞬間には、こちらの剣筋には相手の姿も形もなく、それなのに首筋にふれそうな位置で剣が寸止めされ、剣圧の風に髪が揺れる度に冷や汗が流れるのです!

 胸を狙われた時など、明らかにわざと、はがねの胸板にこつん、と剣先をあててわずかな音だけを聞かせてくるのです! わはははははっ! 驚きで本当に心臓が止まるかと思いましたな!

 いつでもおまえの心臓を貫けるぞ、と! そう剣で語っておりました!

 あれが剣聖でないならば誰が剣聖になれましょうか? いや、誰にもなれませんとも! さあ、今すぐ騎士団への入団を命じてください! いえ、今すぐ騎士団長に任じてもかまいません!」


 昔から暑苦しい奴ではあったが、負けた相手にここまでのめり込む姿は初めて見た。


 だが、無理だ……。


「あの者には、抗命権を与えた。ヴィクトリアの恩人なのでな。騎士団への入団はあきらめよ」

「なんと!? そこをなんとかしてください! 閣下!」

「それをどうにもできないものが抗命権だ。あきらめよ、カリザール」

「ならばせめて、訓練への参加だけでも……」

「くどい。オブライエン、あとは任せる」


 私は執務室の奥のドアを自分で開けて、騎士団長を押し付けたことへの批難の視線を向けてくるライエから、私は私室へと逃げたのだった。


 あれは、だから騎士団長を行かせるような小細工をしても無駄だと言ったのに、という目だったのだろうと思う。


 ……どうにかしてあの少年を、困らせる方法はないものか。まあ、できても悪戯程度なのだがな。






 ライエがトリコロニアナ王国から来たという商会の番頭を目通りさせると言っていた。


 外国の商人など、珍しいものでもない。ここはケーニヒストルータ。世界最大の交易都市だ。町を歩けばその半数は外国人である。見た目にそれほど違いがないので、誰も外国人だと意識するようなこともないのだが。


 だが、次の一言で、一気に興味が湧いた。


「……アラスイエナさまとレーゲンファイファー男爵を護衛としていた商会の番頭です」

「ほう?」


 ここには他の執事もいるので、ライエも気安くは話せない。

 だが、なんだか嫌そうな顔をしたのはわかった。あまり表情の変化はないが、幼友達の私にはわかる。


 報告書では、護衛報酬が純利益の3割だか4割だかで、しかもそれを支払い続けるという、とんでもない契約をしているという。純利益をそれだけ支払って商会を維持できているということも不思議だがね。


 まあ、カリザールを圧倒するような強さであることは、今はもう理解しているが、それでも考えられない金額の支払いだろう。護衛は護衛でも、ただの護衛としていた訳ではなさそうだ。


 ライエは目で、頼むから余計なことはするな、と言っている。わかる。わかってしまう。幼友達だからな。だが、無理だな。


 執務室に入ってきた男は、獰猛な鷹のような感じのする男だった。

 これは、かなりの商人だと、直感でわかった。


 それと同時に、この貫禄のある商人がなぜあの少年をそこまで優遇するのか、興味が湧いて、ふくらんでいくことを止められない。


 ……これは、余計なことではない。


 この男を通して、あの少年の情報を得るのだ。


 そう。

 領地全体を管理する者として、辺境の要所を任せる新たな男爵のことは気にかけておいて当然なのだから。うむ、完璧な言い訳……いや、理由だ。


「神々のお導きにより、今日、侯爵さまにお目通りする機会を得ましたこと、感謝申し上げます。

 トリコロニアナ王国、ハラグロ商会の番頭、ガイウスと申します。以後、お見知りおきを」

「トリスタレラン・ド・ケーニヒストルだ。神々のお導きにより、我が町にて商売を始めると聞いた。異国で幅広く活躍しているというその方の商会の力で、この町のさらなる発展につなげてくれると嬉しいね」

「はい。微力を尽くしましょう」

「それで、だ」


 私は少しだけ咳払いをして、ちらりと番頭を見た。


「その方に少し、頼みたいことがある」


 私がそう言った瞬間、男を案内してきたライエの目が動き、私の目を射るように見つめる。


 そう怒るな。

 これは、領主として必要な情報収集なのだ。


「侯爵さまは何をお望みでしょう?」

「その方らと、アインというあの少年の関係について、全て。洗いざらい、話してもらいたいね」


 すっ、とガイウスという番頭が視線だけを下げた。


「それはまた、ずいぶんとお高いものをご注文でございます。神々はどのような対価を用意せよ、と閣下にお告げでございましょうや」

「対価か……」


 あの少年の顔が思い浮かぶ。


 我が孫娘ヴィクトリアを……あのかわいいリアを歯牙にもかけずに袖にした、あの少年。


「…………この町の港を出入りする船、その全ての利用をその方の商会には許可しよう」

「それは……」

「大旦那さま!」


 珍しくライエが大き目の声を出して諌めてくる。


 だが、これは重要な情報収集なのだよ。


「……つまり、話さない限り、船は一切、使えないという、神々の思し召しでございますね?」


 正しく理解できる男でよかった。


 もともと、全ての商人に認めているはずのことを許可するというのは、おまえたちだけに禁止するということなのだ。


「神々とはそういうものなのだよ」


 私はどこへともなく視線を動かし、再び番頭ガイウスへと戻す。


「わかりました」


 ガイウスは深々と頭を下げた。「神々の思し召しに従い、一切の船を使いませぬ。ケーニヒストル侯爵閣下におかれましては、筆頭執事オブライエンさまを通じ、ケーニヒストルータでの出店をお許し頂き、誠にありがとう存じます。それでは、これにて。

 いつかまた、神々への祈りの道が重なりましたら、お会いすることもありましょう」


 そうして、情報収集は失敗した。


 珍しく、はっきりと誰からもわかる表情で、ライエが溜息を吐いて、執務室に私を残し、ガイウスという番頭を案内して出て行った。


 これが、ケーニヒストル侯爵家を揺るがす、ハラグロ商会との対立のはじまりだったとは、この時の私は何も気づいていなかった。






 ひと月後。

 ケーニヒストルータの衣類関係の取引で最大の規模を誇るマルク商会から、侯爵家への支援要請が上がっていると、ライエが伝えてくれた。


「ひとつの商会を支援すると、きりがないと思うね」

「それはその通りだが、トリス、これは、まずい」

「……なんだ?」

「ハラグロ商会の仕掛けだ。しかも全て合法的に。気づくのが遅れた。もうケーニヒストルータの衣類関係は、公的な介入なしで支えられない」

「どういうことだ、ライエ?」


 そこから先の話は、意味は理解できても、理解しがたいことだった。





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