聖女の伝説(48)
おれの空耳アワーではなかったらしい。会場がざわついて、その、庭へと通じる大きな窓が開かれているところに、近くの人たちの視線が集中している。
「ヴィクトリアさまは、ここに。動かないで」
「アインさま!? わたくしも参ります!」
より強く腕を握るヴィクトリアさん。
ああ、ショーロンポーが当たってるけど、当たってるような感じがあんまりしねぇ……。
全力ダッシュで現場に直行したかったが、ヴィクトリアさんが離れてくれないし、もし本当におれが知らないだけで護衛役も兼ねているとしたら、ここに放置するのもまずい。
ヴィクトリアさんの歩幅とペースに合わせて、現場と見られるところにつながる窓を抜けて、庭へと出る。
そんなおれたちに続いて、好奇心旺盛な? それともゴシップ好きな? そういう人たちがついてくる。
ダンスホールの明かりが漏れているから、真っ暗ではないけれども、明るいともいえない庭。
その暗がりに、誰かが倒れている。
……姉ちゃんではない?
自分の右手を左手で押さえるようにして倒れているのは男性だ。よく見えないけど、目とか鼻とか口とかから、なんか、いろいろと垂れ流しているような? しかも意識もない!? こんな奴、絶対に姉ちゃんではない……っていうか!
「姉ち……姉上! 無事ですか!」
そのすぐ横に、姉ちゃんが立っていた。ドレスの青の濃さが肩の方にあることもあって、庭の闇に溶け込んでいるようだった。
「ああ、アイン。来たわね……」
そんな、待ってたわ、みたいな感じの状況かよ!?
「……倒れているのは、リノレイス子爵のところの次男ではないか?」
後ろの野次馬さんたちから、そんなつぶやきが聞こえる。
……その名前。めっちゃ聞き覚えがあるので、今がとんでもない危機だと思えますけど、これ、どうしよう?
間違いなく、実行犯は姉ちゃんだよ、これ……。
あー……おじいちゃん執事から話があったんだけど、まさか、ここまでやるとは。
「まさか、殺したの……?」
背後のざわめきが大きくなる中、できるだけ、小さな声で、姉ちゃんにだけ聞こえるように話す。残念ながら、ぴったりショーロンポーをくっつけてくるヴィクトリアさんには丸聞こえだけどな。丸聞こえだけども! ついでにショーロンポーだけどね! ぺったんだからな!
「死んではないわ。ちょっと指が2本くらい、折れただけだわ。この程度で気絶するなんて、情けない男」
いや、それ!? 情けなくはないから!?
普通は指とか2本も折れたら苦痛でうめいて倒れますって!? っていうか……。
「折ったんだ、指……」
「ええ。侯爵令嬢である私に触れて不埒な真似をしようとなさったんですもの。私が身を守るのは当然だわ?」
そう言った姉ちゃんの目は、本気で怒っていた。
わかってる。おじいちゃん執事から、姉ちゃんがいろいろと調べてることは聞いてた。
おれはてっきり熱心に勉強してんなぁ、ぐらいにしか思ってなかったから、気づくのが遅れたけど、姉ちゃんがいろいろと、孤児院と神殿絡みで調べてたと聞いて、まさか、リンネを確保して保護したのに、勝利条件はクリアしたのに、まだ終わらせるつもりがないのか、とか、思ってはいたんだけどね。いたんだけども……。
「イエナお義姉さま……その……何もされてないんですの?」
「ええ、もちろん。ちょっと肩に触れられただけだわ。でも、私、こんないやらしい男に、こんな暗いところに連れ出されて……私、もうどなたとも結婚できないかもしれないわ」
いや、それはアリだけど! 誰とも結婚しないってのはアリなんだけどな! アリなんだけども! 今はそこじゃねぇっっ!
絶対姉ちゃん、こいつがリノレイス子爵の息子ってわかってて、わざと連れ出されてるだろ?
しかも、最低限の痴漢行為で済むように、肩だけほんのちょっと触らせておいて、それで指の骨2本とかっっっ!! はじめっから狙ってんじゃん!
「……リノレイス子爵の次男が、侯爵さまのお嬢さまに不埒な真似をしようとして、護衛に成敗されたらしいぞ」
「リノレイス子爵か……ありそうな話だ……」
後ろの有象無象の野次馬さんたちが、ざわざわと噂してます。はい。
あ、やっぱ、そういう感じの子爵なんだ? ありそうな話なんだ?
リノレイス子爵は……神殿のラセランって神官と契約して、リンネを使用人見習いとして雇って、その上でムニャムニャしようとしていた子爵で、こいつはその息子なんだけどな。やっば、そのへんのエロ要素は親子で似るんだろうか……。
あーあ。おれも、姉ちゃんの怒りを甘く見積もってたかぁ……。
シルバーダンディには面会ん時に、釘、刺されてたけど。
「どうしたのだね?」
「何がありましたか? うむ? レーゲンファイファー子爵? それにアラスイエナさまと、ヴィクトリアさまも?」
シルバーダンディと騎士団長がやってきた。やってきてしまった。
「お義父さ、ま……」
そうつぶやいて、姉ちゃんは両手で顔を覆って隠した。
いやそれ、嘘泣きだよねー……。
「アラスイエナさま!? まさか?」
「……騒ぐな、騎士団長」
「いや……はっ! 申し訳ありません」
「イエナ、大丈夫か?」
「……は、い」
「そうか……アイン、何があった?」
ここでおれに聞くのか、シルバーダンディ!? アンタぜってぇー気づいてんだろ? うちの姉ちゃんめっちゃ嘘泣きですから!?
「……お義父さま。わたく、し……もう……お嫁に行けません……」
「イエナ……」
「アラスイエナさまに手を出すとは……なんという愚かな……」
騎士団長だけは、正しく犠牲者のことを判断していたのかもしれない。姉ちゃんの実力は騎士団員から聞いて知ってるもんな。手を出すなんて愚かでしかないよな。
……姉ちゃん、どうやらリノレイス子爵を追い込む気マンマンなんだけど!? リンネは直接の被害はなかったのに、とことんやる気に見えるんだけど!?
いや、実際、本当にちょっと肩には触れられたんだろうけど、これって、ほぼ痴漢冤罪事例だよな!?
いや、いろいろと冤罪とは言い切れないような一族でその息子ではあるとは思わなくもないけれども! けれどもな!
うちの姉ちゃんが怖すぎるんですけど!!
誰だよ? 姉ちゃんにこんな知恵つけたヤツは?
姉ちゃんは結局、リノレイス子爵の次男から肩に触れられたというだけで子爵からの謝罪と賠償を勝ち取った。
金額は大した額ではないが、金額の問題ではなかった。家名に傷をつけることが目的だったからだ。
養女とはいえ、侯爵令嬢への不埒な行いを息子がしたというのは、どうしようもなく、つまらない噂となって広がる。
姉ちゃんにも噂の被害はあるけど、姉ちゃん自身はそんなことをどうとも思っていなかった。
噂を無視できるというのは、実は貴族としてはある意味では無敵だ。
シルバーダンディもお披露目したばかりの養女になんということを、と、リノレイス子爵に大激怒して見せた、らしい。おじいちゃん執事情報だ。
現在、リノレイス子爵は寄子の中で浮き上がってしまって、長男に早目に家督を譲ろうと動き出したらしい。
……だが、姉ちゃんの反撃はそれで終了ではなかった。
夜会の3日後。
屋敷に7人の貴族家の当主がやってきた。
どいつもこいつも、暗い顔、してやがる。言い方は悪いが、まさに、しけた面、してた。
それもそのはず。
こいつらは……。
「みなさんをお呼びした理由は、おそらくもうわかっていらっしゃると思いますわ」
話は珍しく、姉ちゃんが主導している。というか、姉ちゃんは、おれに、口出しするな、と厳命している。姉ちゃんに逆らうつもりはない。だけど、今は正直なところ、おれが自分でやれば良かったとめっちゃ後悔している。
「私、実弟のフェルエアインに頼んで、ケーニヒストルータの孤児院の子どもたちを預かることにしましたわ。慈善事業は、ほら、貴族の役目でございましょう? 私、貴族にはなりたての、成り上がり者ではございますが、だからこそ、平民の、特に生活が苦しい者のことは、よくわかるつもりですから」
「それで、アラスイエナさま。我々は、いったい……」
「あら、覚えがございませんこと? お手紙にも書いておいたつもりですけれど?」
「は……」
「孤児院の孤児たちは、ずっと孤児院にはいられないのですわ。ですから、いずれ巣立つ日は来るものです。その巣立った先で、しっかりやれているとは限らないものですわね」
……ここに呼び出されている貴族たちは、姉ちゃんからの手紙で集まった。ラセランという神官を通じて、この約10年の間に、孤児院の女の子を買った連中だ。つまり、イエスロリータ猛タッチ軍団なのだ!
「……院を出たのはいいものの、今の職場に合わず、でもやめても何もできない、そういう者も自身が育った孤児院の手伝いならばできるのではなくて?」
「……確かに、我が家には、孤児院の者を使用人として引き受けておりますが」
「ええ。その中でも、やめたい、と考えている者がいるところの主である、みなさまをここにお呼びしたのですわ。違約金が必要ならばお支払しましょう。その子たちを、私の孤児院に返してくださいませ」
「やめたい、と申しておるので?」
「確認しておりますわ。お疑いになりますの?」
「あ、いえ。そんなつもりは……」
「今、すぐ。今、すぐ、ならば。これ以上、みなさまのことを追及はしないつもりですわ。ただ、神殿の神官との間で結んだ契約書は提出して頂きますけれど」
「契約書を?」
「きっちり違約金はお支払いたしますわ。孤児院からの格安の使用人でしょう? 侯爵家の予算を使わなくとも私に与えられた私費で十分、お支払できますでしょう?」
にっこりと笑う姉ちゃん。
「……実は、先日、私に縁のある娘が、孤児院にお世話になっていたことがわかって、引き取ろうと動きましたところ、ある神官がそれを拒絶しましたわ。調べてみると、ある子爵さまとの間で使用人契約を交わす予定だったとか。まあ、今は、お義父さまの命令で全ての契約がなかったことになって、その娘は私が大切に預かっておりますけれど」
男たちの中の数人の顔色が大きく変化する。
知っているのだ。うちの姉ちゃんがリノレイス子爵の次男の指の骨を折って気絶させ、それなのに肩に触れたという理由で謝罪と賠償を得た、ということを。
そして、縁のある娘と使用人契約を結ぶ予定だったのがリノレイス子爵だということも。
さらには、ここにいる全員の親玉である侯爵閣下がそのことをかなり苦々しく思っている、ということも。
「……すぐに、契約書を探してお届けします。その使用人も……こちらの屋敷へ送り届ければよろしいでしょうか? アラスイエナさまからの違約金は必要ございません。彼女は大変よく、我が家のために働いてくれたので」
一人の貴族が立ち上がって、姉ちゃんにそう言った。ずる賢いのか、小賢しいのか、それとも他に何か、事情があるのか。
例えば、正妻には秘密でのイエスロリータ猛タッチだったとか?
とりあえず、その一人の男は他の者よりも確実に頭の回転が速かったし、決断も早かった。
「あら、助かりますわ。では、どうぞ、急いでお帰りになって。ああ、お茶も出さずに失礼なことを致しましたわね」
もちろん、姉ちゃんはハナっからお茶など出す気もない。それもひとつのサインだからな。てめーらをまともに相手をするつもりなんかない、という……。
「いえ、おかまいなく。すぐにアラスイエナさまのおっしゃる通りにしますので」
「それなら、このお話はここまでですわ。どうぞ、あちらへ。ああ、こちらで預かる元使用人が子どもを産んだら、孤児院で育てるつもりですわ。よろしいかしら?」
男は黙ってうなずくと、そのまま一礼して、ばたばたと部屋を出ていく。
男が扉を閉じた後、部屋には一度沈黙が広がった。
そう。
姉ちゃんは、孤児院出身の使用人が、本当はどのような扱いを受けているのか、きちんと理解しているのだ。子どもを産んだら、孤児院で育てるつもり、という言葉に、それがはっきりと表わされていた。
「それで、みなさんは、どうなさいます? 私、孤児院のことは、我が身のように大切に思っておりますわ。ですから、どのような手段を使っても、孤児院の子も、孤児院を出た子も、守るつもりですけれど?」
もう姉ちゃんは笑っていなかった。
そこから3分もかからずに、イエスロリータ猛タッチ軍団は、次々に屈服したのだった。
……これ、どう考えても、姉ちゃんがハラグロ情報網を使ってるよな?
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