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年も明け、就職活動の準備も本格的になっていた。企業分析や、自己分析、セミナーへの出席。それらと平行して、ぼくはコンクールに応募するための長編の作品に取りかかっていた。
会うたびに静香にはアドバイスを求め、女性の心理について質問した。
ただ、静香は携帯電話もPHSも所有しておらず、自宅の電話番号は知っていたが、夕方以降は避けて連絡しなければならない。思い立ったときいつでも相談するというわけにはいかなかった。
二人で外出するときは、講座のあとで予定をたてた。なにかが変更があれば静香からぼくの部屋かPHSに電話があった。昼間は部屋、夜はPHSでずっと話し、電話代がその月あわせて4万円を超えていた。
長編のシナリオは完成したのは、2月も末になり、講座の期間は後約1ヶ月となったところだった。
静香の励ましもあって、なんとか完成にこぎつけたといえる。
静香はお祝いに、「何か好きなものをごちそうしてあげる」と言った。
お祝いには気が早いのではないかと思ったが、こういうものはともかく形にすることが大切なのだと、ぼく以上に興奮して、譲らなかった。
静香が予約していたのは、神泉にある隠れ家風のビストロだった。
1階にラウンジがあって、ピアノが流れている。食事を済ませて、ソファに並んですわり、静香はワインを、ぼくはシングルモルトを飲んでいた。
音楽と、静香のぬくもりと、生命の水に、ぼくは酔った。
こうしてずっと、いつまでも、一緒にいたい。ぼんやりとそう考えていた。
その夜は旦那さんは泊りがけで出張だったので、かなり遅くまで一緒に過ごすことができた。それでも終電が近くなり、店を出る。
ぼくたちは腕を組んで、歩き出す。
東横線に乗る静香のために、渋谷まで坂を下っていく。
そういえば、少し路地を入れば、円山町のラブホテル街だ。ぼくはそれに気づいたし、静香も気づいたのだと思う。そして、どちらも口を開かなくなってしまった。
静香のヒールの音だけが、規則的に響いていく。
駅前が近づいてきた。マークシティが眼下に見える。ぼくは緊張を、わずかに解いた。
「ねえ、今夜が、99日目の夜だったら、どうする?」
静香が、前を見たまま、コートの袖をきつく握った。
右のてのひらに包まれた、左手の指輪は……見えなかった。
ぼくは立ち止まり、静香の横顔を見つめた。
この角を、曲がって……
「冗談だよ」
静香がかわいらしく舌を出した。
翌日は酔いも残っていたので、昼過ぎまで布団にくるまっていた。
半ば覚醒しながらも、静香の昨夜の言葉の意味を考え、あのとき自分がほんの少し強引になれば起きたかもしれない場面を脳裏に浮かべ、狂おしさの波が全身を切り刻み、翻弄するのに任せていた。
半身を起こしても、胸に、澱のように、欲望が絡みついていた。
こんなものの晴らし方など知らなかったので、シャワーを浴びて、気分を切り替える。
なにかをしていれば気も紛れたのだろうが、その日は講義もなく、アルバイトもない。夕方近くまでその感覚に全身を蝕まれながら、なにも手につかず、ずっとテレビを見ていた。
PHSが鳴る。それはあの「感動」して電話番号を交換した女の子、直子からの電話だった。
直子とはすれ違うたびに立ち話をし、そのうちじっくり話そうなどと社交辞令を繰り返していたが、実際には静香を優先して、一度も講座後に話をしたことはなかった。
直子は一緒に夕食をどうですか、と言った。独り暮らしでいると、時折猛烈にひとりで食事するのが嫌になるときがあるのだと。
このままでは一日無駄にしてしまうし、誰かと話したほうがいいと思い、二つ返事で待ち合わせる。
地下鉄で一駅の池袋で直子と会い、適当な居酒屋に入った。
直子は短大生で、若くて、胸が大きかった。
それだけで大多数の男性の十分条件を満たすだろう。
直子はテレビドラマが大好きで、自分でもつくってみたいと思って講座に入ったのだが、自分でも恥ずかしい作品しか書けていないと嘆いた。
酔ったぼくは映画をもっと観ろよと偉そうにアドバイスした。つまるところ、ドラマは映画のコピーなんだから。
直子の感動したドラマを聞いて、その参考になりそうな作品を挙げていった。
そのうちのいくつかはLDが手元にある。貸してあげるよと言ったら、LDは持っていないから、いまから部屋に観に行っていいかと聞かれる。
他意もなくいいよと答えた。LDと中古のAV機器を組み合わせた自室の設備は、密かな自慢だったからだ。
勘定を済ませて、地下鉄に乗る。途中でコンビニに立ち寄り、缶ビールやチューハイ、簡単なつまみを買う。
女性が1人きりで部屋にあがるのは、大学に入ってから初めてのことだった。
テープを適当に積み上げてスペースをつくり、直子を通す。
こうして改めて人を上げると、狭い。物が多い。
コタツの上に買ってきたものを広げ、目的のLDを流した。
ぼくは缶ビールを開け、直子がチューハイを飲む。
映画が半ばに差し掛かったころ、眠気が襲ってきた。盛大にあくびをする。
さすがに映画を薦めた人間が、眠るわけにはいかない。
「ちょっと酔ったみたいだ。シャワー、浴びてくるよ。ゴメン観てて」
そう言い残して、ユニットバスへと向かう。
扉を開けながら、「いっしょに入る?」と笑った。
直子はこともなげに「わたしも眠いし、いいですよ」とにこやかに答える。
苦笑した。
そういえば今日はすでに二回目のシャワーだ。そんなことを思いながら服を脱ぎ捨て、頭から湯を浴びる。
湯はためず、すばやく出よう。
頭皮をかきむしり、眠気をとばそうとした。
「あの……」
直子の声がした。半透明の扉に、人影が写っている。
「どうしたの? トイレ?」
「いま、つきあっている人っているんですか?」
唐突な質問に戸惑い、湯を止めた。
「いないけど、どうして?」
静香のことが脳裏をかすめたが、返答が変わるわけでもなかった。
「……入ります」
扉が開いた。まさか。いや違う、こうなるだろうことは、わかっていたじゃないか。
直子は後ろ手に扉を閉め、音もなく衣服を脱ぎ捨てていった。
そのままぼくの立つバスタブの中に、踏み込んでくる。
甘い香りと、アルコールの匂いと、人の体温が、ひとつになって届いてくる。
直子がバスタブの中で足の位置を直した。
乳房が、ぼくの肌に押し当てられた。
ぼくは立ったまま栓を開き、降り注ぐシャワーで濡れた、直子の肩を、背中を、手のひらでぬぐった。そしてその大きな胸を丹念に何度もぬぐった。直子は甘えた声を出す。
ぼくの手が脚にまで伸びようとしたところで、直子はぼくを制した。
直子は自分でシャワーを止め、かがむと、膝立ちになった。
そして、ぼくの太ももの付け根のあたりにキスをしたのを最初に、あたりに、すべてに、口づけていった。そのままぼくを右手で握る。
そのとき、指が違うと思った。静香の指はもっと細くて、しなやかだ。直子のように丸くて、太くない。
「あれ……」
直子がつぶやくのが聞こえた。急速に力を失っていく。直子はあわてて口に含み、顎を動かした。それでも、力は戻らなかった。
ぼくは静香の小さくて薄い唇を思い浮かべた。
目の前にひざまずき、舌先でなめ上げ、ときには横笛のように唇を滑らせ、唾液をすする音をさせているのが、静香であるように感じるため、目を閉じ、神経を集中させた。
たちまちに、快感が押し寄せてきた。
ぼくは直子に壁に手をつけさせると、後ろから押し入り、静香の感触を頼りに、ただひたすら腰を振った。
翌週から、静香は講座に顔を出さなくなった。
代わりに直子が教室の扉の前で待っており、部屋まで毎回やってくるようになった。
不審に思われるのを承知で自宅にも何度かかけてみたが、留守電のままだった。
しつこくかけ続けていたある日、無機質な音声で、「この番号は現在使われておりません」とテープが答えた。
静香の消息は、途絶えた。
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