9/16「挫折」「背中越し」「金木犀の香り」

 ふわりと金木犀の香りが鼻についた。しつこいぐらいに甘い空気。私の大嫌いな季節がやってきた証拠だった。

 無意識に下唇をかんでいて、まだとらわれているのだと気づいた。もう五年は経つというのに。

 私はため息をこぼして営業先へと足を向ける。ようやく慣れてきたハイヒールを鳴らして、オフィス街を進んでいく。営業資料の入ったビジネスバックを握り直した。

 私はビルの隙間から秋空を見上げる。白みがかった青空。薄い雲がベールのようにかかっていた。

 秋は嫌いだ。

 そんな呟きがふと漏れる。薄い空との間に、彼女の背中を幻視した。もう一つ、私はため息をこぼす。

 会社にもようやく慣れてきた新卒一年目の秋。それでも私はまだ五年前の秋大会にとらわれていた。



 私の陸上人生にはいつも彼女の背中があった。

 スタートピストルに顔を上げると、もう彼女が前にいる。それは百メートル、ずっと追い越せなくて、いつも先に彼女がゴールする。

 それは小学生、走りの楽しさに目覚めた時も、中学生、レギュラーを競った時も、高校生、彼女が別のゼッケンを背負うようになってからも同じだった。

 いつだって、同じ景色。彼女の背中越しに流れる風景を見ていた。

 だから私は最後の大会で、彼女のいない景色を見ようと思っていたのだ。

 その日はいつも以上に調子が良かった、そして彼女は不調だという話も聞いていた。

 確証はどこにもない噂。けれどその日は陸上人生で一番と言えるようなコンディションで、私は静かに確信をしていた。

 今日は勝てる。

 彼女の背中がない景色が見れると信じ切っていた。

 けれど、スタートピストルが鳴ると、もう彼女は前にいた。声を上げる間もなく、彼女はぐんぐんと進んでいく。

 がむしゃらに足を動かして、手を回して、息を吸う。それでも彼女は近づかない。勢いよく流れていく景色の中、彼女の背中だけがぶれずに、ただ私の前にあった。

 

 そうして最後の大会、いつもの二着。耳の奥で鳴る鼓動を休ませながら私は膝に手をついた。

酸素を求める鼻と口に秋の風がとどく。金木犀の甘ったるい香りが粘りついた。

 呼吸を整え、顔を上げる。彼女の姿はもう無かった。



 今思えばよくある挫折だ。どこにでもある、けれど私の心から決して消えてくれない挫折。

 金木犀の香りが鼻につく。粘っこくて、甘ったるい、腹が立つ匂いだ。

 この香りは陸上人生最後の秋大会を思い出す。いつだって私の前に現れては消えていく彼女の背中のような。どこまでもまとわりついてくるような、しつこい挫折とそっくりだ。

「もう五年経ったのにな」

 営業先に向かいながらぽつりと漏らす。その呟きは背中越しの秋空にとけて消えていった。

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