ミソハギ

 あなたには禊が必要です、と駅前で腕を掴まれた時に、力ずくにでも振り切っていれば良かった。そもそも禊って何なのかも知らないのに、ほいほいついて行った私が全面的に悪いのかもしれない。でもなんか、美味しそうな響きだなと思ってしまったんだもの。

「冷たい冷たい冷たい、無理無理無理い!」

 白い着物に着替えさせられ、駅前で私を捕まえた女にぐいぐいと背中を押され、私は今にも冷たい滝の水に打たれようとしている。初秋の滝壺は既に真冬のごとく、川の流れに浸した素足はヒリヒリする。

 だいたい、ここはどこなのか。小さな車に押し込められて一時間ほどで着いた小田舎は、私の行動範囲から大幅に逸脱していて、県内なのかどうかすら分からない。車には他にも男が乗っていて、二人揃って全く同じ笑顔を私に向け続けた。私を滝へ押しやりながらも、女の顔には未だ、その笑みが張り付いている。

 道中でもお話しした通り、あなたには穢れが溜まっています、だからほら早く禊を、と女は言う。いやに力が強い。必死の抵抗も虚しく、私は頭から滝の中に突っ込んだ。悲鳴すらあげられない。冷たいと言うより最早苦しい。息ができない。頭の中には水音がなだれ込み、強すぎる水の勢いに膝を屈しそうになる。しかし、女がそれを許さない。ほら立ちなさい、立っていないと穢れが綺麗に落ちませんよ、とか言っている。何が禊だ、死んでしまう。それともあれか、死ねば一切の穢れから脱け出せるとかそういうあれか。そうか、なるほどそういうことね。

 私は激しい水音の中、渾身の力を込めて女を突き飛ばした。何も見えないけれど、女が一切の穢れから解放されたことを悟った。どこにいたのか、男の震える声が聞こえた。素晴らしい、それこそ真の魂の解放だ、彼女はようやく苦しみから脱け出せた、あなたは禊をやり遂げたのだ。

 そうか、私は禊をやり遂げたのか。

 気がつけば、激しく打つ滝の中に立つことが、苦痛ではなくなっていた。水と一体化するような不思議な気分で、このまま何時間でも、いや何日でも、何年でも、立っていられるような気がした。そうだ、私は禊をやり遂げた。そして、これからもずっと続けるのだ。それこそが私の使命、天命なのだ。

 私は静かに口角を上げた。

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