2.

 夢を見た。

 夢の中で、私はボートを漕いで大海原の中にポツンと一つだけ見える無人島を目指していた。

 無人島に上陸すると、そこには色とりどりの南国の果物を実らせた木々が茂り、無害な草食動物たちが草をんでいた。

 無人島での、たった一人の暮らしが始まった。

 洞窟の中で寝て、起きて、喉が乾いたら泉の水を飲み、腹が減ったら木に生っている果物をもいで食べた。島中にたくさんの種類の木が生えていて、それぞれ違った種類の美味しい実をつけるから、毎日違った味を楽しめて飽きなかった。

 動物たちはみな草食性で、島でたった一匹の人間種である私に全く興味を示さなかった。

 私も、動物たちをって食おうとは思わなかった。

 朝が来て、夜が来て、また朝が来た。

 今日が何年の何月何日かなんて事は、すぐに忘れてしまった。

 私は、この小さなくにの王だった。

 同時に、たった一人の国民だった。

 この暮らしが永遠に続くと思っていた。少なくとも老いて死ぬまで続くと思っていた。

 突然、その予想は壊された。

 私に無関心だった草食動物の一匹が、急に話しかけてきたのだ。

 最初の言葉は「こんばんは」だった。

 私はゾッとした。

 人間の言葉をしゃべるその一匹を無視して、私はその場から逃げた。

 そこで目覚めた。

 駅のコンクリート壁からい出る。

 ひどく喉が乾いていた。

 酔いは抜けていたが、寝起きにもかかわらず全身が倦怠感に満ちていた。

 とにかく水分を補給しようとキオスクで500CCのスポーツドリンクを二本買って立て続けに飲み干した。

 甘く冷たい水が胃から全身の細胞にみわたって、体じゅうの細胞たちが送ってくる快感の信号に、私の脳が震えた。

 空きペットボトルをゴミ箱に捨てた直後、また声をかけられた。

「やあ、どうも」

 驚いて振り返ると、山田だった。

 山田は「何も言わずに急に帰っちゃうなんて酷いじゃないですか」と言った。「まあ、おかげで幽霊さんが壁の中に潜り込むところを見られたから良かったですけど」

 相変わらず携帯電話を手に持って、その背面を私の方へ向けていた。

 私は「何者なんだ?」と問うた。

「昨日も言った通り、山田って言います。僕の顔に見憶えありませんか?」

 山田が微笑みを浮かべて私を見つめた。

 嫌らしい微笑みだった。

 見憶えなど無いに決まっている。

「真夜中、駅の巡回中、幽霊さんに驚かされたじゃないですか」

 山田のその言葉にハッとする。

 昨日も今日も、彼は若者らしいカジュアルな服を着ていた。

 私は頭の中で彼の体に駅員の制服を重ね合わせてみた。

 終電後に私の姿を見た宿直の一人……なのか?

「もう鉄道会社は辞めちゃいましたけどね。今はネットで動画配信やってます」山田が自己紹介を続けた。「心霊系のチャンネルです。最初は駅にまつわる怪談なんてやってたんだけど、ライバル・先輩たちが多くて、ポッと出の新参者が再生回数稼げるほど甘い世界じゃないんですわ。で、どうしようかなぁ、なんて考えていたときに古巣のこの駅で幽霊さんの姿を偶然見かけたんですよ。最初は所謂いわゆる『他人の空似そらに』だと思っていたんですがね……だって、幽霊というには、あまりに実在感が有りましたからね、幽霊さん。まったく普通の生きている人間と変わらないんだもん……でも、何となく気になって遠くから見守っていたんですよ。一日中」

「俺を尾行していたというのか? 一日中? この駅で?」

 私の問いに、山田がうなづく。

「なんか、ピンと来るものがあったんでしょうね。僕は元駅員で、刑事でも探偵でもないから尾行なんてやった事なかったけど、いざとなれば案外と上手く行くもんです。何しろ、これだけ大量の人間が出たり入ったりしている巨大ターミナル駅だ。しかもその何万という人間が、ほぼ全員、他人のしている事に全く興味がない。それに幽霊さんも完全に無防備だったでしょ? まさか自分が尾行されているなんて、そりゃ想像も出来ませんよね。だから、ちょっと距離を置けば、幽霊さん自身も含めて誰にも怪しまれずに尾行できる。で、半日ほど幽霊さんを観察していたら、あなた、とうとう壁の中に入って行ったじゃないですか。スルスルスル……って。いや驚きましたよ。同時に狂いそうなくらい喜びました。こりゃ最高のネタを掴んだぞ、って」

 そこで初めて、彼が携帯電話の背面を私に向けている理由が分かった。

「録画しているのか?」私は山田をにらんだ。

「そりゃ、それが今の僕にとって飯の種ですから」

「やめろ」

「そりゃ無理です」

「他人のプライバシーをあばくな」

「プライバシー……人権ですか? でも幽霊さんは幽霊であって、人間じゃないですよね? 人間じゃないなら人権も無いと思います。悔しかったら裁判でも何でも起こしてみれば良い」

 私は、山田の携帯を取り上げようと手を伸ばした。

 しかし、山田の方が上手うわてだった。

 手をサッと引っ込めて、二歩三歩と後ろに退がり私と距離を取る。

「じゃ、まあ今日はこの辺で……あ、それから昨日、幽霊さんがバーを出たあと僕も急いで追いかけたんですよ。もちろん気づかれないようにね。それで幽霊さんが壁に入った場所を憶えておいて、今日は朝から『張り込み』してました」

「何が言いたい?」

「つまり、幽霊さんが壁から出てくる所をバッチリ撮ったって事です。それじゃ」

 山田はクルリと後ろを向いて、人混みをかき分けホーム階段の方へ足早に去って行った。

 なぜ私は追いかけて携帯を取り上げなかったのだろうか?

 たぶん、すでに諦めていたのだろう。

 山田は若く、ガタイが大きく、身のこなしが敏捷だった。足の速さでも、捕まえて格闘になった時の腕力でも、とうてい太刀打ちできそうにない。警察沙汰にも出来ない。奴の言う通り、幽霊に人権は無い。

 第一、私の望みは『何者でもない者』としてこの広いターミナル駅に居続ける事だ。

 警察沙汰・裁判沙汰など、こっちから願い下げだ。

 とにかく落ち着こうと思い、一番近くにあるカフェに入った。

 コーヒーのつもりが、気づいたらビールのグラスを注文していた。

 苦い水が弾けながら喉を下りていく。

 どうすれば良いのか? なぜ放っておいてくれない? そればかり考えた。

 その日、私は現実逃避するためグデングデンに酔っ払い、前の日とは別の壁に潜り込んだ。

 体内を巡るアセトアルデヒドの不快さに苦しみながら眠りに落ちた。

 そしてまた夢を見た。

 ……もはや私は島の王でも、たった一人の国民でもなかった。

 草食動物たちが私をジッと見続けていた。

 洞窟に入る時も、洞窟を出る時も、泉の水を飲む時も、木の実をる時も、それを食べる時も。

 そして夢は現実と化した。

 駅の通路を歩いているとき誰かの視線を感じた。

 向こうから歩いて来る会社員風の男が、一瞬、私の顔を見て、急いで目をらした。

 喫茶店のウエイトレスたちが、私に視線を向けながら何やらヒソヒソ話していた。

 本屋のレジ係が、釣り銭を返すコンマ何秒かのあいだ私を凝視した。

 バーに入ると、バーテンダーが私をチラリと見た。

 ファストフードを食べていると、斜め向かいのテーブルに居た女子高校生たちが、さり気なく携帯のカメラを私に向けた。

 それらの回数は日を追って増えていった。

 ある日、駅内に何ヶ所かある『寝場所』の一つに行くと、若者たちが四、五人固まっていた。山田が『幽霊さんが壁から出てくる所をバッチリ撮った』と言っていた場所だった。きびすを返し、別の場所に潜って寝た。

 山田自身の姿も一、二回見た。

 用心しているのか、数十メートルも離れた場所に立っていた。

 私と視線が合うと、サッと身を隠した。

 遠くでよく分からなかったが、手にしている物はカメラのように見えた。

 ひょっとしたら高倍率の望遠レンズが付いているのかもしれないと思った。

今は遠巻きに私の姿をうつしているのだろうが、いずれそれにも飽きて、再び私に接触して来るような気がした。

 ひょっとしたらインタビューを申し込んでくるかもしれない。

 その時を待つことにした。

 機会はぐやって来た。

 コンビニで買い物をして出ると、自動ドアの外に山田が立っていた。

「やあ、どうも」

 相変わらず反吐へどが出るような笑みを浮かべていた。

「動画チャンネルとやらは、順調か?」といてみた。尋きながら、こちらも苦い笑みを浮かべてやった。

 山田が少しように見えた。

 この男は、幽霊の私を見縊みくびっている。私の性格を見ぬいたつもりになっている……引っ込み思案じあんで自分の存在を主張するより何者でもないまま誰にも相手にされず孤独でいる事を望んでいる、と。

 ああ、その通りだ。

 私の望みは、この世界に存在しない幽霊のまま駅の群衆にまぎれて存在し続ける事だ……いや……存在し続ける事

 しかし、それも終わりだ。

 山田の手元を見た。

 高そうなカメラを持っていた。

 ……なるほど。高価な機材を揃える程度には、動画配信とやらも成功している訳だな。

 山田が、自分の手元に注がれる私の視線に気づいて、それを握る手に力を入れた。

「ふふん」今度は自然と私の顔に苦い笑いが浮かんだ。「カメラを取り上げるなんて事はしないさ。高そうだからな。弁償訴訟でも起こされてはかなわん。お察しの通り、俺の望みは目立たず平和に日々を過ごす事だ。それに俺は幽霊だから弁護士も雇えないだろう。これまた御っしゃる通り、幽霊に人権は無いだろうさ。どっちみちカメラを取り上げた所でお前があきらめるとも思えんし、そもそも体力勝負でこっちが勝つ見込みも無い。いくら怒鳴っても凄んでも『良いが撮れた』と喜ばせるばかりだろう……どうせ勝ち目のない勝負なら、いさぎよく諦めて、逆に協力してやろうと思ったんだ」

「協力?」山田が戸惑ったような顔でき返す。

「ああ」私はうなづいた。「もちろん有料で、だ。出演料は頂く。その代わり、普段はしない事をやって見せてやる。結構な見世物スペクタクルだぞ……例えば……そうだな。ゆっくりと宙に浮かび上がって、あの天井の向こう側に消える……っていうのはどうだ?」

 私は右手をジャケットのポケットに差し込みながら、左手で真上を指さした。

 山田が顔を真上に向け、私の指さす方を見た。

 あごが上がり、奴は無防備に喉元を私の前へさらけ出した。

 さっきコンビニで買って右ポケットに入れておいた果物ナイフを出し(あらかじめポケットの中で鞘を外しておいた)奴の無防備な喉に思い切り突き刺し、横に払った。

 頸動脈が切れて血が吹き出す。

 ゴボゴボと口と鼻からも血を吹きながら、山田が私を見た。

 私は黙って今度は下から喉を突いた。

 もう片方の頸動脈も切断できた。

 吹き出る血の量が二倍になる。

 カメラが山田の手から落ちてガシャンと音を立てる。

 最後に、小さな果物ナイフを奴の柔らかい腹に突き刺し、血塗れのナイフを持ったままその場を離れた。

 女たちの叫び声が駅の通路に響く。

 周囲に人垣が出来つつあったが、血のしたたるナイフを下げた私が近づくと、まるでモーゼの海のように人垣が割れた。

 私はゆっくりとプラットフォームへ続く階段に向かった。

 ナイフは階段の途中で捨てた。

 ホームに出ると、ちょうど電車が止まって扉が開いたところだった。

 乗車客の列の最後尾に付き、降り客が出たあと、人々に続いて乗り込む。

 ドアが閉まった。

 電車が動き出す。

 地縛霊が、その地縛されている場所から離れたらどうなるか……以前から興味があった。

 今度こそ、幽霊わたしはこの世界から消えて無くなるのだろうか?

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ターミナルの日々 青葉台旭 @aobadai_akira

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