ターミナルの日々

青葉台旭

1.

 むかし『ターミナル』という名の映画を観た……という記憶が、私には有る。

 確か、主演はトム・ハンクスだったか。

 祖国の政変でパスポートが無効になり、アメリカの空港に閉じ込められた男の話だったような気がする。

 パリの空港内で十何年も暮らし続けたイラン人の実話が元ネタになっているという記事も、どこかで読んだと思う。

 もっとも、これらの記憶すべてが私の妄想で、そんな映画など存在していない可能性も充分にある。

 何しろ私には死ぬ前の記憶がほとんど無い。自分の名前さえ憶えていない。

 生前の記憶といえば、「映画を観た」とか「カレーを食った」とか、そういう断片的なヤツが十個くらい有るだけ。

 私は幽霊。いわゆる『地縛霊』だ。

 トム・ハンクスのように〈ターミナル〉に閉じ込められている。

 ただし、私が閉じ込められているのは空港じゃない。日本でも一、二の大きさを誇る巨大終着ターミナル駅だ。

 駅の改札を境界にして、それより外に出る事が出来ない。たぶん、それが地縛霊のルールなのだろう。

 死んだ瞬間の記憶は全く無い。

 地縛されているのだから、きっとこの巨大ターミナル駅の何処どこかで死んだとは思う。

 ホームを歩いている時に心臓発作でも起こしたのか、あやまってホームから転落して電車にかれたのか、あるいは誰かに突き落とされたのか、それとも自ら線路に飛び込んだのか。階段の上で足を滑らせて頭を打ったのかも知れないし、通り魔に刺されたのかも知れない。

 とにかく、気づいたら幽霊になっていた。

 自分の体から経時変化が失われている事に気づいて、それで『ああ、やっぱり俺は幽霊になってしまったんだ』と認めざるを得なかった。

 いつまで経っても髪の毛が伸びない。逆に抜け毛も無い。

 ひげも伸びないし、爪も伸びない。

 フケや垢が出ない。

 いくら飲んでも尿意をもよおさないし、いくら食べても便意が来ない。

 変わらないのは体だけじゃない。

 着ている服は何時いつまで経っても清潔なままだし、駅の構内をどれだけ歩いても靴底が擦り減らない。

 ポケットの金は使えば減るが、しばらくして手を入れてみるとまた増えている。

 これは大変ありがたい。

 改札の外に出られないとは言っても、ターミナル駅の内側は広大で様々な店が並んでいるから、金さえあれば幽霊に必要な大抵の物は手に入る。

 キオスクは当然として、その他にも本屋、文房具屋、喫茶店カフェ、各種ファストフード、駅弁屋、土産みやげ物屋、パン屋、ケーキ屋、うどん屋、そば屋、和食屋、中華料理屋、とんかつ屋、居酒屋、バー。シャツや靴下を売るファスト・ファッション、千円カットの床屋まである。

 さすがにホテルや旅館のような宿泊施設は改札の内側に存在しないが、そこは良くしたもので、幽霊になると壁の中にもぐって寝る能力が身につく。

 駅の壁には、所どころ『柔らかい部分』があって、自分の体をグッと押し付けるとコンクリート構造体の内部に潜り込むことが出来る。

 そこは人間ひとり分の真っ暗な空間で、音も無く、電車が線路を踏むゴトッ、ゴトッという振動だけがかすかに体に伝わり、それが心地良いマッサージ効果を生んで直ぐに寝入ってしまう。

 目覚めて最初に感じるのも、厚いコンクリート越し響く微かな電車の走行振動だ。電車の振動に起こされるというよりは、眠りを終え意識が徐々に浮かび上がってくるのが先で、少し遅れて微かな振動を感じ始めるという順番だ。

 それから私はコンクリートの中で全身の筋肉に力を入れて体を活性化させ、壁の中から駅の構内に姿を現す。

 壁から出てみると、着ている物が変化している場合がある。

 壁に入った時はスーツにネクタイ姿だったのに、目覚めて壁から出てみるとTシャツにカーゴパンツだったり、革のフライトジャケットにジーンズ姿に変わっていたりする。

 一体どういう仕組みでそうなるのかは分からない。

 ひょっとしたら、神さまが『たまには違う服を着ろよ』と気を利かせてくれているのかも知れない。

 目覚めた私は、ポケットの金を確認してから朝食をろうと駅構内の飲食店を物色する。

 ただし、目覚めた時間が朝とは限らないし、とっくにモーニング・セット提供時間が過ぎている場合も多い。

 幽霊になって時間経過による体の変化が無くなると同時に、時間の感覚も無くなってしまった。

 出勤する会社員で返している朝の通勤時間に眠くなり壁に潜り込むこともあれば、居酒屋やバーが満席になる夜の七時・八時ごろに目覚めて壁の中からゴソゴし這い出ることもある。

 目覚めた直後は喉も乾いているし腹も減っている。

 とりあえずキオスクで500CCのスポーツドリンクを買って飲み、それから『今日は何処で朝飯を摂ろうかな』などと思いながら駅の構内を散歩する。

 夜中に目覚めてぐにバーへ行き、豆を摘みにマティーニを飲むなんて事もやる。

 どの店の店員たちも、生きている人間と同じように私に接客する。

 まあ当然だ。

 私の外見は生きた人間と変わらない。駅の構内を行き来する無数の生きた人間たちとの区別は出来ないだろう。

 毎日毎日、百万単位の人間が乗り降りする巨大ターミナル駅だ。そこで働く店員たちにとって、私という一個の幽霊も行き交う群衆の一人でしかない。店を出れば彼らは三秒で私の顔を忘れてしまうに違いない。

 最終電車の発車後、翌朝の始発まで、駅はわずか四時間ほどの短い休眠に入る。

 その四時間ほどは群衆に紛れる事も出来ない訳だが……これまた良くしたもので、終電時間が過ぎ、駅から乗客が居なくなると同時に、私の『存在感』も急速に薄れていく。

 要するに、透明化して見えなくなってしまう。

『乗り降りする百万人の乗客たちが、私にある種の精神エネルギーを与えている』などという理論を仮定してみるが、まあそんな理屈はどうでも良い事だ。

 とにかく、駅が休眠している最終から始発までの時間、私は透明になって宿直・巡回の駅員たちからは見えない。

 だから気ままに誰も居ない構内を彷徨うろつける。

 たまに巡回の駅員と目が合って、駅員が「ぎゃー、出たー」などと叫びながら逃げていく事もあるが、それで何かが変わる訳でもない。

 その逃げて行った駅員の目に、私の姿はどんな風に映っていたのだろうかと思う。

 半透明にでもなっていたのだろうか?

 いずれにしろ、誰も居ないはずの真夜中の駅構内で『発見』されても、私に実害は無い。

 映画『ゴーストバスターズ』のような幽霊対策チームが派遣されて私を駆除するなんて事も無い。

 まあ、私の知らない所で多少の変化は起きているのかも知れない。例えば、くだんの駅員が宿直室で同僚や先輩に冷やかされ、飲み会で怪談ネタを提供するようになる、とか。

 話を営業時間中のターミナル駅に戻そう。

 繰り返しになるが、幽霊は時間感覚が希薄だ。少なくとも幽霊である私は希薄だ。

 今日が何年何月何日で、今が何時何分何秒か、なんてのは幽霊にとってあまり意味が無い。

 朝だろうと昼だろうと夜だろうと寝たい時に寝て起きたい時に起きる。

 朝だろうと昼だろうと夜だろうと、起きて最初に食べるのが『朝食』だ。

 朝食を終えた私は、再び駅の構内をブラブラと散歩する。

 一日に何度も駅の構内を彷徨うろつく。

 本屋が開いていれば、たまに入って文庫本の一つも買う。

 待合室の椅子に座って読んだり、喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら読んだりする。

 腹が減ったり尻が痛くなったら、河岸かしを変える。

 飯を食い終わったら、また待合室に戻って続きを読む。

 ビールを飲みながら読む事もある。

 読み終えた文庫本は『新聞・雑誌』と書かれたゴミ箱に捨てる。

 大体だいたいその頃になると、酒を飲んで摘みを食べる時間ひとときが恋しくなる。

 酒と摘みを出す店を探して再び構内を彷徨き、『ここだ』と直感した店に入る。

 餃子、天ぷら、鳥の唐揚げ、とんかつ、刺身盛り合わせ、日本酒、焼酎、ビール。飲み食いする物は日によって変わる。

 そこそこ酔いが回って腹が膨れた所で、コンクリートの中に入って眠る。

 何だか飲み足りない気がして、もう一軒行く事もある。

 少し酔いを覚ましたくなって、電車の発着するプラットフォームに出てみる事もある。

 ホームには、いつも人がたくさん立っている。

 電車が入って来てドアが開くと、さらに多くの人が電車の中からホームへ出てくる。

 それから今までホームに居た人たちが電車の中に入り、電車から出て来た人たちはエスカレーターに乗って去ってしまう。

 一瞬だけ、ホームに立つ人の数が減る。

 そしてまた次の電車まで増え続ける。

 電車は次々やって来る。

 電車から出たり入ったりする人々の邪魔にならない位置に立って、外気を吸いながら(幽霊だって呼吸くらいする)しばらくその様子を眺める。

 地縛霊である私が電車に乗ったら、一体いったいどうなるのだろう? と、時どき考える。

 ドアが開き、電車の中に居た人たちが出て、入れ替わりに電車に乗ろうとする人たちの列にまぎれて一緒に電車に乗る。ドアが閉まる。電車が動き出す。もう駅には戻れない。

 ……それから? 地縛霊の私の体は、どうなるのか? 駅から離れると霊力が失われて消えてしまうのだろうか? それとも何らかの作用により強制的に駅に戻ってしまうのだろうか?

 それを確かめるには、プラットホームから電車の中へ一歩踏み出せば良いだけの話だ。電車の扉が閉まればそれで決着がつく。が、まだ私は。

 ある日、文房具屋でノートと万年筆を買った。

 ロイヒトトゥルムA5ノートと、パイロットのカクノというやつだ。

 ノートは表紙が硬いタイプで、待合室のベンチに座ってももの上に乗せて書ける。

 万年筆は初心者用の一番安い部類だが、書き味は良い。

 詩のようなもの、日記のようなもの、小説のようなもの、色々書いてみる。

 なるほど、真っ白な紙がパターンで埋まっていくというのは気持ち良いものだなと思う。

 そのパターンには意味があり、その意味は自分の脳が生み出したものだという感覚。

 さらに、ペン先が紙の表面を撫でてインクが流れていく物理的な感触。それがペン軸を通して指先に伝わる。

 白い紙の上に、私の思考が堆積していく。

 ノートを買った日は、飯を食うのも忘れてロイヒトトゥルムを黒インクの文字で染めるのに夢中になった。

 詩でも、日記でも、小説でもない思考の断片が体の外に出て目に見える形で定着していった。

 後で読み返せば、それは一繋ひとつながりの意味を持たない支離滅裂な短い断片だった。

 しかし書いている一瞬一瞬は、それまで知らなかった新しい快楽を知って夢中になった。

 子供が新しい玩具おもちゃを与えられて日が暮れるまで遊ぶようなものか。

 幽霊は時間の感覚が薄い。

 ふと気づくと猛烈に腹が減っていた。

 何か、こってりとした物を食べたくなって、地下にある(もちろん駅中エキナカの)とんかつ屋に行った。

 定食は頼まずヒレカツを単品で取って、テーブルに置いてあった『特製とんかつソース』とやらを少し多めにかけ、赤ワインを一本頼んで、かつとソースの旨味を喉へ流した。

 刻みキャベツにも軽くソースをかけて、あい間あい間に噛む。

 あっという間に一皿を食べ終えてしまった。

 次の皿を頼もうと思うが、問題はワインの残量だ。

 半分よりは少なく、三分の一よりは多い。

 二皿目にロースカツを頼んで残りのワインで平らげるというのが一番無理の無い選択だろう。

 しかし、このペースだと、二皿目を食べ終える前に一本目のワインが無くなってしまう。

 二本目を頼むか?

 頼むとすれば、二本目を白ワインにして、エビフライを食べるという手もある。

 そうなると、いま目の前に三分の一強ほど残った赤ワインをつまみ無しでやる必要が出てくる。それはそれで味気ない。

 そもそも、ワインを二本も一度に飲み干す自信が無い。

 可能かも知れないが、泥酔して見っともない姿を晒すのは御免だ。

 結局、最初の予定どおり二皿目にはロースカツの単品を注文し、瓶に残ったワインをペース配分しながら飲むことにした。

 とんかつ屋を出たとき、それなりに酔っ払っている自覚があった。

 一方、なんとなく物足りない気もした。

 もう一杯だけ飲もうと決心し、バーへ向かった。

 バーに行くと、短いカウンターに空席は二つだけだった。

 この時間にしては混んでいるなと思いながら、二つ並んだ空席の一方に座った。

 さて、何を頼むか。

 強い酒をクッとやるか、長いグラスに入った甘い酒をチビチビ飲んで腹と肝臓を落ち着かせるか。

 結局、マティーニにした。

 魚釣りはふなに始まり、最後にまた鮒へ行き着く。

 困った時のマティーニ。迷った時のマティーニ。

 差し出された冷たいグラスの縁に口をつけてまずはキュッと一口すする。

 うん。とんかつと赤ワインで荒れた胃壁にみる。

 健康にとっては最悪なのだろうが、私は最初から死んでいる。

 オリーブの実を食べていると、隣に男が座った。

 今日は混んでいて他に席が無いのだから、まあ仕方ないかと思って横目でその男の顔を見た。

 年齢は二十代半ばから後半だろうか。三十は越えていないような気がする。

 はて? どこかで見たような……

 もっとも、毎日百万の人間が行き交う巨大ターミナルだ。この男と駅構内のどこかでちがっていても不思議じゃない。その時の記憶が脳の片隅にあったのかも知れない。

「どうも。こんばんは」その若い男が私を見て言った。

 いきなり声をかけられて驚く。

 地縛霊になってこの駅の構内を彷徨うろつくようになって以降、店員以外の人間に声をかけられた事は無い。

 他人から見れば、私は駅を行き交う百万の群衆の一人だ。

 群衆は、自分以外の群衆に興味を示さない。

 他人に声をかけたりしない。

 それなのに、この男は……

「やあ、すみません」男は微かに首を動かした。「急に声をかけたりして。驚かしちゃったみたいですね。僕、山田って言います」

 自己紹介をしながら、山田と名乗る若い男は、さりげなくポケットから携帯電話を取り出して片手に持ち、その背面を私に向けた。

 動作があまりにも自然でさりげなかったためその時は何とも思わず見過ごしてしまったが、あとで思い返して、山田はバーの隣に座る私の顔を携帯の動画撮影機能で撮り始めたのだと気づいた。

「僕の顔、憶えていませんか?」

 言いながら、山田が自分の顔を指さす。

 その時、私はからさまに不審げな顔をしたと思う。

 自分の顔を憶えているかと私に問うこの男は、逆に言えば、私の顔を憶えているのだ。

 それは、ありえない事だった。

 私は幽霊だ。何者でもない男だ。誰も私の顔など憶えているはずがない。

「あなた、幽霊さんですよね?」山田が言った。

 その一言に、私は心臓が止まる思いだった。(幽霊にだって心臓はある。たぶん)

 反射的に、もの凄い目つきになって山田をにらんでしまった。

 私の体内から同時に湧き出た二つの強烈な感情……『不安』とその裏返しの『怒り』が、無言のうちにバーテンダーに伝わったのだろう。バーテンがチラッと私の顔を見た。

 私はカクテルの残りをグッと飲み干し、勘定を済ませてバーを出た。

 目立つのは嫌だったが、一刻も早くその場を離れたい気持ちが強く、店の者に『釣りは要らない』と捨て台詞ぜりふを吐いてしまった。

 さっさと壁の中に入って寝たいと思うが、酔いが回って足が覚束おぼつかない。

 何ヶ所かある『壁の柔らかい場所』のうち、一番近い所を目指して歩く。

 やっとの思いで(しかし実際にはわずか一、二分で)寝床のある場所に辿たどり着き、自分の体を壁に押し付けた。

 体がグニャグニャとコンクリート壁の中に込んでいく。

 構造体の中はいつも通り暗く、寒くも暑くもなく、微かな圧力が私の全身を包んだ。

 線路を踏む無数の電車の振動が私の骨を震わせる。それは厚いコンクリートを伝わるうちに減衰して、私の骨に届く頃には感じられるか感じられないかギリギリの小ささになっている。

 いつも通りの小さな振動に安心を覚えながら、私は眠りについた。

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