ディヴィ・メディケーションとユミの幸福

犬井作

七月某日

 私は私であるために彼女にしたがわなければならなかった。生活リズム、食生活、それから行動。それらに自分の意思決定なんて必要ない。私たちは物質だ。ものだ。物理法則に従う有機物の高分子化合物だ。私たちの容貌や能力は遺伝的要因と環境要因の組み合わせにより決定づけられる。遺伝的要因に最適化された環境要因を用意することができるなら、私は社会化された幸福を容易に手に入れることができる。好きになるもの、嫌いになるもの、その日の運勢の捉え方、それも望むままになる。彼女は、人生から不正解を排除してくれる、神様のような人間だった。


 小岩悟子。それが彼女のなまえだ。彼女はほんものだ。政府がエクスタと連携して開発したAIなんかとは違って、彼女は実在しているし、会った人もいるという。おととし、コンピューターの計算能力が向上しすぎてラプラスの悪魔を実現できたなんて話題になっていたけれど、コンピューターが扱える乱数はしょせん擬似乱数に過ぎないし、宇宙は量子的ゆらぎを逃れることができない。しかしシュレーディンガーがいうようにまとまりをもった分子は統一的な振る舞いを行える。運命と取り組みたいのなら、マイクロテクノロジーなんて必要ない。マクロな現実のメタ的法則にハックしてやればいい。悟子はいちはやくそれに気づき、わずか一年でメタ法則を発見した天才なのだ。


 悟子は世間の流行にしたがったと言われているがそれはちがう。会員制クラブでのみ面談を行うのは発見のために投資した資産の回収をするためだ。もともと投資家の家庭に生まれた悟子は、昔からゼロサムゲームを社会に仕掛けている実態を嫌っていた。だから貨幣という実態のない価値をサービスというかたちで還元したかったらしい。これは先日、本人に聞いたから間違いない。いまだに彼女は借金を抱えているそうで、だから私は、彼女のサービスの対価を毎月支払う。誰がなんと言おうとも、だ。


 耳元に蘇った声を振り払う。


 悟子さんとは一日に一度会うことができる。午前八時、それが私に充てられた時間だ。面会は十五分。ストレッチと軽い有酸素運動をして果物ベースの食事をしてから、その椅子に座ったまま、オンライン面会アプリを開いて、開始時刻までの瞑想をおこなう。それが終われば、そこに悟子さんがいる。そして今日も、彼女と会えた。


 規則通りの生活を行い、アプリの瞑想終了の通知を合図に目を開けると、スマートテーブルのホロ・ディスプレイが、ダ・ヴィンチのモナ・リザをおもわせる、うつくしい髪の女性を出力していた。


 悟子さんは今日も素敵だった。そのあわい微笑みを見るだけで、胸はきゅうっとしめつけられ、頬は自然とほころんでしまう。立体通話(リアライヴ)で私の部屋にあらわれた悟子さんは、いつものとおり挨拶から始めた。


「おはよう、ユミ」

「おはよう、サトコさん」

「なんだか調子が悪そうね。嫌なことでもあった?」

「どうしてわかるの?」


 驚いて声をあげると、悟子さんは手を口元に当てて上品に微笑む。


「おかしなことを聞くのね、ユミ。わたしがどれだけユミを見てるとおもってるの? ちゃあんと、あなたのことはわかってるわ。今日も規則をこなしたようだけど……お母さんね?」

「そう、そうなんです」


 私は息を弾ませた。いたこともない姉に甘えるように、つい、家族の愚痴を言ってしまう。


「また、サトコさんの悪口を言うんです。エクスタ社のターゲティングアドバイザーに変えなさいって。信じられます?」

「人には人の考え方があるものよ」

「でもサトコさんの悪口を言うんです。あんなのありえない、って。物理的実態を持たない人工知能のほうを信用しろだなんて、おかしいですよ、そんなの」


 そうね、と悟子さんは頷いた。


「マシンの感覚は必ずしも私たちの感覚と一致しない。どれだけ観測精度が上がっても、情報を統合しゲシュタルト的に判断した時、そこにはバイアスがかかってしまう。エクスタ社のAIは優秀だけど、部分を総合して全体を捉える時、一定のパターンと揺らぎを排除しきれない」

「その方が正しいなんていう人もいるけれど、私、違うと思うんです。だからサトコさんを信じてるのに、そんな私を、まるで変だって」


 言っているうちに涙が目に滲む。悟子さんはかなしそうに眉尻を下げた。


「私が心配しているのはね、ユミ、あなたのことなのよ」


 サトコさんは静かに語る。


「あなたは、私の愛を信じてくれてる」

「……はい……」

「じゃあ私のことを、愛してくれてる?」


 ドキッとした。顔を赤くしながら、けれど、ゆっくりと頷く。


「だったら、それでいいじゃない。以前、話したかしら。私と親との確執のこと」

「うん……サトコさんが、憔悴してた時、どうしたのって聞いて……」

「あの時、嬉しかったなあ。私も、いつも不安だから。本当に信じてくれているとわかったから……私も親には、やってることを理解してもらえなかった」


 悟子さんがかつて語ったことを思い出す。悟子さんは私をまっすぐ見つめて、だけどね、と言った。


「認められないのは、どうしようもないことかもしれない。けどあなたは私を信じていて、私もあなたを信じている。それだけでいいの。だからこそ、ちゃんと実践してほしいの」

「証明のためにも、ですね」

「私たち自身のためよ」


 悟子さんのことばは力強かった。


「強いストレスを感じたあとはその免疫系へのスティミュルをリセットしなければならない。副交感神経を優位にして、意識を整えないといけない。わかるわね」

「はい。ごめんなさい……」

「いいのよ。つらかったのよね」


 何度も頷く。きつい仕事。その合間の休憩時間にかかってきた母からの電話。思い出して、頭を振る。


「いいのよ。目を閉じて……ゆっくり思い出して。過去は距離だと忘れずに」


 母との口論。罵り合い。こんなことを話したいわけじゃないのに。まるで人を、新興カルトにでも目覚めたように扱う態度。


「言いたかったことを、全部言って」

「私だって、もう大人なのに」


 大人のように扱ってくれない。ひとつも信じてはくれない。心配なんて言葉で私を支配して、そんな自分を顧みない。なんで? どうして、私のことを考えてくれないの?


「ゆっくり息を吐いて、それから、ナイフをとりましょう」


 私は、テーブル中央の果物ナイフを手に取った。


「お母さんの言葉はどんな色?」

「……わかりません。でも……乱暴だった」

「お母さんの言葉を、どうしたい?」

「めちゃめちゃにして、どうでもいいようにしたい」

「それならざくろに突き立てて、陵辱しましょう」


 言われるままに突き刺す。何度も穴の空いた透明なマットにもうひとつ穴が開く。白いテーブルに、果実から漏れた液が広がる。ナイフの先端をぐりぐりと動かす。ざくろがいっそうぐちゃぐちゃになる。形を失っていく。

 母の言葉が血に汚れる。私は刃で、赤い言葉を犯す。そしてすべてを奪い去る。


「それを、トイレに流してあげましょう。家を出る前に、いちごをひとつ、食べましょうね」

「ありがとう、悟子さん」

「どういたしまして。今日も、良い一日を」


 悟子さんは私に微笑んだ。




 言われた通りの手順をすませたおかげで今日もいちにちじゅう気が楽だった。私は出勤し、大学へゆき、基礎教養を教えて事務仕事を行った。昔はどのこともひとつひとつ面倒を感じていたけど、この全てが私の役に立つのだと思うようになってから、とても気持ちが楽だった。


 お昼休みには、割り当てられた部屋でお弁当を食べた。今日は悟子さんのインタビューを見た。執務室には有機ELのスクリーンがあって、そこで昔ながらのテレビを見ることができる。お昼の御長寿番組に呼ばれた悟子さんは、老いたかつての名キャスターに、あなたも大変よねと言われていた。


 大変なんですってねこのご時世占い師みたいな商売は。眉唾だとか、色々言われるんでございましょう。悟子さんは苦笑しながら頷いた。タロット・リーディングや易経、そういった古来から伝わる占いは、科学なき時代に運命に向き合うために発達した定性的な統計学なんです。どういう行動をすればどういう影響が生じるか、マクロな視点で考察しようとしていたんですね。私はそれを現代に通じるように整えただけなんですけれど、同業者からも、他者からも、やっかみはうけちゃいますね。


 ディヴィ・メディテーション。予見と瞑想の足し算、ただそれだけのテクニックだ。私をはじめとした悟子さんのサポーターは、彼女によって最適化された行動を行っているに過ぎない。思考停止的で盲信的と言われたら、確かにそうだろう。だけど、AIのいうことを聞くことも変わらないだろう。そう思っていると、かつての名キャスターは、変わらぬ冴えを見せてくれた。


「誰かの言うことを聞くことが問題なんじゃなくて、誰の言うことを聞くか自ら選ばないのが問題ですのにねえ」


 私は、そうだそうだとうなずいた。




 午後五時、仕事を終えた私は、規則通りにタバコ屋へ行き、ライターをひとつ購入した。リライによれば、今日はこれを、職場から500m離れた電柱の根本に供えれば良いそうだ。


 街並みはいつもと変わらない。地方都市らしくちょっとさびれていて、アスファルトにはヒビがある。何年前から残ってるだろう。地元とそう遠くないこの街には同級生も住んでいる。

 昔は歩くことも嫌だと思っていたのに、悟子さんと出会ってからそんなこともなくなった。


 辛気臭い顔だと職場で言われることなくなったし、生徒からは英語力試験で満点近くを取ることができたと感謝された。いいことばかりが続いていた。私がリライに従うのは、成果に現れているからだ。


 リライは悟子さんが作ったアプリだ。面談や、私の行動のログを蓄積している。悟子さんはそれをもとに、22.5時間周期で翌日の行動を最適化・調整している。ひとつひとつ目を通すから、選ばれた人たちにしかできていないプランだ。これのおかげで、私の容貌も、能力も改善されている。求めていた人生を歩むことができている。


 私は手の中でライターを転がす。百円で買った、透明なピンク色のケースのライター。赤や青、緑でもダメだ。この色が私を、今日の私を幸せにしてくれる。私は太陽に透かしてみる。そのボディには、横一文字に薄い傷が入っていた。製品に問題はないよとおじさんは言ってたから大丈夫だろう。


 これを電信柱に供える、なんて不可解な行動、母に従うばかりでいた私ならきっとしなかっただろう。だけど今は違う。自信を持って、選ぶことができる。こうした一見無意味な行動が、メタ法則へハックする手続きなのだといまの私は知っている。


 高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない。


 私は寄り道をして、今日の夕ご飯の食材を買ってから目的地へとたどり着いた。どの電信柱かわからない不安もあったけど、みた瞬間、これだ、と思うものがあった。それはまっすぐ聳えており、その先端の延長線上には青空に浮かぶ月があった。それはまるで、「2001年:宇宙の旅」のモノリスのように、在るものだった。


 直感に従えと悟子さんは言っていた。私はその通りにした。モノリスめいた電信柱にライターを置いて、両手を合わせ、お辞儀した。


 帰路へついて少しした時、私の隣を、ジャージ姿の女の子が走り過ぎた。ぶつかりそうな勢いだったので慌てて避ける。文句を言おうかと振り返ると、その女の子はもう遠くなっていた。ふとそこで、私は供えたはずのライターがなくなっていることに気がついた。


 どうしたことだろう。不思議に思って、供えた場所に戻った。さっきの子が蹴っていったのだろうか。電信柱の周りを見回したけど、しかしライターはなかった。


 買い直すべきかとおもいリライを起動した。チャットで相談、を呼び出す。


 サトコさん。呼びかけるとすぐに返事が表示される。どうしたの?


 私は相談を述べた。すると、すぐに悟子さんからのメッセージが表示された。『もしなにか間違いが起きたかと思っても心配しないでください。それも、大きな流れの一つです。もしも気になるというのなら、思うままに行ってください』。


 私は少し考えたのち、ありがとうと打ち込んで踵を返した。今日はゆっくり、家に帰って読書をしよう。そうおもいながら、帰路についた。


 もう一度振り返った時、今度は、電信柱の見分けがつかなくなっていた。そのくらい些末なことだったんだと思った。




 ……臨時ニュースです。政治家の三玉芳明氏が、本日午後六時四十五分に、殺害されました。三玉氏は白鳩派の代表とも言われており、政党外からも強い支持を集めていました。次期総裁選にて当選を見込まれておりましたため、警察庁ではこれを組織的、計画的犯行と見込んで、捜査を進める方針です……


 ……凶器として使用されたのは、油瓶とライターです。白昼堂々起きたこの凄惨な事件は人々の手により録画され、既にネットでアップされています。この動画が、その一つです。

 コリャひどいね。まったくだ。モザイクかけててもひどいですよこれ、どうして報道するんですか。どうしてってそりゃ、事実を知らしめるためだよ。世の中には恐ろしい人もいるんだ、気をつけなきゃって。でもやりすぎですよこれ……


 ……凶器に使用されたライターは故障が頻発するピンク色だったらしい。消防庁が一年前注意喚起したアレだよ。カチカチして遊んでると、機構が壊れて、火が消えなくなるやつ……


 ……三玉氏殺害の容疑者が逮捕されました。高山ミラさん(18)……

 ……心神喪失状態にあるとの診断も……

 ……以前から、精神疾患の疑いがあったものの、本人の強い拒絶のため治療が進まず……

 ……高山さんは「信じているから、これでいいんだ」と繰り返しており……


 ……本件を受け、白鳩派の四方夜真実(よもやまなみ)副会長は次のような声明を発表しました。……


「テクノロジーの信託に従うばかりの世の中では、個人に本当に適したサービスを実現し得ない。選択肢が必要なんです。我々白鳩派は今後も三玉氏の遺志を引き継ぎ、活動を行う所存です」


 ……一方で、白鳩派からは離反者もあらわれています。三玉氏の強いカリスマに支えられていた団体は、今後規模を縮小していくと予想されており……

 ……それでは、次のニュースです……




 翌朝も、すばらしい朝だった。ただ一点の曇りを除けば。私は昨日から、ずっと同じニュースを見ていた。三玉芳明氏が亡くなったニュース。この時代に、焼き殺された男の記録。


 三玉氏は真っ直ぐな政治家だった。前政権で可決された法案やテクノロジー積極導入方針に疑問を投げかけている態度には、私も強く共感を抱いていた。ようするに、支持者だった。だから彼の死にひどく動揺した。だがいっそう動揺させたのは、その加害者と凶器のことだった。


 高山という少女は、私がぶつかりそうになった少女だった。

 その顔には見覚えがあったし、何より報道で映った服装は、見覚えのあるジャージで。

 そして極め付けは、ライターだ。


 見覚えがないはずがなかった。私が用意したものに、違いなかった。

 もし傷がなかったらわからなかっただろう。けど報道をみたあと、自分でも調べて、たしかに横一文字の傷があることを私は突き止めていた。


 怖くなった。突然、なにもかもが糸で繋がっているような気がした。いままでの不可解な行動も、もしかしたら知らないだけで、なにかの事件につながっているかもしれない。もしそうなら、私は、どうすればいいだろう。


 パラノイア的だとはわかっていた。だけど想像は止まらないものだ。余白のある事実ほど想像力はかきたてられるものはない。まして私は当事者だった。私は自分の幸せのために、誰かを殺したいなんて思わない。


 午前八時が近づいても落ち着かなかった。瞑想の間も、なにをしていても、ずっと一つのことを考えていた。悟子さんが現れた時、まずその微笑を崩したのは、当然のことだった。


「おはよう、ユミ」

「……おはよう、サトコさん」

「今日はどうしたの? いつもより、ひどい顔よ? なにかつらいことでもあった?」

「……とぼけないでよ」

「え?」

「サトコさんだって知っているでしょう、三玉さんが亡くなったこと」

「……落ち着いて、ユミ。苦しい時ほど、落ち着かないと。……前に話してくれた、政治家の人よね」


 いつもと変わらない冷静な声に、私は叫び出しそうになった。突発的な衝動を抑え込みながら、絞り出すように言葉を続ける。


「そうだよ。でも死んだ。どうやって死んだか知ってる? 知らないわけない。ライターで油で燃やされた。そんなの知らないわけないよね、サトコさん」

「ごめんなさい、知らなかったわ」

「嘘言わないでよ!」


 怒鳴ってから我に帰る。サトコさんは眉尻を下げ、悲しそうに私を見ていた。私はハッとした。思い出したからだ。


「ごめん……そっか、テレビ持ってないんだっけ」


 悟子さんはうなずいた。

 悟子さんは忙しい。会員の全員の相手をしているだけで一日が終わる。テレビは気が散るから所持すらしていないと、以前好きな動物の話をしていたときに聞いたことがあった。


「でも、ネットニュースくらい……」

「昨日は本当に忙しくて……ごめんなさい。私、ユミが三玉さんの死に動揺していると思ってたのだけど……違うのね?」


 感情はぐちゃぐちゃのままだったけど、なんとかうなずく。


「話してみて。全部聞くわ、私」


 悟子さんが動じていないから、落ち着いた声音だから、私もつられて、落ち着きを取り戻していく。ゆっくりと、言葉を選びながら、なんとか思いをまとめる。

 つらかったこと、おどろいたこと。まとまりのない感情もいっしょに吐き出して、それを受け止めてもらううち、ようやく、言いたいことが、こぼれ出てきた。


「私……私が買って、備えたライターが犯行に使われたんです。それで……サトコさんに騙されたんじゃないかって……」

「騙されてた、って?」

「……私を使って、犯罪に巻き込んでいたんじゃないかって。もしかして、サトコさんには裏があるんじゃないかって……」


 悟子さんは静かに聞いてくれている。だからつい、私は話しすぎてしまう。


「あの子も、信じてるからいいんだって言ってた……もしあの子がサトコさんの会員だったら? それで、サトコさんにああするよう命じられてたら? もしサトコさんじゃない何かを信じていたのなら、サトコさんとその何かは結託していることになる。……もし結託ではなくて……本当は同じ存在だったら……」

「ユミ」


 顔を上げると、悟子さんは涙を流していた。


「ご、ごめんなさい。そんなつもり……私、甘えて」

「違うの。不安がらせて、申し訳なくて……」


 悟子さんはハンカチで涙を拭った。私は黙っていた。罪悪感に包まれていた。少し、落ち着いてから、突然こう切り出した。


「ねえ、ユミ」

「はい?」

「今日、会えないかしら」

「……え?」

「突然、難しいこともわかっているけど……でも私、力になりたいの。あなたの不安を取り除きたい。そのためには、私あなたに会うのが一番いいと思うの」


 驚きのあまり声がでない。悟子さんが続ける言葉に身に余る光栄を感じながら、私は何度もうなずいた。


「ぜひ、ぜひ会いたいです。おねがいします、サトコさん」





 マンションのエレベータを降りて駐車場まで走った。リライに転送された位置情報をマップに読ませ車に乗り込む。ハッチが降り、エンジンが起動してルートを進行し始める。私は化粧道具を取り出して、狭い車の中に広げていく。トダのミントは一人乗りのフルオートだから広めのソファくらいしか広さがない。鏡を出す余裕もなかった。車内のインカメの映像を窓に表示させながら身嗜みを整える。着の身着のままで飛び出したことを、私は後悔し始めていた。


 だけど、いっこくもはやく会いたかった。そしてサトコさんの肌に触れたかった。そこにいると確かめることができたら、きっと安心できる。私はサトコさんの涙に誠実を、彼女の私への愛を改めて実感させられた。それに応えるしかなかった。


 私は晴れ渡った空を見た。ミントの内部スクリーンは、外の風景を映し出している。初夏の空は高く澄み渡っていて、希望に満ち満ちていた。出勤ラッシュを過ぎたあとは、大通りでも地方らしく車通りは皆無になる。長距離輸送のトラックも、運転手とともにとうの昔に発進している。いま、私は道路に一人きりだ。


 孤独は想像力を豊かにした。現実から飛び立つことへの遠慮を忘れさせたと言ってもいい。私は射し込む太陽にサトコさんを見た。レンズフレアにその涙を、熱に体温を錯覚した。期待で胸が高鳴っていた。感情からはすでに不安が消えていた。私はただ、未来への希望だけになっていた。


 そのとき突然、車が振動した。


 ソファの下部から伝わってきた振動は、まるで不整脈の動脈のようにへんなビートを刻んだかと思うと、ピタッと停止した。

 そして車は、ゆっくり減速し始めた。

 ありえないはずのことだった。


 自動運転車は5G経由で中央コンピュータに管理されている。マシントラブルの可能性が有意に高ければエンジン自体が機能しない仕組みになっている。道路上のトラブルなんて起きえなかった。

 だが起きていた。そしてあまつさえ、ハンドルがカーブを切っていた。

 対向車線へと。


「う、うそ?」


 声に出したとき、視界の端に急速に大きくなる影があると、気がついた。




 ……次のニュースです……

 ……臨時の渋滞情報をお知らせします。幹道3A線が、事故のため午前十時ごろまで渋滞が見込まれています……

 ……自動運転管理プログラムが違法なプログラムで命令を書きまれた結果、エラーを発生し、道路管制からリジェクトされたと考えられています……

 ……沙原ユミ(24)容疑者は即死。現場には、容疑者の所持品と思われる化粧品やスマートデバイスの残骸が撒き散らされています……

 ……いやまったくひどいねこれ。ありえないでしょ。技術系の出身だからってこんな遊びおかしいでしょ。マッタクそのとおり! いやけどさあ、これ、この人がやったって、どおして……

 ……次のニュースです……

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ディヴィ・メディケーションとユミの幸福 犬井作 @TsukuruInui

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