第20話 ちょっと待って!

 廊下に出ると、階段のほうへと走り去る小倉の後ろ姿が見えた。どこへ向かうのかはわからないが、放っておくわけにはいかない。状況が状況なだけに、何があってもおかしくないからだ。


 そう、例えば――胡桃さんのような、何かが。


 俺は急いで彼女の後ろ姿を追いかける。

 駆け足気味に階段へと向かうと、上階へと昇っていく足音と、下から登ってくる足音が聞こえてきた。離れていく前者が小倉で間違いないだろうが、俺は後者の足音を耳として、先にそちらへと顔を向けた。


 すると登って来たのは俺の予想通りの人物。


「ん? どうしたんだ?」


 プリントの入ったクリアファイルを片手に疑問符を浮かべる物部先生がそこにはいた。


「今ちょっと胡桃さんが頑張ってるので、教室に入る前に様子を見てくれると助かります」


「がんばる? え? 何が――」


「それじゃあ俺は急ぐので」


「はぁ!? お、おい!」


 申し訳ないと思いつつ物部先生に背を向けて、俺は上階へと向かった。階段を一歩、一歩と昇っていると、嫌なことを思い出す。数週間前、胡桃さんの様子を訝しんで彼女の後を追い、屋上へと足を運んだ、あの出来事を。


 ぎりっ、と思わず奥歯を噛んでしまう。


 なんでこうも嫌な方向に事態が進むのだろう。俺は、ただ、胡桃さんが幸せに……いや、みんなが幸せに、あの淀んだ『空気』のない生活を送りたいだけなのに。


 階段を上り、三階を抜けて四階へ。四階といっても、教室などはない。ただ自動販売機と屋上へと続くドアがあるのみだ。ドアノブを握り、回す。


 小倉の姿は屋上にあった。


 かつて胡桃さんが居た安全柵のこちら側。

 彼女は両肘を柵に預けた体制で、茫然としている。

 俺は屋上へと足を踏み入れようとして、ふと、風に乗って彼女のつぶやきが耳元に届いた。


「何よ、あれぇ……っ」


 あれ、というのはおそらく胡桃さんが小倉を庇い、クラスメイトに食って掛かった行動のことだろう。凛々しすぎて思わず惚れ直したのは言うまでもない。


 小倉はつぶやくと、背中を丸めて両肩をふるふると震わせる。


 場所が場所なだけに、そのようないかにも『感情が高まってます』みたいな仕草はやめてほしい。本格的に彼女を校舎側へと呼び寄せようと思い、俺は屋上へと足を踏み入れて——。


「あんなの……、かっこよすぎるよぉ……っ」


 そんな言葉が耳朶を打った。

 ……はて、いったいどういう意味だろうか。音としては認識できたのに、言葉として理解できない。いや、嘘だ。理解している。ちょっと待って?


「お、小倉?」


 出来るだけ毅然として小倉に話しかけたかったが、そんな思いも抱水に帰してしまう。動揺をありありと載せて彼女へと投げかけた言葉は、なんとも情けない震えた音波。


 しかしどうやら小倉には届いたらしく、彼女はびくっ、と肩を揺らして振り返った。


 その表情は……嗚呼、なんということだろう。真っ赤に染まっている上に、目元には涙のオマケ付きだ。彼女は驚いた表情を歪めて、視線をあちらこちらへと彷徨わせつつ口を開いた。


「……っ、き、聞いた?」


「俺へのライバル宣言ならしっかりと聞き届けたが……しかし、小倉は胡桃さんが嫌いだから虐めていたのではないのか?」


 誤魔化したところで何の意味もないことなので、正直に答える。すると小倉は下唇を噛み絞め、目をきゅっと瞑り数秒。大きく息を吸い込み、吐き出した。


「し、仕方ないじゃんっ! だって、あんな、あんな風に庇われたら……っ!」


 そう語る小倉からは胡桃さんへの悪感情は一切感じられなかった。


「じゃ、じゃあなんで教室から飛び出したんだ?」


 俺はてっきりいたたまれなくなって飛び出したものと考えていた。

 かつて胡桃さんを虐めており、それを咎められた結果クラスメイトからハブられ、そこを胡桃さんに助けられる。小倉目線から見れば、それは屈辱以外の何物でもないだろう。


 ゆえに小倉は教室を飛び出したものだと、俺は考えたのだ。

 しかし現在目の前にいる彼女は、一瞬言い淀んだ後、前髪をくしゃっと握りしめて蚊の鳴くような声で答えた。


「……こんな顔、恥ずかしくて誰にも見られたくなかったし……」


 本当に小倉なのだろうか。そう思ってしまうほどには別人に感じた。


「あ、ああ、そうか」


 想定外の出来事の連鎖に、俺の思考はオーバーヒートしていた。

 結構シリアスな雰囲気になるな、などと考えていたのが噓のようだ。

 しかし、そうか。意外……ではないか。よく考えれば、むしろ当然としか思えない。かつて俺も虐めに似た何かを受けた際、胡桃さんに助けられて以降彼女にゾッコンなのだから。


 今回はそれが小倉だったというだけの話なのだろう。


「……私、古賀に謝りたい」


「そうだな、それがいい」


「それで、その……友達とかになりたい」


「それはいい案だ」


「……怒らないの?」


「何故?」


 聞き返すと、小倉は顔を伏せる。


「だって……そんなの都合がよすぎるから……」


「ふん、都合なんていいぐらいがちょうどいいんだ。ご都合主義って言葉を知っているか? つまりはそういうことだ。不都合に合わせる必要なんかない」


「……そっか」


「そうだ」


「……じゃ、じゃあ、友達以上、とかは?」


 その言葉に、一瞬固まってしまう。はて、彼女の語る『友達以上』というのは、親友という意味なのか、それとも俺のライバルとなるという意味なのか。両手の指を突き合わせながらぼそぼそと語る小倉の表情を見れば、迷う余地はないが……。


「……」


「……えっと」


「それはあれだな、なんというか、あれだ。友達になってから考える、というのでいいのではないか?」


 俺はどうするべきか逡巡し、濁すことを選択した。

 内心ひやひやである。というのには、いろいろと訳があった。

 俺は胡桃さんのことが好きだ。世界で一番愛しているし、当然将来も結婚する気満々だ。そして、胡桃さんもそれなりに俺のことを好きでいてくれている。問題はそのことではない。


 俺は知っている。胡桃さんのことを世界で一番愛しているから知っている。


 ——胡桃さんがLGBTに配慮した恋愛観の持ち主であることを。


 端的に言うと、女の子もいけちゃう女の子、なのである。


 ゆえに、小倉はまずい。下手な男子よりもまずい。何せ小倉は美少女だから。

 ちらりと、眼前の金髪をうかがう。彼女は俺の言葉を受けて若干顔に影を落としつつも、苦笑を浮かべた。


「……そっか。そうね」


「あ、ああ、そうだ」


 納得の様相を見せる小倉を見て、安堵の息を吐きつつ、小倉へと近づいた。


「とにかく教室に戻るぞ」


「……で、でも」


「大丈夫だ。胡桃さんが立ち上がったからな」


「! ……ん、うんっ」


 何はともあれ、これで一件落着だろう。小倉も柵から離れて俺のほうへと近づいてきて——がくっ、と身体がぶれた。驚いた表情をしていることから、単純に躓いたのだろう。そこまで距離も空いていなかったので、手を伸ばして肩を支える。


 小倉も、そこまで大きく重心が動かなかったのか、すぐに立ち上がった。


「あ、ありがとう」


「いや、別にいい」


 小倉を放そうとして、不意に背後からドアの開く音が聞こえた。俺と小倉がそちらへと視線を向けると——そこには、ここにいる両者の想い人である、胡桃さんの姿があった。


「あっ、胡桃さ——」


 様子を見に来てくれたのだろうか。うれしすぎて名前を呼ぼうとすると——。


「う、浮気現場っ!?」


「え?」


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