ハコネへ

 長い梯子を伝って壁を乗り越えると、竹林の只中ただなかにあった。木漏れ陽は弱々しく、枯れた笹葉が積もる足元は薄気味悪いほどに柔らかい。

 一歩、ひとまず踏み込むと、拍子に白い粉のような虫どもが散った。遠くに地を這うように低い笹擦れの音。兎か。鼠か。人ほどの大きさはない。


「――大丈夫だ。敵はいない」


 アヅマが壁に振り向くと、ひとり、またひとりとフォルナックの手下衆が飛び降りた。周囲を固めたところにプティーが続き、足を滑らせた猿のようにビスキーが落ち、メリアがおっかなびっくり降りてきた。


「……それで? どちらに行きゃよろしいんで?」


 隊長がメリアに尋ねた。


「えっと……北西へ。マウント・フジを目指します」

「そいつはさっき聞きましたよ。道をどうなさるかって聞いてんです」

「それは――」

「――山を突っ切る」


 アヅマがメリアの言葉を引き取った。懐から青い布を抜き出し頭に巻き、刀の鍔元を押さえて鞘尻で円を描くように一度大きく回す。


「追手の本陣に食い込もうと言うんだ。谷あいに道を求めれば伏兵にあたる。峠道があるか知らんが、あったとしても同じだろう」

「道を避けていこうってか? 正気か? この竹やぶン中を?」


 隊長は林を背に両手を左右に広げた。

 アヅマは平然と頷き返す。


「そうだ。山中を行くのは楽ではないが、山中で人を探すのもまた楽な仕事ではない」

「だから山を超えましょうってか? この山がどんなとこか知ってんのか?」

「知ってるよぉ。春は殊更ことさら八重霞やえがすみぃ、ってんだ」


 割って入ったプティーの唱うような口ぶりに、隊長が苛立たしげに眉根を寄せた。


「なんだそりゃ」


 プティーは苦笑交じりに肩を竦める。


「なんだい。ご所望のお歌を唱ってやったんじゃないか。『四季の山姥やまんば』ってんだ」

「……だから、なんだよ、そいつは」

「本当に知らないのかい? 山姥だよ。金太郎のおっちゃんだよ」

「んなこと聞いてねぇんだよ!」


 隊長の理不尽ですらある怒声に笹葉が揺れた。

 不満そうに腕を組むプティーの背から、メリアが恐る恐る顔を覗かせた。


「えっと……手前側にあるのはハコネという名の山々で、その向こうはマウント・キントキと呼ばれていたんだそうです。ずっと昔、そこで鬼に育てられた英雄がいたとか――」

「……オーガだってぇ?」


 胡乱げな声音に手下衆が冷笑する。しかし、ビスキーだけは嫌そうな顔で髪の毛を掻き混ぜていた。バンブー・ヒルで暮らしてきた彼は列島に伝わる伝説にも明るいのだろう。


「足柄山の怪童、金時は妖怪狩りデビル・ハンター頼光の仲間だ。母は八重桐という女だと言われている。鬼ではない。……もっとも、金時自身は熊と相撲を取って遊んでいたと伝えられているからな。鬼に育てられたと言われても不思議ではないが」


 アヅマは隊長を――正確にはその奥の竹林を見据えてひとつ息を吐いた。念を捨てるための簡易的な所作だが、どう受け取ったのか隊長は気圧されたように半歩後退った。


「……なんだ手前ぇ……」

「なにも。お前たちが隊列を組むのを待っている。決め事があるなら早くしてくれ。日が落ちきる前に山頂に着きたい」


 守るならば高所。たとえそこが平場であっても上を取られるより遥かにマシだ。

 隊長は右手の指を揃え、手下衆に指示を与えた。

 先頭には手下のひとりが立ち、その後ろにアヅマとプティーを並べさらに手下衆で挟む形となった。メリアは隊長とビスキーを中心に左右を固め、残りは殿となる。

 追われているのがわかっているなら後ろに重心を置くのは道理だ。山林を抜けようというのに隊列を横に広げる意味もない。少々前が薄いようにも思えるが――


 所詮しょせんは盾の代わりか、とアヅマは手下衆のオークスの背を見つめる。

 哀れみの色はない。

 盾にするつもりもなければ、死なせるつもりもなかったからだ。

 だが、そのためにはいくつかの準備がいりそうだった。

 さくり、さくりと、一行の靴底が落ち葉を磨り潰す。

 いくらか歩いたところで、ふいにプティーが首を振り、


「待った」


 手下衆の胡乱げな目つきを意にも介さずポンチョの下から流星錘を取り出すと、錘のついた紐を少し垂らして握り、その手を天へと伸びる竹稈に当てた。


「……なんだってんだ?」


 言い、先頭の男が大きく息をついた。額に浮いた汗は行軍のせいだけではないだろう。

 竹から真っ直ぐ垂れているはずの流星錘――その紐が、竹から数センチ離れていた。プティは手近な別の竹に手を付き、同じように錘を垂らした。やはり、少しだけ離れていた。


「曲り竹ですね」


 誰よりも早く、確信めいた口調でメリアが言った。


「あ? なんです?」


 付け焼き刃の丁寧な言葉で隊長が尋ねる。


「曲がり竹。土の下から曲がって生えて、一見、真っ直ぐに見える竹だよ」

「似た名前をもつ竹にチシマザサというのがありますが、それとはまったく違います。あまり大きな動きをみせない品種ですが、デビル・バンブーの一種ですよ」


 そうメリアが補足した途端。

 手下衆の誰かが喉を鳴らした。

 無理もないかとアヅマは思う。対人に限れば手慣れていても、デビル・バンブーが相手となると話は変わる。

 同胞の、フォルナックの腹の中とは違うのだ。

 人の手を離れた自然に、情けや容赦は存在しない。

 アヅマは傍の竹に手をかけ軽く揺すった。まだ青い笹葉がいくらか降ってきた。肌を裂くような鋭さはなかった。


「……曲り竹は見た目と足元に溜めた笹葉でそこを平地だと思わせ、足を取る。ここにあるのがする悪さはそのくらいだ」

「……なんだよ。脅かすな。大したことねぇじゃねぇか」


 一瞬、手下衆の緊張が解けた。

 だが、


「そうだ。恐れるようなものじゃない。本当に怖いのは坂が少し急になったと感じ始めてからだ。人は手がかりを欲しがり自然と竹稈に手をつく。すると――」


 コッ、とプティーが口の中で舌を打ち鳴らし、人差し指で首を切る仕草をした。

 緩んでいた空気が一息に冷えた。


「乾いた曲がり竹は簡単に折れ、裂ける。笹葉の下では細い竹が鋭利な穂先をもって人が倒れるのを待っている。仮にどちらも躱したとて、次には積もった笹葉で滑落する。肌を切り裂かれ、骨を砕かれ、やがて停まったその場所に血溜まりを作り、新たな竹の養分にされる」


 手下衆の顔が強張った。だが、先頭を代わるにはまだ足らない。それに足を止めるわけにもいかない。

 プティーが、メリアとビスキーに言った。


「腰紐で互いを結んどきな。どっちかが滑っても片方が踏ん張りゃいいし、両方滑り落ちても紐がかかって止まれるかもしんないよ」

「なるほど!」


 まるで子供のような快活さでメリアがポンと手を打った。が、


「――でも、逃げようとしたときとかひっかかりません?」

「そんときゃそんとき。ま、紐を切るんだね。あたしが切ってやってもいいけど」

「わかりました! そのときはお願いします!」


 竹の話ができたからなのか、メリアは少し楽しんでいるようですらあった。うんざりした様子でビスキーが紐を結び始めると、それを見ていた手下集もそれに倣おうとした。すかさず、アヅマは言い添える。


「お前たちまで結んでどうする。互いが剣の間合いに入るぞ?」


 顔を見合わせ、居心地悪そうに少し距離を取った。。

 もう一息か、とアヅマは先頭の男に言った。


「それと、お前。無造作に歩き過ぎるな。擬態竹ミミック・バンブーが混じっていたらどうする。ちゃんと目を凝らして歩け」

「ミミック・バンブー? 今度はなんだ?」


 うざったそうに言い、隊長がメリアに視線を投げた。しかし彼女も首を横にふる。

 当然だった。

 そんなデビル・バンブーはない。

 プティーが敏感にアヅマの意に気づきスラスラと言葉を継ぐ。


「そこらの竹によく似せた肉食性のデビル・バンブーだよ。名前の通りトラップ系」

「……どうやって見分ける?」

「どうってそりゃ――」


 プティーが瞳を向けると、アヅマは泰然として答えた。


「観の目で見る」

「……あ? カン?」

「そうだ。目で見るのはけんという。心の目で見るのを観という」

「俺は具体的にどう見分けんのかって聞いてんだよ、クソバンブーズ」

「心の目で見る」

禅問答ゼン・リドルやってんじゃねぇんだぞコラ!」


 怒声が、竹林に吸い込まれていった。

 禅問答を知っているとはと、アヅマは少し感心しながら答えた。


「そう言うしかない。わかる者は一瞬でわかる。わかろうとする者は時間をかけてわかるようになる。わかろうとしない奴には一生わからん」

「手ッ前ぇ……」


 隊長のこめかみに見事な青筋が浮き、ビスキーが呆れたように肩を揺らした。


「そいつらを先に行かせりゃいいんだよ。俺たちにゃ時間をかけてる暇がねぇ」


 コクコクとメリアが首を振り、


「……ッ! クソがッ!」


 隊長は悪態をつきながら顎を小さく振った。先頭の男が下唇に湿りをくれつつ脇に退き、先へ行けとばかりに手を差し向けた。


「心得た」


 計算に入れていなかった者の助力も受け、アヅマが前に進み出る。すぐにプティーが横に並び、手下衆から隠れるようにして猫のように笑った。

 そして、振り向きざまに言った。


「足元が不安なら背中に背負ってるもんを杖にするといい。竹に手ぇつくよりかは、ちったぁマシだろうさね」


 こうして、アヅマたちは集団の頭を取ると同時に、自らの背中を守った。メタル・バンブーを用いた長筒か、自慢らしき片手半剣か。どちらを杖の代わりにしようとも、尋常ならざる携え方から通常の構えに移るのは、至難に違いなかった。

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