チャンドニ

 プティーは革張りの小さなソファーで胡座をかき、煙管を吹かしていた。

 薄桃色の光に包まれた十畳ほどの部屋。彼女の虫を観察するような視線の先では、メリアが、オークス式のいわゆるダブルベッドのヘッドボードに背を預け膝を抱えている。

 下では酒場の女と酔客が下世話かつ下品な会話に花を咲かせ、たいして厚くもないであろう壁の向こうからはあられもない嬌声がひっきりなしに続いている。


 ふいに、わざとらしいくらいに甘ったれていた女の声がひときわ高まり、獣のような男の叫びが響いた。

 メリアが赤面しながらそっと両耳を塞いだ。

 プティーは思わず吹き出し、妙なところに入った煙にむせた。


「な、なんですか!? いけませんか!?」


 メリアの恥じらう姿に、プティーは咳き込みながらもいっそう笑みを深めて、ごめんごめんと片手を振った。


「なんですか!? なんなんですかここ! ここ以外の部屋はないんです!?」


 よっぽど腹に据えかねているのだろう。両拳を握り固めてぶんぶんと振っていた。

 プティーは目尻に溜まった涙を指で払い、胡坐を崩して肘掛にもたれる。


「悪いねぇ。残念ながら他に心当たりはないんでねぇ」


 まったくない、というわけではない。

 が、見目麗しく上等なオークスの娘と、同じくオークスのうすらデカい男を匿える場所となると、途端に難しくなる。まして追手が厄介だ。ジャック・王の絡みを避けるならビスキーのツテは使えないし、バンブーズ・ライツを気にするならマトモな宿は危うい。

 その点、遠い身内がやってる売春宿つきの酒場は都合がよろしい。

 酒と女を扱う店ゆえに客のチェックに余念がなく、自分たち以外の用心棒までいる。


「――ま、たった一晩の我慢さ。なんなら下で男を買うかい? 可愛いのからむさ苦しいのまで、ひととおりは揃ってるよ。ぜーんぶバンブーズだけどね」

「買いません!」


 メリアの張り上げた声に感化されたか、また隣部屋から嬌声が聞こえ始めた。無論、彼女は気まずそうな顔で耳を押さえた。


「……なんなんですか。なんでこう、こんな、声が……」


 段々と声が細くなっていった。


「不思議なもんで、こういうほうが興奮するんだとさ」


 プティーは興味なさげに言って、新たな煙草を煙管につめた。


「もひとつ上なら静かなんだけどね。そこは事務所になってる。あたしはともかくメリアやビスキーまでは入れてくんないよ」

「……以前はどうされてたんです?」

「どうって……おっちゃんが『前と同じ部屋でいいか』って言ってたろ?」


 店についたとき、店先で人待ちを装っていた護衛はすぐにプティーに気づいて店主を呼び、数年のうちにシワを増やした(名実ともに)太っ腹の店主はそう言って部屋を開けてくれたのだった。


「……よく寝れました?」

「あー……最初は枕と布団をかぶって寝たね。明日も仕事があんのにさー、ってね。でもまぁすぐに慣れたよ。そのうち声で誰か分かるようになって、ああ今日もねえさん頑張ってんなぁ、お先に失礼おやすみなさーい、ってなもんさ」

「……用心棒の仕事があるのに寝ちゃっていいんですか?」

「そりゃ呼ばれれば起きるさ。アヅマじゃないけど寝起きだからってサボるような真似はしないよ。この手の商売、信用が命だからね」

「……昼は竹伐り、夜は用心棒……なんでトーキョーを離れたんです?」


 興味があるというより、会話で気を紛らわせたいのだろう。アヅマが戻るまで眠れないのだし、たまにはいいかとプティーは少々翳った笑みを浮かべる。


「あたしの家は山ン中でね。飛び出してきたからには天辺まで昇ってやろうと――まぁ思っちゃいたけどね。毎日毎日、見上げてばっかで首が痛くなっちまったんだよ」

「首が……?」


 メリアは不思議そうにうなじを擦った。


「気の利かないやつだねぇ。アヅマだって察したもんだよ?」


 プティーは苦笑しながら火打を鳴らす。


「こんな話をすんのに桃色の部屋ってのもないもんだ。色を変えてくんないかい?」

「え? 色? どうやるんです?」

「どうって、ほらそこの、ちっさい机に灯籠が乗ってんだろ? そいつの覆いを変えんだよ。机の下が棚になってっから、適当に選んで変えてくんないかね」


 言われるがままにサイドテーブル下の棚を引き出し、メリアは首を傾げた。


「なんか変なものがいっぱい入ってますけど……これ覆いなんですか?」

「その下。その引き出しはさっさと閉じな」


 なんて面倒な子なんだろうと思いつつ、プティーはぷっと煙を吐いた。

 ごそごそと棚を探り、熱っ、と小さな悲鳴を上げながら、メリアはようやく見つけた薄青のシェードをランプに被せた。すると蝋燭の火が起こす風の力で覆いがゆっくり回りだし、小さな穴から漏れる光が部屋のあちこちを流星のように飛びかった。

 メリアは思いがけず目にしたそれに、呆けたように息をつく。


「……すごい……綺麗ですね……」

「……走馬灯たぁまた……縁起がいんだか悪ぃんだか……」

「縁起? なんでですか? 綺麗ですよ」

「……まぁいいけどね……」


 くるくる回る明かりを見ていると眠気を誘われる。嫌いではないが、今はまずい。


「……どうして家を出たんですか」

「…………」


 そりゃ、そういう気分になっちまうよ。と、プティーは諦めたように口を開いた。


「あたしんチはこれでなかなかデカくてね。上に姉貴が七人いるんだ。みんなほとんど年子でね。あたしの家じゃ財産は長男が継ぐってしきたりなんだとかって、親父はとにかく男の子が欲しかった。あたしの名前なんか『男の子が欲しい』って意味なんだとさ」


 意味を知った時はまだ六歳だったが、その瞬間さっさと出ていこうと誓った。風習のせいで十六にもなれば親の決めた家に嫁に出されかねないというのも理由のひとつだ。

 家を出るには、ひとりで生きていくだけの知恵と力がいる。

 幼いプティーは表向き聞き分けのいい末っ子を演じ、最も手早く一人前になれる手段を探した。あれもこれも手を伸ばし、ときには荒っぽい仕事に混ざり、


「これなら、と思ったのさ」


 プティーは腰のククリを抜いた。あの頃はもっと小振りなものを握っていた。


「えっと……なんでだったんですか?」

「山羊を解体バラすとき借りたんだけど、やたら手に馴染んさ。ま、血筋だね」

「血筋……ですか?」

「そ。メリアから見りゃバンブーズの顔なんざ区別つかないんだろうけどね」

「そんな……私は……」


 メリアは心外だとばかりに眉を吊り上げた。


「気にするこっちゃないよ。あたしだってオークスの顔は区別できないし。――とにかく、あたしのご先祖様は西の海を渡った大陸の、山の上で暮らしてた……らしい」


 細かな経緯は知らない。知る術がない。当時を知る者は生きていない。

 ただ、はじめは自分たちの暮らしを守るためにオークス相手に戦争し、次は生活を守るためにオークスに加担しバンブーズと戦争をしたという。

 山岳育ちで体力は充分、しかも勇猛果敢な命知らず。どっさり尾ひれがついているのだろうが、貧しかったのだけは間違いない。


「自分たちを守るために、裕福なオークスの側についた。ま、大陸のバンブーズから見りゃ裏切り者みたいなもんなんじゃないのかね。居づらかったのは間違いないよ。頑張ったご褒美にこの山だらけの列島に移り住むのを許してもらったんだから」


 列島生まれ、列島育ちのプティーでも、トーキョーまで出てくるとバンブーズの間では少し色の違う目で見られる。離れた本当の理由は、同族の視線かもしれない。

 昼の仕事で竹を伐っている内に、それが自分の性に合っていると知り、気づけばもっと静かで人の少ない竹林で暮らしたいと考えるようになっていた。

 たまには顔を見せにでも……そう思った瞬間、ガラじゃないかとプティーはかぶりを振った。


「昔話はたっぷり聞いたろ? そろそろおねんねの時間だよ、メリア」

「えっ、あ……えっと……」


 突然、梯子を外された。そんな顔をして、メリアは扉を見つめた。


「アヅマさん、遅いですね。ビスキーさんも。出ていったきり――」

「アヅマなら平気――や、いい頃合いだね。戻ってきたみたいだ」


 下で催されていた品の悪い社交界がにわかに穏やかになった。黒服に大きな刀を下げた男が入ってくれば当然そうなる。すぐに音色トーンの違う男女の声が続き、プティーはちょっと苦笑する。


「やー、やっぱアヅマはモテモテだぁね」

「へっ? えと、分かるんですか?」

「そりゃ分かるよ。こういう店には縁のなさそうな朴念仁さ。店のねえさんがたはそういうのをたらしこみたくてウズウズしてるよ」


 正確には、妙な気のある男もだが。

 ほどなくして、足音が廊下を渡り、一拍の間を置いて扉を叩いた。


「入ってもいいか」

「おお、ノックするたぁ珍しいやね。入んなよ、疲れたろ?」

「疲れるというほどでもなかった――が」


 アヅマは入るなり部屋を照らす走馬灯に顔をしかめ、光る竹片を振った。


「思ったより数がいた。案内所とやらで名前を出すと面倒をかけそうでな、これだけが頼りだった」

「そらご苦労なこったね。ほら、突っ立ってないでこっち来なよ。そこ座んな」


 プティーが足を除けると、アヅマはそこにどっかり腰を下ろし、刀を肩に立て掛けた。当然のように胡座を組んでいた。


「靴くらい脱いだらどうだい?」

「常在。誰が来るとも分からん」


 肩を竦めるプティーをよそに、アヅマは部屋を見回す。


「……ビスキーはどうした?」

「あ、えっと、ビスキーさんは少し前に下を見てくるって――」


 メリアの説明を遮るように、耳を覆いたくなるくらい大きなよがり声が聞こえてきた。女の方はまだしも、やけに荒々しい男の声には聞き覚えがある。

 プティーの口の両端がじわりじわりと吊り上がり、メリアはぽかんと口を開いた。


「……正気なのか、あいつは」


 アヅマが至極マジメにプティーに問うと、彼女は腹を抱えて笑い転げた。

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