出会った時は

 波に揺られる船の上、アヅマは船首を向いて甲板に胡座を組み、刀を膝の前に置くと、瞑想に入った。列車を降りてからの動揺、港に向かうまでに思い出した父の幻影――余計なことを考える己が憎らしく、また憎らしいと思うのすら邪魔だった。

 風は向かい風。潮目も真逆。ジグザグに進む船上で、アヅマは今一度我を殺す。

 その近からず遠からん船縁で、プティーは和竿を傾け釣り糸を垂れていた。


「……あの……アヅマさん、あれ、なにをしてるんでしょうか……?」


 青い顔をしたメリアが、じっと動かぬアヅマをちらと覗いて、プティーに尋ねた。


「んー? あれ? 座禅ゼン・メディテーションだね」


 プティーは肩越しにアヅマを見、竿をしゃくった。


「あれ始めたら一時間とかそこらは、なに言っても反応しないよ」

「……反応しないって……」

「聞こえてないんじゃないかねぇ? 長い時は四時間くらい座りっぱなしだよ」

「四時間!? ――ウッ」


 驚いた拍子になにかがこみ上げたのか、メリアはパン! と口を押さえた。

 プティーが肩を小刻みに揺らし、目の前の船縁を指差した。


「吐きそうなら吐いたほうが多少はマシだよ?」

「……いえ、そこまでひどくは……ッ!? ――ゥッ!」


 バタバタと駆け出したメリアは船縁に張りつき、水面を覗き込んだ。ぱちゃぱちゃと響く水音。プティーは愉しげに肩を揺らしながら、竿をしゃくりつづける。


「撒き餌をどーも。――っても、流れっぱなしで大して意味はないだろうけどねぇ」


 カラカラと笑うプティーに、メリアは口元を拭いながら恨めしげな視線を向けた。

 ビスキーは早々にダウンし、今は船室で横になっている。船頭はプティーに竿を貸し与えてからは進路と帆の確認に余念がなく、オークス相手の商売で覚えたのか変に絡んでくることはなかった。

 プティーが借り受けた竿はバンブー・ヒルで取れた真竹を使った逸品で、餌は午後に備えて入れた海老。時折しゃくって狙うは一点、真鯛である。

 ――もっとも、風と潮目に逆らい北上しており釣れる気配はまるでしない。いわんや釣ろうという気すら乏しい。プティーにとっては釣りとは遊びである以前に魚との勝負であり、自然に身を沈める作業であり、己と向き合う時間である。やり方こそ違えど、プティーも半日前の己を反省しているのだ。


「……あの、つかぬことをお聞きしますが」


 メリアは顔を青くしたままプティーの横に腰を下ろした。


「プティーさんは、その……アヅマさんとどちらで知り合ったのでしょうか?」

「んー? それを聞いてなにになるんだい?」

「その……参考までに、と、言いますか……」

「参考ねぇ……」


 プティーはくっくと肩を揺らして竿を動かす。


「なんの参考になるって言うんだか……バンブー・ヒルだよ。竹切りの仕事で困ってたとき、流れてきたアヅマに助けてもらったんだよ」

「……アヅマさんにですか?」

「アヅマの話をしてんだから、そりゃそうだろうよ」


 プティーはカラカラと笑った。


「一年……もう少し経つかねぇ……? あたしも流れモンでね。腕にだけは自信があったもんだから、竹切りの下請けをやってたのさ」

「……竹切りの、下請け」


 オウム返しに繰り返すメリアを覗き見、プティーは口元を緩めた。


「そうだよ。オークスがどうか知らないけどね、バンブーズには上下があんのさ。流れ者はその下っ側の真ん中にまず入る。で、最初の仕事で上手くやったらミリ単位で上がっていけるって寸法だよ」

「粍単位って……そんなに生きていくのが難しいんですか?」

「……ひとっ所で暮らそうと思えばね。バンブーズが街の住人になるのは難しい――って、メリアはホントになんもしらないんだね」


 言って、プティーは竿を引き上げた。金色に輝く大振りな針は見事な照り返しを見せている。餌が喰われた。プティー小さく唸り、海老を針に刺し直し、再び投げた。


「ちょいと増えすぎた竹を伐れってんで、あたしひとりで行ったんだ。たしか……モーソー・バンブーだったかな。ひとりでやってたらすぐに息が上がっちまって」

「モーソーは固いですからね……」

「そうそう。固いし太いし……ククリが重いと思ったのは初めてだったよ」


 プティーは竿をしゃくりながら肩越しにアヅマを見やった。じっと座禅を組んでいた。真っ直ぐ伸びた竹のように背筋を立て、微動だにしない。


「……いや参ったよ。へばった頃にガサガサ足音が聞こえてきてね。さすがにひとりに任せるのは悪いってんで仲間を寄越したかなって見てみたら……虎だよ」

「虎!?」


 メリアの叫ぶような声に、プティーが片眉を跳ね上げた。


「大声出すんじゃないよ。魚が逃げっちまう」

「あ、えと、ごめんなさい……」


 すぐに悄気しょげげるメリアに、プティーは笑いかける。


「……冗談だよ。どのみち、掛かりゃしないだろうさ」

「え……? じゃあ、なんで……」

「……ただの暇つぶしだよ。アヅマとおんなじ」


 プティーはメリアの質問を受け流し、さぱさぱと揺れる海面を見つめた。


「……虎なんてのは相手にしたことなかったからね……飛びかかられたときは生きた心地がしなかった。しかも、そうとう飢えてたみたいでね……まぐれで一発くれてやってやったが逃げやしないんだ。で、竹を昇ってやり過ごそうにも下で待たれたら終わりだろ? 一八いちばちでやってやろうかと思ったときさ。どっからか竹を叩く音が聞こえてきたんだ」

「竹を、叩く、音……」


 プティーは深く頷き、竿を左手に持ち替え、片手で竹煙管に葉を詰めた。

 目を閉じればそこにあるかのように思い出せる光景。黒髪、黒瞳のバンブーズが、妙なへっぴり腰に構えて峰で竹を叩いていた。飢えた虎の先っぽを欠いた耳が微かに動く。絡み合う視線をそのままに、虎がじりじりと下がった。

 黒瞳の青年は、虎と息を合わせたかのようにプティーの側へと足を運び、やがて虎と対峙する。傍に寄られて初めて分かる。へっぴり腰に思えていた奇妙な構えが、むしろ隙の生じる余地すらない『無』である気づく。

 プティーは竿を揺らすのも忘れ、感慨深げに言った。


「何処の誰かとか思うより先に、驚いちまった。ほとんど歳も変わらなそうに見えるのに、こんな使い手がほっぽり歩いてるってのは、どういう了見なのかってね」


 そのときアヅマは一瞬プティーに視線を走らせ、怪我は、と言外に尋ねた。もちろん、プティーは首を左右に振るしかなかった。

 アヅマは構えを緩めることなく頷き、虎に向かって踏み込んでいく。肺を潰し息を搾り取っていくような緊張。虎はぐっと姿勢を低くし、今にも飛びかからんばかりに力を溜めた。

 気合一発、笹葉を揺らし、アヅマは刀を垂らして頭を突きだす。


 かかってこい。


 そう叫ばんばかりの迫力に、虎が一歩、後退あとじさる。ほとんど同時にアヅマが踏み込み、さらに二歩。両者は視線を絡めたまま静止する。

 そのまま、いったい如何程いかほどの時が経ったのか。プティーには一分が一時間にも思える長い、長い空白の時間だった。

 ふいに虎が殺気を払い、礼を言うかの如くこうべを垂れて、きびすを返した――。

 プティーは得意げに竿を揺らし、煙管の煙をプカプカ吹いた。


「あたしは思ったね。これは達人の戦いだって。あんとき、きっとアヅマと虎は何十回も立ち合ったんだよ。何度くり返してもアヅマに勝てない。飛びかかる度に最後は斬られっちまう。それと悟って退いたんだ。人間みたいな見栄のある生き物にゃなかなか出来ない芸当さ」

「それは……凄いですね……」


 にわかには信じられないと言った様子で、メリアはアヅマに目を向けた。座禅を組んでから早一時間。未だに身じろぎひとつ見せないでいる。

 プティーもちらとアヅマを見やって、メリアにジト目を送った。


「言っとくけど、やらないよ。あたしが先にめっけたんだ」

「……やらない……?」


 メリアがぱちくりと目を瞬き、しばし考え、慌てて両手を左右に振った。


「ち、違います! そういう意味で言ったんじゃ――」

「――だーかーらー! 大声を出すんじゃないって――!?」


 くん、と糸を押さえる指先に圧を感じて、プティーは竿を振り上げた。掌に感じる跳ね返り。プティーは竿を上げると同時に船縁に寄り、釣り糸を手繰たぐりながら竿を脇へ捨て置く。


「――やば、でっかい! メリア! 網! 網をもってきな!」

「えっ!? えぇっ!? あっ、は、はい!」


 メリアが慌てて船頭を呼ぶ間も、プティーは釣り糸の引き戻しを繰り返す。引きに合わせて糸を流し、止まる瞬間を狙って手繰る。糸を通じた魚との格闘。無理に引けば糸が切れ、放っておけば足らなくなる。

 間もなく船室からビスキーが疲れた顔をだし、タモを突き出す。受け取ったメリアはすぐにプティーの傍へと駆けより、


「見てわかんないかね? まだ上げてる途中だよ?」


 プティーは竹煙管の吸口をキリキリと軋ませながら苦笑し、首を左右に振った。


「えっ、えっ、えっ!? じゃあ、あの、私、どうすれば!?」

「そこで応援してくんな」

 

 プティーは半笑いで手繰りを再開する。針を食わされた魚が糸を切ろうと翻った瞬間、同じ方向に一息に引けるだけ引く。日々の全てを修行と捉えるアヅマに習った釣りに学ぶ一拍の極意。彼の言うところの合気である。

 タモを手にメリアが応援するなか戦うこと半刻。

 水面に鮮やかな赤色が煌めき飛沫を上げた。

 メリアが辿々しい手並みでタモを突っ込み『それ』を捕らえる。


「ハハハッ! 間抜けな鯛もいたもんだ! アヅマ、この旅は上手くいきそうだ!」


 プティーのあげた歓声と、きゃあきゃあ騒ぐメリアの姿に、船頭がほっと胸を撫で下ろす。その陰で、ビスキーが青白い顔をして甲板の隅に寝転んだ。

 アヅマが瞼をもちあげたとき、トーキョー・ベイを横断する巨大かつ長大な橋のようなものが見えてきていた。

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