第32羽 ロク、小説を読む
丸まった背中。しわだらけの服。乱れた髪をぐしゃりと掴んで、机の前で微かに唸っている。
見慣れた後ろ姿だった。
「お、お母さん」
「……? なにそれ」
声をかけるとお母さんは振り向いて、私が抱えている約三百枚の原稿用紙に目を向ける。
「小説、書いたの」
「…………」
しばらくお母さんは小説を眺めたあと、私に凍てつくような目を向けてくる。
「あの、読んで欲しくて」
「……いいわ。後で読んであげる」
「! ほんと!?」
「ええ。その辺に置いといて」
「分かった! 感想待ってるね!」
お母さんはそれだけ言ってまた自分の小説の執筆に戻った。私は床のなるべく邪魔にならない場所に原稿用紙を置いて、部屋から出る。
数日後。
パンッ!
甲高い音がリビングに響き、私は勢いよく床に倒れ込む。痛む頬を押さえて見上げると、お母さんが平手打ちした手を戻さずに「ふー、ふー」と息を荒くしていた。吊り上がった目からは涙がこぼれている。
「何なのあの小説は!!」
突然だった。お母さんはリビングに入ってくるなり癇癪を起こし、原稿用紙を辺りにぶちまけて、私の頬を引っ叩いた。
「私への当て付けのつもり!?」
「ち、ちが……」
「黙って!!!」
「!」
私が口を開いても、お母さんの怒鳴り声がそれを遮る。
「何なのよあの小説は!! あんな最低な話! 反吐が出る!!」
心底不愉快そうなその顔が、胸を締め付ける。
「よくもまあ……あれを私に読ませようと思ったわね。わざわざ私に読ませて楽しかった? ねえ、答えなさいよ!!」
「痛い!」
しゃがんだお母さんが私の長髪を鷲掴みにする。
「答えなさいって言ってるの!!」
「わ、私は、お母さんを怒らせるつもりなんて」
「じゃあどんなつもりだったのよ!! 私の傷つく様を見たかったんでしょう!? じゃなきゃあんな小説書けないわ! あんたは最低よ!!」
「っ!」
「屑め!! あんたなんか生まなきゃ良かった!!」
掴んでいた髪を乱暴に離して、お母さんは立ち上がる。
「ああ、そうそう、感想だったわね」
くるりと私に背を向けて、顔だけを振り向かせて言った。
「もう小説なんて二度と書かないで」
お母さんは自室に戻る。バタンっと、ドアの閉まる音がきつく鳴った。
「…………」
やがて涙が出てくる。鼻を啜り、止めようとしても止めようとしても止まらなかった。
ばら撒かれた原稿用紙を一枚一枚拾う。紙の上に涙が落ちていくけど、気にする余裕はなかった。全て拾い集めて、家事に戻る。
後日、私は長かった髪を切った。
*****
「!」
小鳥はベッドの上で、パチリと目を開いた。
「夢……」
今はもう深夜。小鳥が枕元のスマホをつけると、
0:02
7月29日 月曜日
小鳥が就寝したのは23時ごろ。ということは1時間程度で目を覚ましてしまったことになる。
(先輩、もう読んだかな)
ロクは22時前に読み始めていた。あの小説の文字数を考えればそろそろ読み終わっていてもおかしくない。
小鳥を急な不安が襲う。胸の辺りを押さえて、ベッドに横向きに寝転がったまま、ギュッと体を丸めた。
――小説ってさ、大なり小なり、作者の想いが乗ると思うんだよ
その通りだった。一所懸命に、物語の中に閉じ込めた想いが、まだ中学二年生で幼かった小鳥にもあった。
◇
その頃、ロクの寝室ではまだ電気がついていた。
「…………」
ロクは読んでいた原稿用紙の束をそっと机に置く。
ロクは感受性が低い訳ではない。人並みに感動するし人並みに笑う。しかし小説を読んで泣いたことはなかった。
今回もそうだ。別に涙は流れないし鼻水も出ない。
しかし胸の内は、これまでのどんな小説の読後よりもぐちゃぐちゃだった。
「小鳥遊」
小説に込められた想い。小鳥が乗せた想い。それが誰への想いかなんて、読めばすぐに分かった。
――才能がなかったんだと思います
小鳥の身の上話を聞いていたから。
――辛いなら書くのをやめたらって、一番かけてはいけない言葉を言っちゃったんです
これはたった一人に読ませるためだけに執筆された小説だ。犯してしまった自分の過ちを、挽回しようとする健気な作品。
原稿用紙三百枚以上。つまり約十万文字以上を手書きで書き上げている。きっと時間をたっぷりかけたのだろう。
時間をかけて、一文字ずつ書いて、しかし、
――勇気を出して母に見せたのですが
届けたい人に、この物語は届かなかった。
「……っ!」
いても立ってもいられず、ロクは椅子から立ち上がった。慌てて部屋を飛び出そうとして、しかしもうこんな時間だということに気づく。
(もう寝てる時間だ)
ドアノブを掴んだ手。
(でも)
ギュッと回す。
(もしまだ、起きてるなら)
ドアを開けた。廊下の対面の部屋。そこが小鳥の寝室。
(きっと待ってる)
距離は遠くない。数歩歩いたらもう小鳥の寝室の前で、コンコンとノックした。
「小鳥遊、起きてるか?」
返事がない。やっぱりもう寝てしまったのかと引き返そうとして、
「……はい、起きてます」
さえずりのような、小さな声が聞こえた。
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