第4話

神祇部

○高野姫天皇社の御事

 殿下(てんが)いとけなくておはしましけるその上(かみ)より、いかなる因縁のありてか、高野姫(たかのひめ)の御門(みかど)に御執心浅からず。慈鎮和尚(じちんかしょう)も、この御門は能化(のうけ)の御化生(おんけしょう)にてましますとぞのたまひける。下野国都賀郡(つがのこおり)上大領(かみだいりょう)てふ処に、この御門祀る社(やしろ)ありければ、殿下御出(ぎょしゅつ)なりて参詣したまひける。この御門の御陵(みさざき)は、大和国添下郡(そえじものこおり)佐紀(さき)の山、平城宮(へいぜいぐう)の乾(いぬい)にましませども、東陲僻遠(とうすいへきえん)の当地に、玉骨(ぎょっこつ)ををさめ奉ると申す。その実否(じっぷ)はおぼつかなけれども、参拝の所願かねてより強くておはします。今は社家(しゃけ)も祝(はふり)も置かざる小祠(しょうし)にて、秋の日暮れの虫の声、荻(おぎ)や薄(すすき)に埋もれて、ただとふものは秋の風、とぶらふ人もなかりけり。いかさまに思召(おぼしめ)してか、歌に詠みたる下野の、室(むろ)の八島(やしま)の水煙(みずけむり)も程近く、夕露しげき野原(のばら)のその涯(はて)に尊き跡を垂れたまふ。石橋てふところより、草葉を分けて曠野(あれの)をゆけば、叢(くさむら)ごとに置く露に、真如の月の影の宿れるが、やがても殿下の御袖にうつりぬるこそありがたけれ。


○千葉妙見宮の御事

 平成廿二年正月廿七日、主上(しゅじょう)御悩(ごのう)とて御切開の事侍りぬるを、関白殿千葉妙見宮(みょうけんぐう)に御参詣なって玉体無事を祈り給ひけるに、社頭(しゃとう)御着(ごちゃく)の時しも、地震(ない)ふりにけり。巫覡(ふげき)などの、社屋より走り出でて、「こはいかに、例にもあらぬ地震のふりけるは」なんど申す。帰路、家司(けいし)来りて申さく、「ことゆゑなく御切開をはりて、御不例(ごふれい)怠らせたまひける」となん。後に凡下(ぼんげ)が震源と申すを、家司を以て検じられければ、妙見宮直下なり。初めて御参拝ありける宮にてこのことあり。「これ吉動(きちどう)ならん」と殿下仰せられける。末代といふとも、宝算万歳(ほうさんばんざい)を祈られける一の人の誠心を、神明は捨てさせ給はずとぞ見ゆる。


○上本郷春日社童子の御事

 関白殿日頃春日社の事を心にかけ給ひけれども、草深き東国の果てに埋もれ給ひて、故障多くして南都へ御出もかなはで過ごし給ひけるに、別当を召して、「近傍に末社やある」ととひ給ひければ、「葛飾郡(かつしかのこおり)、上本郷(かみほんごう)と申すところに、末社ましまし候」。以て御参詣なりぬ。殿下御奉幣(おんほうへい)の時、ある美しき童子(どうじ)走り来りて、賽銭筥(さいせんばこ)の中を覗くに、「何をしつるぞや」ととひ給ひければ、「石の入りたるかと思ひて見るなり」と申す。次に童子、拝殿のうちを覗きをれば、「次は何を見るぞ」、「神いづくにかおはしますらんと思ひて見るなり」てへれば、殿下、「神明は人身(にんじん)が目には見えさせたまはず」と仰せられければ、ただうち笑みて去りにけり。後に思ひあはせ給ふに、「かれは春日大明神が御使ひにておはしますらん、我が信心をこころみたまふらん。をはりにうち笑ませ給ひぬるは、有り難きことにはんべりしか」と仰せられけり。


○布留社丹波市の御事

 或る里謡(りよう)に、「都の跡を教へよと云へど応へぬ賤の男(しづのお)が帰るそなたの丹波市(たんばいち)布留(ふる)の社に程近し」とあるを、殿下不思議に思召されて、別当に問はれければ、「布留の社は石上(いそのかみ)神宮の御事也。石上は安康天皇の穴穂宮(あなほのみや)、仁賢天皇の広高宮(ひろたかのみや)のましましし処なり。丹波市の賤の男と申すは、大方河原人(かわらびと)などのことをや申すらん」。「賤の男の、いらへをせぬ心はいかに」。「文字(もんじ)のうはべには、下賤は物を知らざるてふ心ならん。但しこの詞の体、以ての外に幽玄に見え候。惟神(かんながら)不言挙(ことあげせず)の心なるべし。」


○中宿権大納言の夢告によりて不忍弁財天御参詣の御事

 中宿権大納言、ある夜の夢に、弁財天殿下に怒らせ給ふところを見給ひけり。この旨殿下に申されければ、殿下大きに慎み給ひて、やがて権大納言を伴ひて、不忍(しのばず)の池心(ちしん)の弁財天に御参詣ありける、尊き御事にこそ。


○飾磨中将吉備大明神の御事

 殿下、飾磨(しかま)中将を御猶子(おんゆうし)に取って華やかにもてなし給ひけるが、中将桃色を好みて、装束にも桃色の布ばかりを選びて召されけるを御覧じて、「桃色は桃太郎也、桃太郎は吉備大明神の御事なり」とのたまひける。別当、「飾磨は上古、播磨国にはあらで、吉備国なり。又、中将は未年なり。未は申、酉、戌を従へたり。されば、まことに吉備大明神御化生ならん」と申す。これゆゆしき秘事なり。


○狩鹿禁令の御事

 殿下、凡下どもの鹿を狩りてしかも愧ずるところなきを御覧じて、殺生の禁断の制札(せいさつ)を立てさせたまふ。鹿は春日大明神の御神使なれば、浅草の観世音にも、鹿を守らせ給へと祈り給ひけるとぞ。


○天満天神の御事

 関白殿、武蔵国豊島郡(としまのこおり)湯島の里に邸第(ていだい)を造りて住まれけるに、附近に天満宮ましましければ、度々御参詣あり。ある時、松戸内府、「藤氏長者の天神に御参詣なること、しかるべからず。藤氏には御敵(おんかたき)にてましますらん」と申せば、殿下笑ひ給ひて、「本院大臣の御末はさることもあんなれども、御堂は貞信公の末なり。されば如何なる故にてか崇め奉らざらんや」。「然れども、天神を崇めさせ給ふことは、延喜聖主(えんぎせいしゅ)が御成敗を謗(そし)り奉るの虞(おそれ)あらんか」。「さも候はず。天神は観音の御化生にてましまし、御流謫(おんるたく)も衆生済度(しゅじょうさいど)の為なれば、全く天子が御僻事(おんひがごと)には侍らず」。内府「されば日蔵上人が夢見の事は如何に」。殿下「誤伝にて候やらん。天神は御形見の御意を朝毎に捧げて拝し奉るに、いかでか十善戒功の帝王の地獄に落ちさせ給はんと見給ひけるに、救はせ給はざらんや」。内府、いたう甘心す。


○神田明神の御事

 平将門は、嘗(かつ)て神田に祀られたりけれども、足軽ども江戸に鳳輦(ほうれん)を遷幸(せんこう)なし奉ってより、朝敵なればとて祭神よりはずしけると殿下聞し召して、御幼少の比(ころ)より成田山に参られけれども、将門祀らずは障りなからんとて、度々御参詣なりけるが、別当、「相馬小次郎は、昭和の外寇の後に再び神田に祀られけり」と申しければ、御参詣止みにけり。しかれども殿下「将門は逆賊たりといへども、これ鎮西鏡社の広嗣に異ならざるか。御霊なれば、強ちに捨て措き奉るべきにもあらざるか」と仰せあり。以て評定あり。

別当「広嗣は天平皇帝に謀反を起こすと雖も、玄昉、吉備大臣を除かんとの意(こころ)なり、天朝に背くに非ず。将門は、新皇を称して東国に朝廷を開かんとす。これ全き朝敵なり。殿下の参詣せさせ給ふべき余地なからんか」。

執事「但し将門は、火雷天神の御化身なりとの説あり。また神田明神は、もと大己貴命(おおなむぢのみこと)の御事なり。後に将門を合殿にあはせ祀りけるにや。また、明治に将門を除きし時、少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請し奉ると聞く。されば神田に敢て参らせ給はざるも、差支へあらんか」。

別当「明治以前、東国は知らず、朝家(ちょうか)には将門を祀ることなし。されば御崇敬の事、先例なし」てへれば、それより参らせ給はず。


○謝罪の御事

 殿下いとけなき砌、女神転生てふ遊具を好み給ひけるが、後年御後悔思召しつ。「神祇を式神の如くに使役し奉りて、あまつさへ御合体とて、蕃神にあはせ奉りなんどする、狼藉あまたある遊具なりければ、物知らざればとて、遊びし者の罪科免れ難し。我が神拝は謝罪にも侍るなり」。



釈教部

○法勝寺の事

 法勝寺(ほっしょうじ)は白河院の御願(ごがん)、皇朝の菩提寺にてましましけれど、応仁文明の比(ころ)炎上の後は再建もなされずして、廃絶しにけり。今は京都動物園とて、獣は檻に込め、鳥は籠に入れて衆庶蝟集(しゅうしょいしゅう)の巷(ちまた)とこそはなりたりけれ。尚書族契篇に、珍禽奇獸不育于國(ちんじゅうきじゅうはくににやしなわず)とあり。殿下ある時の御夢に、法勝寺に御参詣の事あり。いみじく尊きことに思召して、さめての後、仰せありて「昔はあまたの善業をばせられける跡にしも、用なき畜生を聚(あつ)めて凡下の慰みとしける事、当時の者ども悪業を思はざるや。悪業とは思はずとも、穢れとこそは知るべきにや。雲を恋ひ野山を思ふ愁へを知らずして、己が目を喜ばしむる為に生類を苦しめぬる無慚さよ。末代至極」。


○銅閣寺の事

 殿下、三宝(さんぽう)報恩の御為に、京華(けいか)に新しき浄刹(じょうさつ)を建てんと思はれけり。金閣寺、銀閣寺になぞらへて、銅閣寺を造立し、正しき号には忠孝山報恩寺とせんと願はれけり。朝霞権大納言を造銅閣寺使に、川崎権大納言を副使にぞ補せられける。朝霞殿病づきて致仕申されければ、川崎権大納言を内大臣に奏請して、大使に任ぜられけり。しかれども造営の事つゆもしいだされずして数年を経ぬ。殿下不快に思召されけれども、ある時、河内源氏累代の事績などを書物にて読ませられければ、「満仲、頼信、頼義なんどは、摂家の家侍(いえざむらい)に過ぎず。北山殿と云ふも東山殿と申すも、この支流には非ずや。末代とはいふとも、青侍(あおざむらい)の建てたる寺に劣れる名をつけて、いかがはせん」となん。造立の御沙汰止みにけり。


○法住寺の事

 法住寺は桓徳公が創建、後白河院が後院(ごいん)なり。後白河院の御事は、近衛流の者はゆるがせにも疎かに思ひ奉るべからず。その所以は、普賢寺殿、安徳天皇の摂政にましましける時、旭将軍入洛して、平家没落とて西下(さいげ)することあるを、殿の都に引きとどまりて、新帝が摂政に重ねて任ぜられしもみな、この院の御寵愛によらざるはなし。されば、殿下法住寺の御陵に参り給ひけるとぞ。


○法厳寺の事

 「今は法興院も、法成寺も途絶えぬ。近衛殿の大徳寺、九条殿の東福寺とてあるも、禅刹(ぜんさつ)なり。我が桜町流の菩提寺、秘密宗とせんと思ふが、京師(けいし)のいづこに建てんや」と仰せあり。勝地を尋ぬれば、別当「八条坊門のわたりに、梅小路公園とてあるところは如何に」。殿下「間近に鉄道あり、車馬の喧しきはよからず」。「されば、吉田山の西麓に、京都大学とてあるわたり、大学寮にほかに移さしめて御造営あるべきにや」。号は、報恩山法厳寺(ほうごんじ)に決しけり。


○浄妙寺の事

 木幡(こはた)の浄妙寺は、相続流兆域(ちょういき)累代の菩提寺にて侍りけれども、中比(なかごろ)に滅びぬ。されば当寺再興あるべき由、御沙汰ありけるを、造営の料もなければ、造りいだされずして星霜を経にけり。力及ばで口惜しきことに侍ると、殿下のたまひけるとかや。


○普賢寺の事

 普賢寺殿は山城国綴喜郡(つづきのこおり)に晩年寺を営みて普賢寺と呼ばれければ、この処を後に普賢寺村と申す。殿下ある女房と御物語の折、この女房かつて綴喜郡田辺村てふところに侍る学院に通ひけりと聞き給ひて、普賢寺のことを御尋ねありければ、「普賢寺は田辺の隣に侍りしか。ただ土地の名にのみ残りて、今は堂宇の一つもなし」と。「都までいくばくぞ」と問はせられければ、「凡そ六里の道にや侍るらん」。殿下仰せに「月輪(つきのわ)殿は真萩(まはぎ)散る嵯峨の奥、清滝のみ山に隠れ給ひぬ。普賢寺殿は蛙(かわず)鳴く井出の西、深き野原に後世(ごせ)を営み給ふ。都をはるかに離れ給ふこと、憂世を厭ふの御心せつなればなれども、月輪寺は今も営み絶えず、普賢寺の跡なかりつるは、名こそ流れてとも言ふなるが、悲しきことにこそ」。


○十句観音経の事

 関白殿夜更けて般若心経と十句観音経を誦しつつ大殿籠り給ひけるを、あくる朝に執事の申す状、「十句観音経の義は如何に思召さるるや」と。殿下のたまはく「我等凡夫の、仏に帰依し奉るを得ることこそ、稀有の事なれてふ心なり。聖アウグスティヌスの、信は神より起こりて、我が心によりて起こるに非ずてふ御言葉に違はず」。


○創価学会の事

 別当「当時は創価学会てふ新しき法華門徒のはびこれるが、如何に思召さるるや」。殿下「詳らかには知らねども、末代の凡夫、不信を以て性とす。信持ちたるは、不信に優れたり。たとひ妖魔変化の類を信ずるとも、何事をも信じざるよりは勝れり。何事をも信じざるは、己を恃み信ずるが故なればなり」。


○先帝御菩提の事

 殿下、福原、一ノ谷、屋島、厳島、壇ノ浦なんどへ御下向ありて、所々にて平家の事を御随身(みずいじん)に御物語あり。その故は、「家祖普賢寺殿は、安徳天皇の摂政なり。また、殿の嫡母と北政所とは、二方(ふたかた)とも平相国の御女(おんむすめ)なり。天皇は、幼冲(ようちゅう)にてましませども、遥か西国に御蒙塵(おんもうじん)なって、外戚(がいせき)に具せられ奉りてわたつみのいろこの宮に入らせ給ふ。殿は、法皇の御仰せによって供奉(ぐぶ)し給はず、新帝の摂政に重任(ちょうにん)せられ給ひぬ。院宣重ければ御力なき次第なれども、先帝と平家との御菩提は、子々孫々まで行ひ奉るべきなり。北条、足利、徳川などに比ぶれば、平家に召しつかはるる下司(げす)といふとも、なほ勝れりと思ゆるぞ」。


○南都の池紅に染まりたる事

 平成廿七年の夏に、南都の池俄(にわか)に赤く染まりたることあり。猿沢池は染まらず、荒池、鷺池のみ染まりけり。水の面に紅葉を散らしたる如く、みな紅になりにければ、殿下いたく驚き思召して、御評定あり。別当「猿沢池は七不思議と申す俚伝(りでん)に曰く、同池は濁ること絶えてなし。但し昭和卅四年に赤変すと云々。今次は猿沢には非ず、不審なり」。執事「凶兆なり。往昔、足利の頃に、南都の池赤く変じたる時は、以て赤柏(あかがしわ)を供養すと云々。但しいづれの池かは知らず」。社寺奉行「怪異亮然(りょうぜん)たる故に、祈祷せしむべきなれども、その仁なし」と。その後変事起こらず、如何なる怪異にや。


○慈鎮和尚所説の事

 慈鎮和尚(じちんかしょう)、国史を説かれけるに、吉事は化生(けしょう)の所為、凶事は御霊(ごりょう)の所為とぞせられける。殿下「末の世には烏滸(おこ)なる説に見ゆらめども、これ正しき所論にこそ。万事は八正道(はっしょうどう)を歩むよすがにてあるべきなれば、斯くの如く思ふが道理なり」。


○高弁上人御詠歌の事

 新千載和歌集の、高弁上人の御詠歌(ごえいか)に、松風を宴坐の友とし、朗月を誦習の縁として詠み侍りけるとて、「心月のすむに無明の雲はれて解脱の門に松風ぞ吹く」とあり。殿下、「無明の雲は黒の義也。松風とあはせて黒松也。黒松は、飾磨中将の苗字也。黒松の本貫は、紀伊国有田郡にあり。高弁上人が生地の間近なり」とぞ。


○松が谷海禅寺の事

 武陽(ぶよう)の下谷(したや)の松が谷(まつがや)てふ処に、海禅寺あり。唐津の寺沢氏、豊後府内の竹中氏、没落の後、この寺にて腹を切りたりけるとかや。両人、切支丹を多く害しにければ、その報いにやと、殿下宣(のたま)ひける。

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