7話 ※神様視点

 後ろ髪を引かれる思いはあった。

 一人残してきた不安もあった。


 はじめは声を荒げ、次第に言葉に力が失せ、最後には唇を噛み、黙って見送ったエレノアの姿が浮かぶたび、彼の足は止まりそうになる。


 それでも、止まるわけにはいかなかった。

 前を行く無垢な少女を、追いかけずにはいられなかった。

 理由は、彼自身でもわからない。

 わからないけれど、彼の心の奥底から、焦燥感だけが湧きあがる。


 記憶もないままに、彼の心が告げている。

 もう、時間がないのだと。


 失われた記憶の影が見え始めた。

 国中に現れた無数の穢れが、審判の日を急かしている。

 だけどおそらく、『このまま』では駄目なのだ。


 ――気持ち悪い。


 神殿中に渦巻く穢れへの嫌悪感に、彼の表情が陰る。

 とめどない人間の悪意に吐き気がする。

 高潔な人間も、友を思う人間も、喜び合う人々も――泥のような化け物に手を差し伸べたエレノアでさえも、醜さからは逃れられない。


 ――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。


 だけど彼女は違う。

 無数の穢れを向けられ、穢れた人間を傍らに並べながら、彼女だけは穢れない。

 視線の先のアマルダは、どこまでも澄んでいて、美しかった。


 焦燥感の意味はわからない。

 求めるものもわからない。

 その結果に、なにが待っているのかさえも彼は知らない。


 ただ、予感だけがあった。

 もしも希望があるのならば――なにかを変えられるとすれば、それはアマルダという存在なのだ。


「…………」


 彼は頭を大きく一つ振ると、早足で前を行く彼女を追いかけた。

 それから彼女の横に並び、迷いを払うように口を開く。


「アマルダさん。……エレノアさんのことなのですが」


 告げるのは、一人残してきた自身の聖女のことだ。

 もう自分の部屋からはずいぶんと離れ、振り返っても見えるはずはないのに、彼は無意識に背後に視線を向ける。


「私の姿や穢れのことでなにか咎があれば、エレノアさんではなく私にお願いします。特に、私がいない間にエレノアさんが責められることのないように、あなたの連れてきた神官たちにも伝えていただけないでしょうか」

「まあ。そのお願い、何度目かしら」


 アマルダは顔を上げ、少し呆れたようにそう言った。

 彼女の言う通り、エレノアに手を出さないようにと頼んだのは一度や二度ではない。

 去り際に一度、最高神の屋敷に向かう間には何度も。彼自身でも気づかないうちに、同じ頼みを口にしていた。


「お優しいのね、クレイル様。ノアちゃんのことまで心配してくださるなんて」


 くすくすと笑うと、アマルダは両手を背中で組み、彼に体を向ける。

 嘘を知らない青い瞳は、まっすぐに彼の姿を映し込んでいた。


「ええ、必ず。約束するわ。神官様たちにはちゃんと伝えておくから、ノアちゃんのことは安心してください」


 アマルダは言いながら、周囲に視線を巡らせる。

 アマルダを守るように取り囲むのは、彼の住む部屋を囲んでいた大勢の神官たち――。


「きっと、神官様たちは上手くやってくれるわ」


 その一部がいないことに、彼も、神官を連れていたアマルダ自身さえも気が付いていなかった。

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