僕とうたと僕のうた
「でっ殿下っ。殿下、すぐっ、お医者さまをすぐっ、呼んでまいりますっっ」
ヒラリーの焦っている声が聞こえる。
慌てて走り出したヒラリーの、
横になったヒラリーのうしろ姿が小さくなってゆく。
なんで横?
あ、転んだ?
ヒラリー大丈夫?って、言おうとしても、
口がうまく動かない。
地震かな、なんか揺れてる。僕だけ?
あれ、立てないな。
僕、寝転んでるのか。
なんでかな。
……………………。
僕、
死ぬのかな。
「ごほっ」
あれ、いま、咲いてたっけ、赤い花。
だって手に……………………。
あー。
天気がいいなあ。
「は………」
ほらね。やっぱりきれいだ。
今日は、とくに。
ヒラリーと一緒だからかな。
理由なんかわからないよ。要らないよ。
「………………りぃ」
なんか暗いよ。
ヒラリーは、戻ってきた?
まだ?
途中で苛められてないかな。
泣いてないかな。
僕は、笑っている、顔のほうが、好きだな。
かわいいんだよ。
笑うと目が三日月みたいになって、片っぽの頬にえくぼができて、
えっと、それから。それから。うーんと。
……いいんだよ、そんなの。
かわいいんだから。
大好きだから。
それだけで。
ああ。ヒラリーが、ほら、笑ってる。
「う、う、うた、さん…」
「あら隼くん、おはよう」
「お、は…。う…た、さん、お、落ち着いて、動いちゃ、だ、駄目で、すよ…」
「?なんて?聞こえなかった」
「あぁあああっ、危ないっっ」
自宅の二階の
…………………………………………。
時は一時間ほど前に遡る。
(………………………)
二階で寝ていたうたは、布団に仰向けで、そのままぐるりと頭だけを反らし、目の前の逆さまになった窓を見た。
ミーンミンミンミンミーンミンミンミンミンミーンミンミンミーンミンミンミン。
壁越しで聞かされるセミのシャウトのせいで起こされ、うたの眉間にしわが寄る。
(また来たのね)
ため息をつきながら立ち上がり、タンスの上に置いていたうちわに手を伸ばす。そして、ぎらりと闘志を燃やしながら、がらりと音を立て窓を勢いよく開けた。
ミーンミンミン。
下を歩いていた通勤途中のサラリーマンが、うたのものすごい寝癖頭を見てぎょっとした顔をした。が、それに気づくことなく、うたは窓の下枠に足を掛ける。
「よ。よ、よっこいーしょ…ぃしょっと。ふう」
何十回目かのチャレンジで、やっと窓の下枠の上に乗れたうた。それから窓のすぐ前にある欄干に乗り移る。その間もセミは絶好調で最高潮。
「うるさーい」
至近距離で聞く
「往生際が悪いわよ…と」
部屋の中からではどう頑張ってもまったく届かなかった外壁に止まっているセミを、うたは背伸びをしながら、ようやくうちわに乗せることができた。
「さあー
ひと振りして公園に送り返す。
ぶぶぶ、と公園に飛んでいくと思われたセミは、なぜか急旋回し、左のお隣さんちの開いていた窓から中へスイーっと入っていった。
「……………………」
(まさかのミラクルショット?)
(なーんてね。ごめんなさい、不可抗力です。セミの気まぐれです。反抗期です)
(そうだ、たしか隣のおばあちゃん、孫が泊りに来てるのよって言ってた。夏休みの自由研究とか絵日記のネタに使えない?)
(家の中にセミ……。ついさっき間近で聞いたところだからね、壁一枚隔てても堪らないのに“
(あ。窓から手が出てきた。グー。振りかぶってー…。パーー。『飛んでけー』)
投げられたセミは、加速しながら公園に飛んでいく。セミもびっくり、自分に未知なる力が宿ったのかと勘違いする勢いである。
(おばあちゃん、ナイスピッチングー)
パタパタとうちわで拍手。
(ふう。暑ーい。あー、天気良いなあ。すっごい青空)
左手を腰に当て、パタパタと扇ぎながら空を見上げる。肩幅に足を開いて、風呂上がりの牛乳を飲んでいるかのようだ。
…彼女はいま、自分がどこに立っているのかを忘れている。
そして――――
「う、う、うた、さん…」
驚かせないように、小声で呼びかける隼。
その小声が聞こえないから、前屈みになるうた。
万が一、うたが落ちても抱き留められるよう、両手を広げる隼。
どうしたのかな隼くん、と、いまだ気づかないうた。
この“ロミオとジュリエット”のワンシーンのような状態は、あと五分続いた。
「じゃ、俺行きます」
「うん、じゃ、今日も配達がんば―――」
二階の窓から外にいる隼と話していたうたの背後で、ジリリリと目覚まし時計の音がけたたましく鳴る。慌ててうたは止めに入ったあと、その時計を手に戻ってきた。
「え?いま、八時じゃない。隼くん、なんでこんな時間に?もう配達なの?」
「はい。ちょうど行ってきた帰りです」
「早くない?“やちよ”九時からよね」
「ええ、まあ、ね。ちょっと急きょ一件、飛び入りです」
(また、頼まれたか、頼まれなくても、か。隼くんのことだから、たぶん後者だろうけど)
「向こうで土下座する勢いで感謝されましたよ、『社運が懸かったキャンプだったんです』とか言って」
「これから接待キャンプだったのかしらね。ふふ、お疲れさま」
それから――――
隼は下から二階にいるうたに、「もう絶対、絶っ対、に、そこに乗っちゃ駄目ですからね」と念を押して、配達用の軽トラに向かおうとした。
が、ふと、しゃがみ込む。
「?」
しかし、隼はそれから何事もなかったかのように軽トラに乗り込み、軽く手を上げ、笑顔で去っていった。
(なんだったのかしら。下の植木鉢の辺りに何かあった?)
うたは欄干に手を突き、身を乗り出してみたが――――わからない。二階からでは見えなかった。
(何もない気がするんだけど……)
(…まあいいか。スニーカーのひも結び直しただけかもしれないし)
もう一度、空を見上げて。
まぁるい雲が浮かんでいる。青い空が切り取られたみたいだ。
(うん、今日の晩ご飯は煮込みハンバーグにしよう。目玉焼きも付けちゃうわよー)
(とか考えてたらお腹空いてきちゃった。朝ご飯、何食べようかな)
オリジナルの適当な鼻歌を口ずさみながら、うたは布団を上げた。
のんびりとお休み中、なにかの衝撃で二階の寝床から落とされてしまったヤモリ。
植木鉢と植木鉢の間にひっくり返ったまま、挟まってジタバタとしていた。
……………………。
ぴた。少し疲れて休憩する。
頭を傾けた。青い空が広がっている。
……………………。
……………………。
どこかで、
同じように、
こんなふうに、
落ちて、
そのときは――――
雪が降って、
……………………。
視界がまた反転する。なぜか元に戻った。慌てて逃げていく。
壁を登りきり、屋根の隙間に入ってひと安心。夜まで、まだまだ時間はある。
ヤモリは赤い夢を見る。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
読んでいただいたすべてのみなさま、本当にありがとうございました。
あと、おまけ話がふたつあります。
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