ヒラリーとユウティス①~前世
ガラガラと、夕食を載せた滑りの悪いワゴンを少女は押していた。
少女の名はヒラリー。
救貧院で育った彼女は、貧民街で靴を磨いていたとき、王宮で働かないかと誘われた。
「見て見て。ゴミがゴミをゴミに運んでいくわ」
「くすくす。ちょっと、不敬よ。い、ち、お、う、王子サマなんだから。いちおう」
「うふふ。駄目よ、みなさん。これは食べ物なんだから。ゴミだったらお皿に乗せないでしょう?」
ヒラリーは見えないように唇をかみしめ、手に力が入る。わざわざそばで聞かせる
声の主のひとり、同じお仕着せ姿の少女が意地悪く嗤いながらヒラリーに近づき、ワゴンの上のスープが入った皿を掴んだ。そしてそれを傾ける。
「だからゴミは捨てないとね」
「あっ、ス…スープが…っ」
思わずヒラリーは両手を出して、零されそうなスープを受けようとした。
「うわっ。みっともない。飲む気?」
「なんて意地汚いのかしら」
「そんなにお腹減ってるなら、ほら、口開けなさいよ」
「ちょっと待って。せっかくだからおいしくしてあげたほうがいいでしょ?」
そう言った少女は、ひとつだけ横に添えられた、というより、とりあえず隙間をごまかすために置かれたかのような小さなパンを手に取って、鼻歌交じりにそれで床を拭き始める。――――見る見るパンが汚れていく。
「ほら、いい味付けになったわぁ」
黒ずんだパンを見せびらかすようにしてから、ポイッとスープに入れた。途端に笑いが起こる。
「本当に、ぷぷっ、なんておいしそうなの、料理上手ねえ」
「くくくっ、床もきれいになったし。あなた、お掃除もお上手だなんて、ホホホ、いいお嫁さんになりますわあ。あはは」
「こんなのなかなか食べられないわよ、羨ましい~。きゃはははは」
ほらほら、と体を押さえ、ヒラリーの
貴族に階級があるように、使用人にも上下関係がある。上の者は下の者に仕事を押し付け、下の者は上の者にこびへつらった。
弱者をいたぶることで、暇つぶしをし、たまった
そんな王宮で働く使用人の数は、足りているはずなのに足りていない。本当に働く人が足りない。だから見つけてくる。見つからなければ裏通りで、“買ってくる”。
「何を騒いでいるのです?」
うしろから家政婦長の抑揚のない静かな声が響いた。
「あっ」
「こ、これは………そのぅ…」
「私たちは、べ、別に……」
スープ皿を持っていた少女は、慌ててそれをワゴンに置いた。ヒラリーを押さえつけていた少女たちも、ばつが悪そうに離れてうつむいている。
「………………。みな暇ではないのです。早く持ち場に戻りなさい」
少女たちは「失礼します」と言って、逃げるように去っていった。
「…………」
スープの中身を見た家政婦長は、小さく息を吐く。
「これはもう廃棄なさい。料理長に新しいものを頼んでおきます。少ししたら取りに行くように」
「はい」
「床もきれいに拭いておくのですよ」
「はい」
「………」
家政婦長が見えなくなってから、零れたひと粒の涙。ヒラリーは手の甲で拭った。
初めから冷めていた水のようなスープ。固いパン。千切っただけのサラダの上に転がった肉の切れ端。
これが、一国の王の子である王子の食事である。
過去のヒラリーにとっては、じゅうぶんご馳走だ。だが、誰がこれを見て、王子の食事だと思うだろうか。ヒラリーがいつも食べている使用人食堂で出される食事よりも、酷い。
ヒラリーが与えられた仕事は、そんな冷遇を受けている第一王子ユウティスの世話をすること。毎日三食、厨房からユウティス用の食事を受け取り、森の中の家まで持っていき、掃除洗濯、身の回りのあらゆるすべての世話をヒラリーひとりに任された。
ユウティスは、王の三年前に亡くなった寵姫の息子だ。本来ならば后との子でないと正式な王の子とは認められない。しかし当時、王と后には子がなかなかできず、焦っていた。そんななかで生まれた待望の男児のため、特例が認められた。
ユウティスの母は、あるとき開かれた宴に集められた踊り子のひとりであった。王はその美しさにひと目で虜となり、無理やりに我がものとし、そして生まれたのがユウティスである。
后は子ができない自分を責め、国のため、愛する王の子ならば自分の子も同然と喜んで受け入れたと言う。なんと心の広く優しい后だと、国中のみなが褒め称えた。そして一年後、なんと后も妊娠を発表、男児を出産した。
となると困るのが、ユウティスの存在。“美談”になってしまっているため、表立っては何もできない。
やがて、后との子である第二王子が王太子となり、元踊り子との子であるユウティスはただの第一王子になった。…臣下たちはどちらに付けばよいか一目瞭然なのだった。
不幸な事故で消えていただくこともできたが、そうすると別の問題があった。
公にしてはいないが、第二王子は心臓に病を抱えている。走ることはおろか、歩くことすらままならない。なんとか国内外の名医と呼ばれる医師に診てもらったり、高価な薬を取り寄せたり、と手を尽くしているが芳しくない。
ユウティスは、万が一のための、“予備の王子”として生かされているのだ。
生きてさえいれば、それだけで?
それとも、第一王子を冷遇すればするほど、自分の王家への忠誠が示されるとでも思っているのだろうか。
ヒラリーはスープで汚れた床とワゴンを丁寧に拭き、厨房に向かい、新しい食事を受け取った。そしてまた、ガラガラと慎重にワゴンを押していく。王宮の外れにある扉前まで来ると、家政婦長から預かった鍵を開けて裏庭に出た。
きれいな夕焼けが空に広がっている。
初めてここに来て、見上げた森は暗く恐ろしかった。
しかしいまは、優しくくるんで守ってくれている、そう感じた。
朱い木漏れ日の中を、ヒラリーは歩いていった。
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