空と少女~前世
さきほどまでホーホーと
ただただ静かで暗く、深い夜の森。
乱立する木々の隙間から遠くに小さな灯りがふたつ、揺らいで見える。やがてそれは、控えめな足音とともに近づいてきた。
燭台を手に、ふたりの女性が歩いている。先を行くのは無表情な中年の女性。そしてそのうしろを、所々が木の根で盛り上がった地面や転がっている大小の石に足を捕られ転びそうになりながら、それに気づかれないよう必死で追っていく少女。年の頃は十歳前後だろうか。
少しでも遅れると置いていかれる、こんな不気味な森に見捨てられたら生きていけない。
少女は瞬きすら惜しんで、にらむように前を歩く女性の背だけを見つめ歩いた。
救貧院で育ったその少女は生きていくために、なんでもやった。
一杯のスープのために、一日中ゴミを拾い、
危険な煙突掃除だって構わない、パンひと切れのためならば。
なんでも。だが犯罪には手を出さなかった。
それは彼女が希望を捨てていなかったのかもしれない。
とある国で、新たに国王が即位した。そして、いままでの腐敗した王政の改革とどん底状態の景気を回復させる、と高らかに宣言。まず、名ばかりの贈収賄罪を改正し、違反者は厳罰が処されることとなった。それから、奴隷売買の禁止、および奴隷の人権回復。公共事業で雇用を増やし、税率を軽減し消費活性化を目指す、などといった新政策が始まる。民は拍手喝采、新国王を誉めそやした。
しかし――――
いくら厳罰化しようが見つからなければいいだけの話だと、金品を渡して目をつむってもらう。贈収賄罪の贈収賄が横行。
いままでは大通りだったのが、裏通りでの売り買いになっただけの奴隷。もちろん役人は見て見ぬ振り。人権なんて、どこ吹く風。
増やした公共事業で利益を得るのは、一部の貴族だけ。工事は手抜きで、馬車が渡っていると先日完成したばかりの橋が落下。
軽減された税率分の補填に、新たに税が作られた。それどころか、便乗して数が増えた。
変わらない。けっきょくは、変わらないのだ。
自分たちが、いかに面白おかしく、贅を尽くし華美に生きていけるか。
そう。この国は。
ただ、それだけ。
貧民街の一角で、少女は一生懸命靴を磨いていた。正確には少しでも、一枚でも多くお金がもらえるように、この靴を履いた人物が優しい心の持ち主でありますようにと願いながら、少女は磨いていた。
「ありがとう。きれいになったよ」
帽子を被った紳士は少女に硬貨を三枚多く支払った。汚れた小さな手の平に乗せられた
これで二日ぶりにご飯が…スープがもらえる。
頭を下げ、立ち去ろうとした少女に紳士は言った。
「君、王宮で働いてみないかい?」
おうきゅう?
少女にとって王宮もマッチ工場も同じであった。ご飯が食べられるのならば、どこでもよかった。
それからは言われるがまま、されるがまま、少女は最低限のマナーを詰め込まれ、馬車に乗せられたのち、王宮に連れてこられた。
裏口から入り、彫刻が施された大きな噴水が中央にある中庭を横目に、その先を行く。やがて着いた部屋でお仕着せを渡され、着替えて待つよう言われる。
紳士が出ていくと、少女は少し大きくサイズの合っていないそれに急いで着替え、緊張しながらじっと立って待った。
しばらくして、紳士は同じようなお仕着せ姿の中年女性を連れて戻ってきた。
紳士にこの女性は“家政婦長”だと教えてもらう。よく見ると同じお仕着せでも少女のものとは違い、上質であつらえたかのようで、少し白髪交じりの家政婦長にしっくりと似合っている。
紳士は、「彼女にいろいろと教わって頑張りなさい」と言って去っていった。
「よ……よろしく…お願い、します………」
入ってきた時からにこりともせず、無表情に少女を見下ろす家政婦長は、挨拶もなしに「付いてきなさい」と言い、歩きだした。
先が見えないほど続く長い大理石のきらびやかな廊下を無言で進み、やっと着いた扉を抜けると、また同じように長い廊下が続いている。そしてまた扉を抜け―――というのを幾度か繰り返す。扉を開けて進んでいくにつれ、壁や窓はくすみ、床にはほこりが目に付いた。
「持ちなさい」
いままでいちばん大きな扉の前で、少女は灯りの付いた
それから家政婦長はその扉の鍵を開け、自分も燭台を持ってくぐり抜けた。少女も続いて出ていくと、そこはどうやら裏庭のようだ。日が暮れて薄暗い中、少女は視線だけきょろきょろと動かし周りを見渡す。
まず、あまり手入れがされておらず放置されているのか、雑草が目立つ。次にあちらこちらに転がった柄の折れたほうきや穴の開いたバケツ。右を
――――ここは“寂れた”という表現がぴたりと当てはまっている。
そして、その先に見える広く大きな、大きな暗い森。
行きますよと、家政婦長はひるむことなく黒い巨大な怪物のような塊の中に入っていった。
「わっ」
家政婦長の背中だけを見つめて歩いていた少女は、急に立ち止まられてぶつかってしまった。
「ごっ、ごめんなさいっ」
少女が慌てて頭を下げた拍子に、燭台に立てられていたろうそくが落ちた。焦って拾おうと屈んだとき、初めて辺りがほんのり明るいことに気づく。
顔を上げると月が見えた。いままでずっと暗い森の中だったが、いつの間にか広場のような所に着いていたようだ。
森を小さくくり抜いたかのように広がる空間。
その中心に山小屋を少し大きくしたくらいの建物がある。
ぼうぜんとしている少女を気にかけることなく、家政婦長はその建物の扉をたたいた。
「殿下。いま、よろしいでしょうか」
少し待ったあと、もう一度たたいて「入ります」と言い、家政婦長は中に入っていった。
少女が戸惑いながら待っていると、すぐに家政婦長は出てきて建物のうしろに回っていったので、少女も付いていく。
一本の木の根元で、少年が丸くなって眠っている。
「殿下、こんな所でお休みになられてはいけません。お目覚めになられてくださいませ」
殿下、と少し大きな声で家政婦長がそう言うと、“殿下”と呼ばれた少年は、もぞもぞと上半身を起こし、目を擦りながらこちらを見た。
空みたい。きれいな青い色。
少女は少年の瞳を見てそう思った。
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