第2話

 学年末考査が終ると土、日となった。カーツンの心算つもりでは、この連休は重荷を下ろした解放感のなかで迎えるはずだった。自分が教えている生徒の中から追試該当者を一名も出さないという、退職のゴールに至るまでに越えなければならない職務上のハードルの中でも最も重大なものをクリアして、晴れ晴れとした気持で迎える週末をカーツンは思い描いていた。そうなれば退職も眼前に見えてくるはずだった。

 カーツンは自分を縛る軛と意識される広井の顔を思い浮かべた。あいつさえまともに点を取っておれば、と腹立たしい思いを反芻した。追試問題をどう作るのか。広井は追試をクリアできるのか。そんな新たなストレスを抱えて彼は土、日を過ごした。

 月曜日、出勤したカーツンは大島の欠勤を知らされた。母親が亡くなって三日前から特別休暇を取っているという。水曜日まで休むようだ。そう言えば学年末考査の最終日に大島は欠勤していて、代りにスポクラのホームルームに行ったことをカーツンは思い出した。大島が欠勤するとスポクラの副担任であるカーツンは代りにホームルームに行かなければならない。ホームルームは朝と帰りにある。スポクラとの接触は週四時限もある授業だけでたくさんだと思っているカーツンには気の重いことだった。朝一番から広井と顔を合せるのは嬉しいことではないが、逆に指示伝達には都合がいいと言えた。カーツンは朝のホームルームの終りに広井を呼び、昼休みに職員室に来るように言おうと決めた。

 昼休みに入ったが広井が職員室に来ない。朝のホームルームで伝えたのだが五分を過ぎても現れない。カーツンがやきもきした気持ちでいると、広井が出入口に姿を見せた。カーツンはほっとして広井を注視した。こちらにやって来るだろうと思っていると、広井はそのまま真っ直ぐ歩いて柱の陰に消えた。どこへ行ったのか。カーツンは席から立ち、広井の姿が見える所まで歩いた。彼女は英語科の若い女性講師の席に行って、その講師と話をしている。無視されたような気持でカーツンはクソッと思った。こちらは朝から言うべきことをあれこれ考えて待っているのに、挨拶もなくスーと他の教師の席に行ってしまう。昼食が済んでから呼ぶ方がいいか、昼休みに入ったらすぐ来いと言おうかと呼び出すタイミングまで思量したことを思い、カーツンは不快感に包まれながら待った。

 十分が過ぎた。話はまだ終らないようだ。一時まで待って、それでも終らなければ、講師の席に広井に話があると言いに行こうとカーツンは思っていたが、それでは広井の食事時間がなくなると思い直し、カーツンは席を立った。

 二十代と思われる女性講師が厳しい目で広井を見ながら何か言っている。広井は涙を流しながら聞いている。こいつは英語も追試なのかとカーツンは思った。彼は少し離れた所から二人の様子を見ていたが、待っていても仕方がないと思い、近づいて女性講師に声をかけた。

「終ったら私も広井に話がありますから」

 講師はカーツンを見て、あっと気づいた表情で頭を下げた。

 席で待っていると広井がやってきた。

「お前、英語が追試なのか」

 カーツンが訊くと、広井は「違います」と答えた。それならなぜ涙を流しながら叱られていたのかとカーツンには不審だったが、関係ないことだとそれ以上は訊かなかった。

「ガックリきたよ。四四点しか取れないのか」

 カーツンは本題に入った。広井は例によって唇をすぼめて黙っている。

「お前、勉強したのか」

「しました」

「クラスの平均点は七一点だった。納富も七八点をとったぞ。皆、今度は一生懸命頑張ったんだ。お前はどうだ。頑張ったか」

 広井は黙っている。

「頑張ったとは言えないだろうな。漢字と文学史の部分で〇点だったのはお前だけだ。二五点あるんだぞ。せめて一〇点でも取れば違っていたろう。漢字と文学史は全然やらんかったのか」

「俺は当然やるだろうと思って言わなかったんだ」

「俺が六五点以上取ればいいと言ったのはあくまで最低で六五点だったんだぞ」

 広井は沈黙を続けている。

「お前は追試に決った。平常点を丸ごとやっても追いつかない」

 カーツンは溜息をついた。

「お前が頑張らなければどうしようもないんだ。俺が試験を受けるんじゃないからな」

「どうなんだ。追試をどう受けとめているのか。お前の気持が聞きたいんだ」

「追試を受ける気があるのか」

「本当はお前の方からよろしくお願いしますと言ってくることなんだぞ」

 広井は涙を流しながら黙っている。広井が涙を流すのはこれで二度目だ。フェイスブック事件は広井が李を唆してやらせたことだというある教師の言葉をカーツンは思い出した。先生に職員室で叱られたことへの仕返しですよとその教師はカーツンに告げた。広井が職員室で涙を流したのは事件の後だったので腑に落ちない思いもあったが、それ以前にも何度か広井に注意はしてきたので、そんなことも有り得るかとカーツンは思った。広井にはこの瞬間も恨みのようなものとして残るのかなとカーツンは思った。沈黙する広井に、こういう訊き方では何を問われているのか分からないのかもしれないと思い、

「俺は追試に向けてのお前の決意が訊きたいんだ」

 とカーツンは言い直した。

「追試を受けないと進級できないのなら受けます」

 と広井は答えた。

「仕方がないから受けると言うのか。それじゃ俺は追試はしないぞ。本人がやる気がないから追試はしませんと教務に言うぞ」

 カーツンは広井を見つめ、しばらく黙った。

「それでいいか」 

 カーツンが問うと、

「追試を頑張ります」

 と広井が言った。

「どう頑張るんだ」

 とカーツンはさらに問うた。

「一生懸命頑張ります」

 と広井は答えた。ようやくカーツンが聞きたい言葉が出た。


 追試の内容をどうするか。カーツンは頭を捻った。スパンを大きく取れば今年度初頭からの授業内容の全てを対象とすることができるし、小さく取れば直前の学年末考査の試験範囲が対象となる。教科書だけでなく、併せて出題されていた文学史や漢字書き取りの該当範囲も対象となし得る。広井の場合、学年末考査の範囲に限定するのが負担も少なく、記憶にも新しいので適当であることは明らかだった。但しその場合でも、学年末考査と同じ範囲にするのは広井にはヘビーなように思われた。何しろ追試の合格点は高い。七十点以上は取らないと教科内部や進級判定会議で文句なく合格という認定は得にくい。とすれば範囲はさらに限定しなければならない。それでカーツンは範囲を詩一編に絞ることにした。詩三編のうちの一番長い詩を選んだ。問題数を増やすには長い詩の方が都合がよい。

 広井の追試指導を始めるに当って、教科主任と広井の部活の顧問、そして担任にその旨を報告しておくべきかなとカーツンは思った。いずれもカーツンにとっては避けたい、好意の持てない教師たちだったが、手続きはきちんとしておいた方がいいと考えた。退職が近づいてくると、立つ鳥跡を濁さず、というのか、後で批判を受けないようにしようという意識が強まってきた。進級判定会議での追試の審議では教科担当ではなく該当教科の教科主任が報告するので、教科主任には連絡しておく必要があった。部活の顧問には放課後の追試指導のために部活に一部参加できなくなることへの了承を得る必要があった。二人とも男子部所属の教員で、二階の職員室に居た。わざわざ二階に上がっていくのも億劫だなと思っていると、偶然、二人がそれぞれにカーツンの座席の側に来る機会があった。カーツンはその機を捉えて了解を取った。目の前に居る担任の大島には言おうか言うまいか迷ったが、渡してある成績単票を見れば広井が追試該当であることは分かるので、改めては言わないことにした。

 追試には十日余りの日数があった。広井に対する放課後の追試指導が始まった。

 三月一日。広井の追試指導の二日目だった。昨日に続いて学習プリントを用いて、語句の意味や表現にこめられた作者の心情を捉まえさせようとしていた。昨日の指導で、広井が簡単と思われる箇所の読解にもかなりの困難を抱えていることが分り、カーツンは溜息をつく思いだった。

「この『蒼鉛いろの暗い雲から/みぞれはびちょびちょ沈んでくる』という表現と同じものを表した表現が前にあるね。どこにあるかな」

 この問いは作者の心情を問うものではなく、類似の表現を抜き出せばいいのだから、広井も答えられるだろうとカーツンは思った。実際二つの表現は長さ、リズムがほぼ同じで、三つの同一語が文の同じ位置に用いられているのだ。ところが広井は答えられない。

「よく読んでみろ」

 とカーツンは言った。広井は教科書の詩を読み直すが、その態度に落着きがない。頭がリズムを刻むように小刻みに揺れている。カーツンはさっきから広井の浮ついた態度が気になっていた。

「おい、真面目に読んでいるのか。分からないような問題じゃないぞ」

 とカーツンが言った時だった。

「どうにかならんのですか!」

 と広井が叫ぶように言った。そして突っ伏して泣き出した。カーツンは呆気にとられて黙った。

「教える先生を変えてください」

 広井は泣きながらそう言った。何を言い出すのだとカーツンは思った。

「どういうことだ」

 とカーツンは訊ねた。

「担当を変えてください。先生の指導は受けたくありません」

 広井は泣きながら言う。カーツンは当惑した。

「なぜだ」

「先生は上から目線でものを言うから嫌なんです」

 カーツンは驚きながらも苦笑した。上から目線か、しかしそれは教師なんだから仕方がないんじゃないのか。とんでもないことを言い出す生徒だとカーツンは思った。追試の指導を受けていてこんなことを言い出す生徒は初めてだった。しかし広井の自分に対する拒否の気持は痛く伝わってきた。どうしたものか。これでは指導は続けられないなと彼は思った。

「俺の指導は受けられんか」

 カーツンは確認するように言った。広井は頷いた。追試はどうなるんだろうとカーツンは思った。とにかく担任に伝える他はないと思った。

 大島は職員室に居た。カーツンは仕方がないと思って腰を上げ、大島の側に行った。

「先生、今、広井の追試に向けての指導をしているんですが、ちょっといいですか」

 と声をかけた。大島はカーツンに付いて来た。カーツンは大島の前を歩きながら大きな溜息を吐いた。

「広井が私の指導は受けたくないと言うんですよ」

 とカーツンは広井の側に座った大島に言った。

「どうしたんか」

 大島は泣いている広井に声をかけた。

「担当を変えてください」

 と広井は大島にも訴えた。

「私が上から目線でものを言うから嫌だと言うんです」

 とカーツンは広井の言葉を苦笑を浮かべながら伝えた。大島はにこりともせず、

「そうなんか」

 と広井に訊ねた。広井は頷いた。

「担当を変えてもらうわけにはいかんのですか」

 と大島はカーツンに言った。こういう場合、担任は生徒を宥め、その考え違いを諭すのが普通だが、大島は広井にすぐに同調した。それはカーツンの予想通りだった。大島が自分の側に立つことはないとカーツンは思っていた。スポクラには広井のようにカーツンへの批判と不信を表す生徒が何人か居たが、大島はそんな生徒の傾向を助長はしても抑える担任ではなかった。

「しかし、それを教務が認めますかね」

 カーツンは苦笑を浮かべて言った。

「授業担当でない教員が追試の指導を行うことを」

 それが可能なら自分も楽だが、とカーツンは思った。

「私が教務に言ってもいいですよ」

 と大島はそんなことは問題ではないという表情で応じた。大したもんだなとカーツンは思った。大島のように自分が顧問を務める部活を何度もインターハイに出場させた実績を持つ教員は、この学校ではそんなことを認めさせる力があるのかもしれないなと彼は思った。カーツンは自分に好意的でない教務部長の顔を思い浮かべた。彼はこの問題を俺の失態と考えるだろうなと思った。

「学年主任に相談してみましょうか」

 とカーツンは言った。そして立ち上がって学年主任を探したが職員室には居なかった。大島が教務に掛け合うと言うのなら、任せようかと思いながら彼は席に戻った。そこへ柔道部の副顧問の渡辺が顔を出した。

「どうしたんですか」

 と渡辺はカーツンに訊いた。

「広井が私の指導は受けたくないと言うんですよ」

 とカーツンは苦笑を浮かべて言った。

「どうしてそんなこと言うの」

 と渡辺は広井に訊いた。

「わけの分からないことばかり言って、何を言っているか分からない」

 と広井は俯いたまま答えた。

「分からなかったら、なおさら先生の言うことをよく聞かなければならないでしょう」

 渡辺はそう言って、椅子を取り寄せて広井の横に座った。

「そんなことが分らないのかみたいな、皮肉みたいなことを言うから、もう嫌になる」

 広井はそう言ってまた涙を流した。

「私が上から目線でものを言うのが気に食わないと言うんですよ」

 とカーツンは言葉を添えた。

「あなたは指導を受ける立場でしょう。先生は指導して下さるんだから上から目線は当り前でしょう」

 ほう、ようやくまともなことを言ってくれる教師が現れたとカーツンは思った。

「あなたはあれこれ先生に文句を言う立場じゃないのよ」

 広井は黙った。

「先生の言うことをよく聞いて、しっかり勉強して追試に合格しなけりゃ。それがあなたの立場よ」

「いくら聞いても難し過ぎて、何を言ってるかわからない」

 と広井が言った。すると、

「もう少し水準を下げてもらえないですか」

 と大島が眉間を顰めて言った。抗議の響きがあった。カーツンは考えこんだ。

「課題にはできないのですか」

 と渡辺が言った。

「それはできないんですよ。共学になってから」

 とカーツンは答えた。共学体制への移行に伴って教務規定も変った。以前はスポクラの追試該当者にはノート提出など何らかの課題を出して、それを果せば単位取得を認めていた。追試を受ける必要はなかった。それはスポクラに限られた特例だった。それがなくなったのだ。進級するためには追試に合格するしか道はなかった。

「課題を出して、それを点数にして、追試の点数に加えるというのはできないのですか」

 と渡辺はさらに言った。

「追試と課題のミックスですか」

 それも考えられるなとカーツンは思った。しかしそんなことが認められるかなと怪しんだ。それよりこの際いっそ追試の水準をグーンと下げようかとカーツンは思った。担任もそれを望んでいる。本人の能力もそれを必要としているようだ。詩をやめて漢字に切り替えようかとカーツンは思った。その方が指導も楽になる。

「漢字に切り替えましょうかね。詩は難しいようだから」

 カーツンはそう言って広井を見た。詩をやめるということは広井の授業内容についての理解を今以上進めないということだ。追試の勉強が授業内容の理解不足を補うものにはならず、進級のための手段としての意味がより純化されるということだった。広井の不十分な理解をそのままにしておくということで、広井にはすまないなとカーツンは思った。しかしやむを得ないようだった。

「漢字に絞ろうと思うが、それでいいか」

 とカーツンは広井に訊いた。広井は頷いた。

「じゃ、そうします」

 とカーツンは言って二人の教師を見た。異存はないようだった。

「で、指導するのは俺でいいか」

 とカーツンは広井に質した。これはやはり確認しておかなければならないことだと彼は考えた。広井は黙った。

 漢字であれば教えるのは自分である必要性はなくなるとカーツンは考えた。指導を依頼する相手としてスポクラの古文を担当している女性講師の顔などが彼の頭に浮かんでいた。

「どうだ、俺でいいか」

 カーツンは再度訊ねた。すると指導を頼まれる相手にも迷惑な話だなという思いが浮かんだ。

「まあ、漢字の指導だから誰がやっても同じだと思うよ。代りを頼む先生にも迷惑をかけるしな」

 とカーツンは続けた。

「江崎先生でいいでしょう」

 と渡辺が言った。広井はやっと頷いた。

「じゃ、明日から漢字の勉強を始めるから」

 と言ってカーツンは広井を帰らせた。

 広井が去った後、急転直下した事態にカーツンはしばらく呆然とした。「どうにかならんのですか!」という広井の叫びが頭に残っていた。広井の自分への拒否感情が激しく迫った。この生徒への今後の対応の仕方をカーツンは考えざるを得なかった。


 広井への対応はともかく、追試の内容を漢字に絞ってカーツンの追試への思いは楽になった。漢字だけなら広井も合格点を取れるだろうと思うからだ。学年末考査の漢字の範囲は漢検の準二級から二級に該当するものだった。二級は高卒時に到達しているべき漢字能力とされていた。漢字のテキストには二級の漢字から成る、意味も読みもかなり難しい熟語が並んでいた。広井には覚えるにしても少し荷が重いのではないかとカーツンは危惧した。そこで彼はこの際漢字のレベルも下げようと思った。高校生が先ず合格を目指す三級を範囲とすることにした。テキストの三級の範囲全部では広すぎるので、B4のプリント一枚に収まる八ページ分の問題、熟語数にして八十語を範囲とした。これで広井の追試の内容が確定し、何をすればよいかが明確になった。

 翌日の放課後、職員室に来た広井に追試験範囲のプリントを渡し、答を書き込ませた。三十分後、答を点検すると、広井が書いた答は三十語に満たなかった。それも誤答を含めてだ。カーツンは広井にテキストの正解を見てそれを書き写し、誤答は訂正するように指示した。そして正解を覚えてくるように言った。翌日から土・日で休みになるので、それを休日の間の宿題にした。

 月曜日の放課後、広井が職員室に来た。カーツンは追試までは毎日指導するつもりで、広井にもそう伝えてあった。宿題の漢字のプリントを見ると正解の書き込みがまだ終ってなかった。叱りたくなったがその気持を抑え、書き込みを早く終えるよう穏やかに指示した。三月一日の衝撃以後、カーツンの広井への対し方は慎重になっていた。正解を書き込み終るのに広井は四十分ほどを要した。彼女にとっては漢字の学習も簡単なものではないことをカーツンは感じた。二日の休みの間に広井が指示通り正解を書き写し終え、それを覚えてくると考えて、カーツンはその日はテストをするつもりだった。ところが今から覚える段階に入るのであれば、今日はテストは無理だと判断した。カーツンは広井に、明日テストをするので正解をよく覚えてくるように言って、その日は指導を終えた。

 帰宅の電車の中でカーツンは予定通りに進まなかった追試指導を思い返した。あのまま広井を帰してよかったのかなと思った。予定が遅れたことが妙に彼を焦らせていた。正解を書き写すことだけにも広井があれほど手間取ったことが焦りに拍車をかけた。追試まで一週間を切っていた。広井が書き込みを終えた後、正確に書き写しているか、せめて点検ぐらいはしておけばよかったと悔いた。

 翌日の放課後、広井に一回目のテストを行った。広井が正解を書き込んで覚えたのと同じプリントが問題だ。結果は八十門中二十二問正解。半分もいかないのかとカーツンは思った。これが出発点なのだ。三十分間を与えてさらに覚えさせ、もう一度テストをした。正解数は三十四になった。広井には漢字を覚えることもなかなか大変なことなのだとカーツンは改めて認識し、焦燥を覚えるのだった。

 その夜、カーツンは夜中に目覚めた。もう一度眠ろうとするが、広井の追試指導のことが頭を巡り始めた。とにかく一回でも多く書かせることが大切なのだ。書かせて覚えさせる他はない。放課後まで待っていていいのか。そうだ、朝のうちに広井に追試範囲のプリントを渡し、それに答を書き込んで放課後の追試指導が始まる時に提出するように指示しよう、と彼は思いついた。いつプリントを渡すか。スポクラの授業は六時限目にあるが、その折ではもちろん遅すぎる。遅くとも昼休みまでには渡さなければならない。朝のホームルームの時に渡すのがベストだろうが、担任の大島には頼みにくい。ホームルームが終るのを廊下で待って、広井に声をかけるしかない。その際の大島、クラスの他の生徒の反応を想像するとプレッシャーを覚えるのだった。放送で広井を呼び出す方法もあった。他のクラスの授業の行き帰りにスポクラに寄って渡すということも考えられた。どの方法でいつ渡すかは明朝起きてからその時の気分で考えようと、カーツンは駆け巡る思いにピリオドを打とうとした。だがいつの間にか遠ざけた思いをまた追いかけている。思案と中断の反復のなかでやがて眠りに落ちた。

 翌日、職員室の中でカーツンはやはり悩んでいた。朝のホームルームの時間は決断がつかないまま既に過ぎ去っていた。一時限終了後、放送で呼び出すか、三時限目にある理系進学クラスの授業に行く途中、スポクラに寄って渡すかの選択に彼は迷っていた。一応後者に決めたが、一時限目が終ると三時限目まではとても間遠く思われた。早いほうがよい、遠慮することはないとカーツンは思い直した。彼は放送機器の前に立ち、スイッチを入れた。放送して二、三分が経ったが広井は現れなかった。やはり反発したのかなとカーツンは思った。毎日放課後職員室に行かなければならないのに、その上、朝のうちから呼び出されてはたまらないと。重い塊がカーツンの胸のなかに沈み、彼は胸苦しくなった。仕方がない。三時限目の授業の前にスポクラに寄ろうとカーツンは思い定めた。

 二時限目は空き時間だった。二学期まではこの時間に三年スポクラの授業が入っていた。カーツンは落着かぬ気持でその時間を過ごした。二時限目が終るとカーツンは早めに職員室を出た。

 出入口からスポクラの教室を覗きこむ。広井の姿を探すが見当たらない。中井が、

「先生、どうしたん」

 と声をかけてきた。

「広井はいないな」

 とカーツンは応じた。

「何か伝えることがあったら言ってやろうか」

 と中井は言った。広井は中井から追試に関する指示を聞くのは嫌だろうなとカーツンは思った。広井がいないという事態にカーツンは戸惑って、さてどうしたものかと考えていたので、中井に返事もせず、その場に佇んだ。すると側に居た田丸が、

「広井なら九組か十組に居ると思うよ」

 と言った。

「そうか」

 とカーツンは応えてその教室に向った。

 二つのクラスを覗くが広井の姿はない。仕方なくカーツンはこれから授業するクラスに足を向けた。そこへスポクラの今西という生徒が通りかかった。ちょうどいいとカーツンは思い、

「ああ、今西」

 と呼び止めた。

「広井に次の休み時間に職員室に来るよう伝えてくれないか」

 とカーツンは言った。

「広井は保健室に行ってますよ。だから放送は聞いてない」

 と今西は答えた。それで広井が来なかった理由が分かり、カーツンは少し気が楽になった。今西が広井をフォローする発言をしたのは意外だった。が、次の瞬間、また保健室か、とカーツンの気持は暗転した。今日の追試指導はできないかもしれないという予想が彼を胸苦しく締め付けた。

 広井の件が宙ぶらりんの未決着であることが授業の間中ストレスとなってカーツンを苦しめた。広井が「どうにかならんのですか!」と叫んで追試指導の担当変更を迫った事件以来、広井と追試はカーツンの大きなストレス源となっていた。その件を考えると心理的に切迫して、呼吸も苦しくなるような状態になっていた。追試が不首尾に終るのではという危惧がカーツンを不安と緊張に追いこむのだ。授業を終え、不安定な自分の気持に、取り越し苦労をするな、自分を追いこむなと言い聞かせながら、カーツンは職員室までの廊下を歩いた。

 席に座ってからも心理的な切迫は鎮まらなかった。こんな緊張状態を続けていては今にも脳血管が切れるのではないかとカーツンは怯えた。そうなれば俺は死ぬか廃人となり、定年後の生活など吹き飛んでしまう。そう思うと危懼は俄に膨れ上がり、カーツンの心胆を凍えさせた。彼は遮二無二この危地から脱出しなければならないというパニック状態に陥りかけた。落着け、自分の息をしろ、自分の息を失うな。カーツンはいつもの自戒を唱えて、亢進する気持を鎮めた。

 その日は午前中の四時限を使って生徒の来年度用の個人写真の撮影が行われていた。カーツンは四時限目はその監督に割り当てられていた。撮影の順番を待って廊下に並んでいる生徒たちが騒いだり列を乱したりしないように監督するのだ。最後のクラスの撮影が四時限目の終了前に終り、カーツンは早めに監督から解放された。彼は気になっていた保健室に向った。保健室のガラス戸から中を覗くと、養護の女性教諭が戸を開けて出てきた。広井はベッドで寝ていると言う。もう三時限も寝ているので、この時間が終ったら起して教室に戻すと言う。伝言があれば伝えましょうと養護教諭が言うので、カーツンは昼休みに職員室に来るよう伝言を頼んだ。

 昼休みに入って間もなく広井がカーツンの許に来た。カーツンは期待していなかったので驚くとともに喜んだ。広井に大丈夫かと訊くと大分よくなったと答えた。カーツンは追試範囲のプリントを渡した。そして放課後の追試指導は受けられるのかと訊くと広井は受けると答えた。それを聞いてカーツンは起死回生だと思った。放課後にテストをするからプリントに答を書き込んでしっかり覚えておくように指示した。

 放課後、広井に三回目のテストを行った。結果は六十三問正解。二回目よりかなり上昇した。カーツンは間違えた問題は正解を五回書いて覚えるように指示した。その作業の終了を待って四回目を行った。結果は七十六問正解。パーフェクトまであと四問と迫った。五回の書き直しが効果を表した。

 翌日の午前中、カーツンは学園の法人本部に赴いて退職の手続きを行った。そのための外出許可を教頭の鹿毛山に求めると、退職手続きのためなら公用外出の扱いになると言われた。

 法人本部の係の職員からいろいろな書類を渡され、署名・捺印を繰り返した。今後の事についての選択もいくつかしなければならなかった。退職後に法人本部に返送しなければならない書類も渡された。一時間弱で手続きは終った。法人本部を出ると、退職にまた一歩近づいたという感慨が湧いた。在職の日数も残り少なくなっているのだった。とにかくトラブルを起さずに無事に停年退職することだと、駅へ向う坂を下りながらカーツンは自分に言い聞かせた。

 その日の放課後の追試指導で五回目のテストを行った。八十問正解。広井は遂にパーフェクトを達成した。さすがに嬉しそうな表情を見せた。しかし油断はできない。追試まで後三日。それまで今の状態を維持させなければならない。プリントの八十問の中から五十問を選んで追試の問題にするとカーツンは広井に告げた。一問二点で百点満点。八十点以上取らないと文句なしの合格ということにはならないと警告した。さらに八十点などと言わずにパーフェクトを取れとハッパをかけた。お前はできると言うと広井は頷いた。カーツンは繰り返し書くように言って、プリントのコピーを五、六枚広井に渡した。

 

 三月十一日になった。東日本大震災から一周年となる日だ。一年前のこの日、ワラシが朝の散歩で久しぶりにコース一周の快挙を成し遂げたのだ。その記憶はカーツンの鼻腔をツンと刺激した。ワラシの骨壺は生後四十日で死んだその子の小さな骨箱と並べて仏壇に置かれ、線香をあげて合掌するのがカーツンとムーサンの日課になっていた。

 その日は日曜日で晴れていた。カーツンは地元で開かれた脱原発の集会に参加した。「さよなら原発! 3・11K市集会」と銘打たれたその集会は第一部から第三部まで、午前・午後を通して開かれた。カーツンがこの集会を知ったのは法人本部に退職の手続きをしに行った折だった。本部に向う坂の途中にあった、「年金者組合」という表札のある木造家屋の壁にビラが貼ってあったのだ。脱原発の意志を行動で表したいと考えていたカーツンは、脱原発集会はこの地域でもやっぱりあるんだと思い、参加を決めた。

 震災によって明らかになった原発の禍々しさはカーツンには衝撃的だった。被曝労働が必須とされることや核燃料廃棄物の処理が未解決であることなど、原発のダーティーエネルギーとしての実態が明らかになるにつれて、それを知らず、考えもせず、半世紀を生きてきた自分の迂闊さが情けなく、腹立たしく思われた。また原発の危険で凶悪な本性をひた隠しにしてきたこの国の支配機構に激しい怒りを覚えた。この国の戦後が大きな虚構のなかを動いてきたことの実証のように感じた。これまで通りを続けることはできないと思った。日本はここで変らなければならない。脱原発はその突破口だと考えた。

 午後の第二部からカーツンは集会に参加した。第二部が本集会となっていて開会挨拶、呼びかけ人代表挨拶、リレートークなどの項目が並んでいた。子供の健康を守るために福島から沖縄に避難しているという母親が、放射能汚染を広げないために被災地のガレキを受け入れるべきではないと訴えたのがカーツンの印象に残った。被災地に留まる者、去る者、家族の中にも亀裂が生まれているようだった。

 会場にはテントが五十ほど張られ、うどんや焼きそば、農産物、海産物が売られ、バザーやフリーマーケットの店も出ていた。カーツンは原発の永久運転差し止めを求める訴訟を起した原告団・弁護団のテントを訪れ、原告申込書を受け取った。この訴訟団は集会の呼びかけ人になっており、ステージから弁護団の弁護士がアピールしたように一万人の原告団の実現を目指していた。カーツンの知人が原告の一人になっていて、カーツンにも加入を訴えてきていた。脱原発を望むなら自ら原告になることが一番ストレートな行為と思われた。

 第三部はデモ・パレードだった。A・Bの二コースに分かれて行われた。カーツンはK市のメインストリートを通り、K駅前で解散するBコースに入った。横断幕を持った先頭から十メートルほど後ろをカーツンは歩いた。年金者組合の隊列の後ろだった。「原発いらない!」「電気は足りてる!」「金より命!」「子供を守れ!」「世界を変えよう!」ハンドマイクを肩にかけて列の傍らを歩く白髪の老人が発する声に続けて人々は叫び声を上げた。声を街に響かせることがカーツンには快かった。日頃声に出したいと思っていて言えない言葉だった。その合間に明日は広井の追試の日であることがカーツンの頭を掠めた。


 広井の追試の結果は九六点だった。本人は満点だと思っていたようで、カーツンが点数を告げると、「間違いがあった?」と驚いた顔をした。満点ではなかったが、合格の判定には問題のない点数だった。カーツンはほっとした。翌日、追認会議が開かれ、広井は進級を認められた。カーツンは広井と追試の重圧からようやく解放された。


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