第8話

 朝、サンバアが部屋から出てくると、

「母ちゃん、パンツ穿き替えておいで。あんたしかぶっとるよ」

 とムーサンが言う。

「しかぶってないよ」

 とサンバアは応じる。

「臭いよ。あんた臭わんかね。脱いでみてごらん」

 こんなやり取りが二日に一度は繰り返される。サンバアがおとなしく部屋に戻って、パンツを穿き替えて一件落着となれば幸いだ。しかしサンバアの粗相はその程度では済まない。朝、サンバアが部屋からなかなか出てこないのがその前兆だ。デイ-サービスの迎えの時刻が迫る。ムーサンは部屋に見に行く。そして蒲団やシーツがすっかり濡れているのを発見する。紙パンツが脱ぎ捨ててある。サンバアの姿はない。トイレに行っているようだ。トイレに行く途中の廊下に大便が落ちている。トイレを覗くとサンバアが中腰で用を足している。

「ちゃんと座ってせんかね! なしかね、あんたは! 」

 さすがに抑えきれないムーサンの怒声がトイレから響いてくる。

 サンバアを着替えさせながら、

「いっつもかっつもしかぶって。昨日、シーツを洗ったばっかりなのに。もっとしっかりせんね」

 とムーサンはサンバアを叱咤する。

「私はしかぶったりせんよ」

 サンバアは粗相をあくまで否定する。

「しかぶっとるやないかね。あの濡れとるシーツや蒲団はなんかね。今日はウンコまでしかぶった。あんたなしてパンツ穿かんの」

「知らんよ」

「知らんがあるかね。あんた、蒲団四枚もダメにしとるんよ」

「ウソ言い」

「私がなんでウソを言うんかね。始末する者の身にもなってみり」

「うるさいね、いちいち」

 サンバアの反撃が始まる。

「あんたもようシッコしかぶって、私にどれだけ迷惑かけてきたか」 

 ムーサンの幼い頃のことをサンバアは言いだした。これにはカーツンも唖然とした。

「バカッ。そんなことは言うな」

 とサンジイが止める。

「子供が親に迷惑をかけるのは当たり前だ」

 サンジイがそう言うと、

「あんたは黙っとき」

 とサンバアはサンジイの口を封じた。

「よう言うね、あんたは。ああ、よく覚えとるよ。私がしかぶったら、あんた、私をホースで叩きよった。そしてパンツは私に洗わせた。あんたは洗わんやった」

 ムーサンの声は怒りに震えている。親に幼少時の粗相のことまで言われればさもありなんとカーツンは同情する。

「だからあんたの世話にはなっとらんよ。それに子供がしかぶるのとあんたがしかぶるのは話がちがうやろ」

「あんたのシッコの始末をどれだけさせられてきたか」

 サンバアは言い止めない。

「このクソババア。あんたは本当のクソババアや。ウンコをしかぶるババアやから」

 ムーサンのその言葉を、〈文字通りのクソババア〉とカーツンは胸の内で言い換え、頷く。

「このクソ女郎めろ

 とサンバアは言い返す。

 サンバアの粗相に起因するムーサンとサンバアの衝突は頻発する。サンバアは自分の粗相は決して認めない。せいぜい譲歩して「メーファーズ」と嘯くだけだ。ある時の口論ではサンバアは「人生は分からない。今はそう(世話をかけている)だが、私があんたの世話をする時がくるかもしれんよ」とムーサンに言い返したものだ。この人はいつまで生きるつもりなのかとカーツンは思い、その負けん気の強さに舌を巻いた。

 デイ-ケア、デイ-サービスが共に休みになる日曜日。老人二人は長椅子に並んで座って、テレビを見て過ごす。サンジイは普通に腰かけているのだが、サンバアは腰が前に滑り出て、上半身が仰向けになり、首だけを背もたれに預けているような形になっている。見るからにだらしない姿であり、テレビを見るのも大儀だという格好だ。それはサンバアの何もしたくないという気持を露にしている。サンジイは車椅子がないと動けないが、サンバアは脳梗塞を起したとは言え、手足の動きに不自由はなかった。しかしサンバアは何もしなかった。食べて寝て排泄する以外は。ムーサンが、

「母ちゃん、洗濯物畳んどき」

 と言うと、しばらく経ってから側に重ねてある洗濯物を億劫そうに畳み始める。しかしこのことがムーサンとの口論の際には文句の一つとして出てくる。

「人をいいようにこき使って」

 と言うサンバアに、

「いつこき使ったかね。自分たちの洗濯物を畳むくらいして当り前やろ。洗ってやっとんやから。あんた体が不自由やないんよ。自分が食べた茶碗くらい洗いなさい。何もせんとあんた本当にボケてしまうよ」

 とムーサンは返す。サンバアが脳梗塞で倒れて以来、サンジイ、サンバアの衣類の洗濯から出し入れまでムーサンの仕事になっている。

 秋に入ったある日曜日、ムーサンは嫌なものを見た。長椅子に例によって寝そべるようにして座っているサンバアの陰部をサンジイが触っているのだ。テレビが置いてある部屋との仕切りになっている襖を開けた途端に目に入った光景だった。半身仰向けになっているサンバアがムーサンを見てニヤッと笑った。サンジイはサンバアのズボンに差し入れていた手を慌てて出した。

「何しよん」

 とムーサンが訊くと、

「別に」

 とサンバアは平然と答えた。サンジイは黙っている。

「変なことしなさんなよ」

 と言ってムーサンは二人の前を通り過ぎた。その時はムーサンもショックを受けていてそれ以上は言えなかった。

 しかしこれが繰り返されるようになった。カーツンも現場を見た。襖を開けた途端に、サンバアのニヤッと笑う顔とサンジイの戸惑う顔が目に入った。それは日曜日だけではなく、二人がデイ-ケア、デイ-サービスから帰って、長椅子に座って夕食を待っている間にも行われるようになった。

 明らかにサンバアがサンジイを誘って、あるいは要求して行っているのだった。サンジイを促すサンバアの囁きをカーツンは聞いたし、ムーサンも聞いていた。

 これにはカーツンは衝撃を受けた。サンバアの生命力バイタリティーの猛烈さに驚いた。これは快楽追求におけるサンバアの新機軸だった。

 サンバアにとってサンジイは六十余年連れ添ったとは言え、愛しい存在とは言えない。と言うよりサンバアには自分以外に愛しい者はいないのだ。自分以外の者は誰でも多かれ少なかれ最終的には自分を苦しめ悩ませる存在でしかない。サンジイも例外ではなかった。長椅子に並んで座っている二人の間に会話はない。しかし二人の体は接触している。二人の洗濯物が長椅子の端に積まれて、座れるスペースを狭めている。洗濯物を箪笥に仕舞えばゆとりができるのだが、ムーサンが畳むまでをしてやってもサンバアは何もしない。洗濯物をそのままにしてその横に座るので、二人は押し合うような形で座っている。話すこともなくサンジイと体をくっつけて座っている面白くもない時間を、パッと簡単に快楽の時間に切り替える方法をサンバアは思いついたのだ。それはサンバアにとっては飲酒と同じ憂さ晴らしだった。

 しかし、ムーサンにはこれは我慢のならないことだった。

「あんたたち、いい加減にしい。こんなとこでようそんなことするわ」

「何がね」

「何がねって、口では恥ずかしくて言えんようなことや」

「なぁーんもしとらんよ」

 サンバアは惚ける。

「今、父ちゃんが慌てて手を引っこめたやないか。あの手は何をしよったんかね」

 ムーサンはいきり立つ。そう言われてサンバアはニヤッと笑い、

「いいやないかね。夫婦なんやから。いらん世話よ」

 と開き直った。

「こんなとこでしなさんな。ここはあんたたちの部屋やないよ。するんなら部屋でしておくれ。気分が悪い」

「父ちゃんがしたいんやけ、どうするか」

「うそ言い。あんたがいつも誘いよるやないか」

「仲がいいのに嫉妬しよるんか。あんたたちもすりゃいい」

 これには聞いているカーツンも驚き、腹が立った。

「あんたたちはちょっとおかしいね。よその年寄りはこんなことはせんよ」

 ムーサンの声に嘆きが加わる。

「大きな声だしなさんな。周りに聞こえるが」

 これはサンバアがよく使う牽制の言葉だ。

「大きな声を出させるようなことをあんたがしよるんやろう! 」

「何か、この子は、偉そうに。親を馬鹿にして。父ちゃん、何か言いなさい。この子は親を馬鹿にしよるよ」

 これもサンバアがよく用いる対ムーサン牽制言葉だ。

「あんたが母ちゃんたちを大声で怒りまわすというのはこの辺では皆知っとる」

 サンバアは毒づく。ムーサンは一息吸って怒りを抑え、

「ほんなら訊いてみようか、近所の人に。うちの親は人前でこんなことをしますが、私が怒るのはおかしいでしょうかと。村井のおばちゃんに訊いてみようか」

 と言い返した。村井のおばちゃんは近所に住む寡婦で、サンバアより十歳ほど年下だが、数十年前から旅行、買物をサンバアと一緒にする遊び友達だ。家にもよくきてサンバアと話しこんでいた。サンバアが脳梗塞で倒れてからは少し足が遠のいていた。

「みっちゃんにそんなことを言ったら腹立てるよ、刺激されて」

 とサンバアは応じた。村井のおばちゃんは三十代で夫と死別した。その後はずっと独り身で過ごしてきた。だから欲求不満を刺激されると言うのだ。

「そんなことをよく言うね。恥ずかしくないかね、本当に」

 ムーサンも呆れたという声音だ。今度はサンバアが熱り立つ。

「何、親を馬鹿にするか。親を馬鹿にするから罰を受けて子供もできまいが」

 この言葉はムーサンの胸を突き刺す。カーツン夫婦に子供ができないことを詰ったのだ。それを言うか、とカーツンは思い、身内をカッと怒りが走った。

 脳梗塞以来、サンバアの食欲は亢進している。食べることへの意欲、執着が昂まっている。実際食べる量は変らないのだが。「腹減った、腹減った」とよく口にするようになった。食卓でサンバアとカーツンは向き合って座る。夕食の献立が焼肉やすき焼などの場合、二人は電熱プレートを挟んで向き合うことになる。サンバアの目が肉を凝視している。カーツンの箸が肉を摘むとサンバアの目が光る。サンバアも負けじと肉を取る。サンバアの肉を取るテンポが速い。うかうかしていると無くなるのではないかとカーツンも焦りを覚える。

「母ちゃん、ちょっと待ち。あんた取り過ぎるよ。父ちゃんもカツミさんも私も、まだ二切れしか食べてないんよ」

 ムーサンが肉に伸びるサンバアの箸を抑える。カツミとはカーツンの名前だ。

「そうかね」

 とサンバアは言って箸を引っこめる。しかしそれも一時だ。

 ソーメンの時もそうだ。カーツンは麺類が好きだ。夏季の休日の昼食はカーツンのリクエストでソーメンになることが多い。ソーメンを盛ったボウルがカーツンとサンバアの間に置かれる。カーツンとムーサンとサンバアが交互に麺を箸で摘み上げてつけ汁の小鉢に入れる。サンジイは麺があまり好きではないので別メニューだ。三人の麺を摘む回数が重なるにつれ、サンバアの目がボウルに残る麺に据わり出す。カーツンは正面のサンバアの眼力に押されて麺が取りにくくなる。〈クソッ、負けるか。俺のリクエストだ〉とカーツンは箸を伸ばす。麺が無くなるまでバトルは続く。

 一つの器から食物を取り合う形になる場合、カーツンはサンバアと向き合って座るのが厭わしい。何となく張り合う雰囲気になるのが苦痛だ。サンバアはいわゆる「餓鬼がついた」状態になっているとカーツンは考えている。脳梗塞は欲望に対する抑制力を減退させたようだ。サンバアは食欲と性欲を憚らず表に出すようになったのだ。

 しかし金銭欲は減退した。お金についてはあまり口にしなくなった。脳梗塞で倒れる前までは家計をめぐってムーサンとよく対立していた。日常の買物や支払いはムーサンがしているので、通帳や印鑑は全てムーサンが保管している。自分たちの年金や貯金を不当に使いこんでいるのではないかとサンバアは疑い、ムーサンと口論になるのだが、ある時、「あんたたちの勝手にはさせん」と言って、ムーサンが渡した通帳と実印、そして現金三十万円を隠してしまった。「何もおかしなことはしてないから確かめり。これからはあんたが支払いをしなさい」とムーサンが渡した通帳、実印、現金だった。脳梗塞を起した後、その隠し場所を忘れてしまい、実印が未だ見つからないのだ。

 脳梗塞後、サンバアは概して穏やかになった。朝、ムーサンが服を出して着替えの指示をする時、「あんたが言ってくれんと、私はどんな格好をしたらいいかわからん。メーファーズ」と言うようになった。帽子や持ち物などいちいちムーサンに訊ね、指示を求めた。「私ゃあなたの言う通り、山のカラスの鳴く通り、往還通りは人通り」という唄も出た。またある日はムーサンが毎日作る食事を前にして「有難いこっちゃ」と言った。「有難い」はサンジイの専売特許で、サンバアはそれまで口にすることはなかった。サンバアの態度や物言いの軟化はカーツンにとって有難いことだった。サンバアのきつい性格とどぎつい悪罵に、カーツンはカッとして怒声を上げたことが何度かあった。そして後味の悪い思いをするのだった。サンバアと衝突せずにすむことは彼にとって精神的な平安を保つ上で大きな意味があった。


 サンジイは静かだった。他者を批判したり、自分の気持を口にすることは殆どなかった。しかしその割にはムーサンやサンバアとよく悶着を起した。

 朝、サンジイは部屋から車椅子を自分で動かして出てくる。その時、食卓にいるムーサンやカーツンに「おはよう」と声をかけるのが普通だ。もっとも平日であればカーツンは既に出勤していて居ないことが多い。食卓に着いたサンジイは「今日は何日か」と問う。サンジイの前には大体いつも新聞が置いてあり、ムーサンが「新聞を見なさい」と応ずる。サンジイは朝刊の一面を見て日にちを確認する。しかし五六分も経つとまた「今日は何日か」と問う。ムーサンは煩わしいので日めくりカレンダーを買ってきた。サンジイに捲らせてその日が何日か確認させるのだ。しかしそれでもサンジイはまた問うのだ。それが一悶着となる。

 サンジイが繰り返し問うことは多い。自分の年齢もそうだが近所の知人の生死確認もその一つだ。

はたは死んだか」

 とサンジイはサンバアに訊く。

「知らん。私に訊きなさんな。私はここに居らんのやから。知るわけないやろ」

 サンバアは表情に苛立ちを見せて答える。この答え方が最近固定してきた。「ここに居らん」というのは日中デイ-サービスに行っていて留守という意味だ。サンジイが訊ねる近所の知人の名前は決まっている。秦、丸山、森野、松下、それにサカッチャンだ。サンジイは一人一人訊ねる。これがほぼ毎日繰り返される。ムーサンも辟易している。

こう先生以外は皆死んどるよ。あんたがこの辺りでは一番長生きや」

 ムーサンが一まとめにして答える。しかしこの答えも何度も繰り返された答だ。神先生は元中学校教師で九十四歳。まだ自転車に乗って動き回っている。「死ぬのを忘れとる」と揶揄する人もいる。

 ムーサンはサンジイが訊ねる人の名とそれらの人が既に死んでいることを書き記した紙を、サンジイが見える位置に貼り付けたことがある。サンジイより高齢で生存しているのは神先生だけだと書き添えて。サンジイが訊いてくるとその貼り紙を読ませていたのだが、貼った場所が天袋の扉だったので、開閉するうちに剥がれてしまった。

 サカッチャンは「さかし」という名で、サンジイと同年齢の隣人だ。二、三年前に亡くなった。サカッチャンの名が出てくるとサンバアが決って語る話があった。

「サカッチャンはエラそうにしとった。こっちが挨拶しても挨拶を返さんのやけ。妹に訊いたよ。あんたの兄さん、何でああなのって。そしたら、バカやけ、ご免ね、て謝りよったよ、妹が。熊大出たっち言ってそれがなんがんあるか。エラそうに。ここら辺の人とまともに話をせんかったからね。美原よしばるもんはバカばっかりと言いよったらしい。熊大出て学校の先生しよったち何がエラいか。北原の息子は九大出とるが」

 この話をサンバアは繰り返すのだ。サンバアはサカッチャンに少し気があったのではないかとカーツンは思っている。というのは「こっちが挨拶しても挨拶を返さん」の後に、「こっちは別に嫁にもらってもらおうとか思ってないのに」と何度か言ったことがあったから。相手にされなかった悔しさがこの話に感じられるのだ。

 デイ-ケアの職員がサンジイを迎えに来るのが九時三十分過ぎ。サンジイは七時過ぎには食卓に着くので、二時間余り時間がある。その間に朝食も摂るのだが、食事が終り、サンバアがデイ-サービスの迎えが来て出てしまうと、ムーサンとサンジイの二人になる。サンジイは卓上の自分の前にある新聞やチラシの類を繰り返し手にする。あるいは例の鏡を取り上げ自分の顔に見入る。剃る必要もないような薄いひげを電気カミソリで剃ったりもする。サンジイはなかなかのお洒落だ。ムーサンの助力もあるが今も身嗜みはきちんとしている。サンジイの部屋には彼用の鏡台がある。彼は衣裳持ちだ。靴もたくさん持っていて靴墨、ブラシも備えている。現役時代は毎日ダブルの背広を着て、髪にはポマードをつけ、ピカピカの靴で出勤したものだ。今もカーツンのジャケットやシャツを見て「それ、いいね」と関心を示す。赤が好みの色だ。

 サンジイはムーサンに質問する。

「今日は何曜日か」

「さっきから何回訊くね。日捲りを見なさい」

 サンジイは日捲りを見る。

「今日は木曜日か」

 とまたムーサンに訊く。

「そうよ。書いてある通りやから訊きなさんな」

「木曜日か。デイ-ケアあるな」

 ムーサンは答えない。これも繰り返された質問だ。

「デイ-ケアあるんやろ」

 サンジイは答を求める。すぐ忘れてしまう答なのだが。

「あるよ。何回言うかね」

 ムーサンは仕方なく答える。サンジイは黙り、また新聞やチラシを触り、鏡を取り上げて自分の顔を見る。二、三分が経つ。

「今日は何曜日か。デイ-ケア休みか」

 サンジイの質問攻撃がまた始まる。デイ-ケアの迎えが来るまでそれは続く。サンバアが出てからサンジイの迎えが来るまでの三十分ほどが、ムーサンにとってサンジイの質問攻撃に耐える苦痛な時間となる。サンジイはデイ-ケアに通い始めて三年を過ぎたのに、まだそのスケジュールを解さない質問を繰り返すのだ。

 カーツンはサンジイが質問を繰り返すのはサンジイなりの話題の提供なのではないかと思うことがある。食卓では元々寡黙な人だった。サンバアと二人の時はしゃべりまくるサンバアの専ら聞き役だ。話題に乏しいサンジイが思いつく話題が「今日は何日か」「俺は何歳になったか」「○○は生きとるか」などではないか。繰り返されるのは他の話題が思い浮かばないからだ。相手が質問に答えると、サンジイはそれに「そうか」と応じる。その答えにちょっと驚いたようなニュアンスを含む「そうか」だ。これで相手との会話は一応成立したことになる。カーツンには質問の繰り返しにサンジイの相手への配意が感じられて、単なるボケによるものとは思えなかった。

 サンジイがファイトを燃やすのは「整理」だ。「整理」とはゴミが落ちているとか、不要な電燈が点いているとか、新聞入れに新聞が溢れているとか、襖やドアがきちんと閉まっていないとかいうことだ。あるいは庭に草が茂っているとか、枯葉や枯れ枝が散乱しているとかいうことだ。サンジイはこれらを目にすると目付きを鋭くし、指さしたり舌打ちし、声に出してその是正を求める。その語気や態度には猶予を許さぬ迫力がある。自分が嚊んだ鼻紙を屑籠に投げたがうまく入らず外に落ちると、サンジイは椅子ごと動いて鼻紙に近づき、体を屈めて拾い上げようとする。サンジイには骨の折れる動作だが、そこにはこれは何としても成し遂げねばという気迫が籠っている。

 このサンジイの整理癖が悶着の種となる。ムーサンが植えていた花をサンジイが引き抜いてしまったことがある。その数日前からサンジイは「あんな草が稲屋の横に生えとるんは見っともない。抜いてしまえ」と文句を言っていた。「あれは草やない。私が植えとる花なんよ。何も見っともないことはないよ」とムーサンは答えていた。ところがある日、その花が全て引き抜かれていた。サンジイがしたことが分った。毎日のデイ-ケアの行き帰りに目にする「花」がサンジイには我慢ならなかったのだろう。ムーサンは呆れるとともに腹を立てた。カーツンも驚いた。いつも車椅子で動いている人にどのようにしてそれができたのか不可解だった。杖をついて物に伝わりながら外に出て、引き抜いたようだ。大した体力だとカーツンは舌を巻いた。そういえばサンジイが食卓から部屋に戻る際、車椅子が側にない時に、椅子から立ち上がり、杖をついて箪笥などに手をかけながら、歩いて部屋に戻るのを一、二度目にしたことがあった。サンジイの体力はそれだけの回復を示していた。

 同一質問の繰り返しで悩ませられている上に、どこそこの整理が悪いと言われると、

「何もせんで座っとって、人のすることをじっと見ていて何のかのと世話を焼く」

 というサンバアの怒りになるし、

「いらんことを言いなさんな。こっちは考えてしよんやから、あんたは黙っとき」

 というムーサンの苛立ちともなるのだった。

 サンバアが脳梗塞で倒れて入院していた時、サンジイは「ばあさんはどうした? 入院? どうあるか? 脳梗塞? いかんなあ。いつ退院する? 」という問いかけを一日に十回ほども発していた。ムーサンは答えるのが面倒なので、「母ちゃんは脳梗塞で○○病院に入院しています。一月十五日前後に退院する予定です。日曜日に見舞いに行きます」と書いた紙を食卓に置いていた。見舞いのことを書いたのはサンジイが「見舞いに行かないけんな。いつ行くか」を繰り返すからだ。

 サンジイは見舞いに行ってもそのことをすぐに忘れた。見舞いを終えて病院を出て、昼食をとろうとレストランに入り、席に座って、

「父ちゃん、見舞いに行けてよかったね」

 とムーサンがサンジイに声をかけると、

「そうか」

 とサンジイは応じた。

「そうかって、母ちゃんに会ったやろ、さっき」

 とムーサンは戸惑う。カーツンも驚く。

「覚えてないの? 」

「覚えてない」

 サンジイは答える。カーツンは本当か、と思う。いくらボケたと言っても一時間も経たないことを忘れてしまうだろうか。しかし、見舞いに行くたびにこれは繰り返された。サンジイを見舞いに連れて行くために車椅子を車に積み、病院に着けば車椅子を下ろしてサンジイを乗せ、病室まで押して行くカーツン夫妻にとっては何とも甲斐のないことだった。その癖、「ばあさんはどうした? 」「見舞いに行かないけんな」というサンジイの言葉は繰り返されるのだ。

 サンバアの見舞いに行った日の夕食時のこと。例によってサンジイは覚えていない。

「あんた、母ちゃんと話をしよったやないね。しっかりし」

 ムーサンの叱声にサンジイは力無く笑う。テレビでは天気予報が流れており、「明日は積雪が積りそうです」と女性のアナウンサーがコメントした。

「今の言葉おかしいね」

 とムーサンが言うと、サンジイがすかさず、

「積雪が積るはおかしい」

 と苦い顔をしてポツリと言った。エッとカーツンは驚いた。数時間前の事さえ忘れている人が何とシャープな反応を示すではないか。本当にサンジイはボケているのかとカーツンは訝しむ。カーツンが接し始めた六十代の頃からサンジイには自己韜晦の傾向があった。自分の意志や感情をはっきり示さないのだ。確かにボケもあるだろうが、惚けたような受け答えにはこの韜晦が幾分なりとも含まれているとカーツンは推測していた。


 サンジイは自分の年を訊いて、九十一歳と言われると、

「ほう。長生きしたな」

 と驚いたように言う。

「母ちゃん、長生きしたな」

 とサンバアに声をかけて、返事がないと、

「もう死なないかんな。迷惑かくる」

 と続ける。それでも返事がないと、

「な、そうやろ」

 とサンバアに訊ねる。

「誰も迷惑とか言っとらん」

 とサンバアは煩そうに答える。

「そうか。迷惑やないか。迷惑やろ」

 と畳みかける。

「ポクッと即死すりゃいいんやけどな」

 と更に言う。

「あんたが死んだら年金がストップするけ、困るよ」

 とサンバアが言う。これはこういう場合のサンバアのお決りの言葉だ。

「年金? 関係あるか」

 サンジイは苦い顔で否定する。この迷惑問答も三日に一回は繰り返される。

 サンジイはサンバアが自分を厄介に思い、介護を嫌悪していることを知っている。その嘆きが口に出ることもある。

「ああ、お前と結婚して一生の不作やった。激しいばっかりで何の情味もない女やった」

 サンジイがこのように心情を吐露するのは珍しいことなので、一層その嘆きの痛切さが伝わる。

「そりゃあこっちも同じよ。私も不幸な人生やった」

 とサンバアも負けてはいない。

 サンジイは時折、みぞおちの辺りを上下にこすりながら、仰向いてぐったりとした表情をすることがある。心臓が苦しいと言うのだ。しかし顔色はいい。ムーサンが「どうあるかね」と声をかける。サンジイは目を剝いて天井を見上げる。

「こりゃいけんね。救急車呼ぼうか」

 とムーサンが言う。サンジイは苦しそうに天井を見ながら、「いい、いい」と言って手を振る。サンバアが笑いながら、

「父ちゃん、あんた死によるかね」

 と声をかける。ムーサンが血圧計を出してサンジイの血圧を計る。下が八七、上が一三七で問題はない。

「千両役者」

 とサンバアが言う。サンジイには傍からはパフォーマンス(演技)ではないかと思われる行為が時々ある。しかし、サンジイの顔色が白くなり、血圧が上も百を切るようになると危険信号だ。その場合は救急車を呼ぶ。過去に二、三回救急車を呼んだことがある。しかしこの二年余り、そんな事態は起きていない。ムーサンが機転を利かせて近隣の人々の消息を語り出す。するとサンジイが苦痛を忘れたようにその話題に食いついた。その話で会話をしている間にサンジイの状態は平常に復した。

「ポクッと即死すりゃいいんやがな」

 とサンジイがまた言う。

「父ちゃん。あんたはなしてそんなことばっかり言うんね。そんなこと言われて誰が喜ぶんね」

 ムーサンが咎める。

「迷惑かくる。迷惑やろ、いつまでも生きとったら」

 サンジイはムーサンの表情を読もうとする。

「いい加減にし。そんなこと毎日訊かれてどう答えるね」

 ムーサンは怒る。

「だからあんたは好かんのよ。死にたいとか言って、死にそうな恰好しながら、庭に私が植えた花を引き抜く元気はあるんやけね。どんなふうにして抜いたんか知らんけど、日頃は支えてもらわんと歩けんような恰好しながら」

 サンジイはムーサンの怒りに遇って黙る。

「死んでどうすっか、父ちゃん。死んだら負けよ」

 サンバアがサンジイに発破をかける。

「死んで花実が咲くものか。負けてたまるか」

 その言葉通り、食欲も性欲も全開にしてサンバアは生きる意欲に満ちている。


 食卓に居る時は一人でしゃべり捲る感のあるサンバアだが、その話題のほとんどは人の悪口だ。舅、姑、親戚、近所の人々(その多くが既に死んでいる)が棚卸しされる。いかにそれらの人々が愚かであり、性根が悪く、自分がそのためにどれだけ苦しめられたかをサンバアは倦まず繰り返し語るのだ。何十年も前のサンバアが壮年の頃の思い出だ。

「母ちゃん、もう止めり。あんたの話は人の悪口ばっかりやないね。そんな話は聞きたくない。気分が悪くなる」

 ムーサンはサンバアの口を封じようとするが殆ど効果はない。サンバアの棚卸しの対象にはサンジイも含まれている。

「毎晩毎晩飲んで帰ってきて。畑とか家のなかのことでして欲しいことがたくさんあるのに、いつまで経っても帰ってこん。こっちが疲れて寝とったら、酔っ払って帰ってきて、人を起す。殺してやろうかと思ったよ」

「鍵かけて寝とったら、外でサチエ、サチエと呼びよる。こっちも頭にきとるけ開けてやらんよ。そしたら前の家のおいさんが、ケンゾウさん、声が小さいよ、もっと大きな声で呼ばな聞こえんよ、と言いよった」

 前の家とは玄関の前にある家の意で、道路脇に並列している隣家を指す。ケンゾウはサンジイの名だ。サンジイが働き盛りの頃の行状で、サンジイとしては会社の同僚や部下との付き合いで仕方なかったと言い訳したいところだ。しかし数十年経った今もサンバアは許さない。自分が受けた苦しみはサンバアにはいつまでも新鮮なので、自分を苦しめた相手はいくら罵っても飽き足りないのだ。この話が食卓で繰り返され、遂にサンジイが「すみません」と謝るのをカーツンは二、三度見聞した。

 サンバアがサンジイを誉めることもある。

「父ちゃんは何と言っても美原一の出世頭やけね。大尉になったのは父ちゃんだけやろ」

 サンジイは陸軍中尉だったが、ポツダム宣言受諾後、大尉に昇進した。

「美原で将校になったのは誰がおるね」

 サンバアが訊くと、

「サカッチャンがおる」

 とサンジイが答えた。

「サカッチャンは何やった? 」

「中尉」

「父ちゃんの方が上や」

「中尉と言っても技術将校だから部下は居らん」

 サンジイはいつもの注釈を付ける。

「ほんなら大したことはないやん」

「うん」

 サンジイは満足そうに微笑む。

「馬に乗って帰って錦を飾ったのは父ちゃんだけやろ」

 サンバアは更にサンジイを讃える。

「父ちゃん、あんた生きとかないけんよ。あんたが生きとかんと家に重みがなくなる。あんたがおってこそこの家の秩序が保たれるんやけ」

 しかし二人の蜜月ムードは長くは続かない。十分後にはサンバアの怒声がサンジイに飛ぶ。

「いらんことを言いなさんな。自分のこともできんもんが、人の世話焼きどころか。小言がこたえんちゃ」

 吐き捨てるような語気だ。サンジイが洗濯物を整理するよう言ったことにサンバアが反発したのだ。

 相戦う龍虎。サンバアとサンジイとの関係をカーツンはこう捉えていた。二人の戦いは今後どうなるのか。どちらが生き長らえるのか。両者共に米寿の齢で事故と病気に見舞われた。受けたダメージは同程度と思われる。カーツンが現役最後の一年を送り、ワラシが終焉を迎えたその生活の同じ舞台で、第四コーナーを回った二人のデッドヒートも展開されているのだ。

 ある日、カーツンが散歩に出るためにカティアとツムジにリードを着けていると、サンバアはその様子を見て、「犬は二匹やったかね」と問うた。ムーサンが「三匹いたやないね。ワラシは死んだんよ」と答えると、「ワラシ。あの犬はおとなしい犬やったね。死んだのかね。かわいそうに」とサンバアは涙ぐんだ。この問答は同じ状況で何度かくり返され、その度にサンバアは涙ぐんだ。


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