第7話

 放課後に課外授業や下校指導、会議などが入ると、カーツンの帰宅時間は八時近くになった。その時刻になるとカティアとツムジの食餌はムーサンが作ってくれている。帰宅したカーツンはそれを鍋から食器に移し分けて、与えればよい。ワラシの食餌は遅く帰った時もカーツンが用意する。

 ワラシには十月頃までは動物病院で買った缶詰の肉をスプーンで取って口に入れてやることが多かった。近頃は市販のペットフードや、ツムジとカティアの食餌を作る際にできる煮汁の残りを与えることが多くなった。市販のペットフードは笹身のそぼろに緑黄色野菜を混ぜ、コラーゲンやグルコサミンを配合したレトルト食品で、粥状になっていた。カーツンとムーサンはそれを「トロトロ」と呼んでいた。咀嚼力のなくなったワラシには液状の食べ物を与える他はなかった。

 カーツンはワラシを抱え、背中の方に反り曲ったワラシの頭頸部が皿の上にくるように調節する。食べ物に鼻が近づくと、ワラシは嗅覚でそれと判じて舌を動かし始める。ワラシの視覚は殆ど失われていると思われた。ピチャピチャと舌で液体を飲む。それが現在のワラシの摂食行為だった。「トロトロ」だと水分を飲んでしまうと、そぼろなどの固形物の塊が残る。それを口中に取り込む力がワラシの舌には既になかった。塊をただ舐めるだけになる。スプーンで取って口の中に入れてやる。ワラシはすぐ呑みこむ。煮汁の場合は固形物がないだけ手間がかからない。カボチャとゴーヤ、ブロッコリーなどの野菜に鶏の胸肉を煮込んだ汁はワラシの好物でよく飲んだ。汁がすっかりなくなってしまうと、カーツンはワラシの寿命がその分伸びたように思えて嬉しかった。

 ワラシに食事をさせる際はサンジイの卓上鏡が役に立った。サンジイの生年と現在の年齢を書いた紙を裏側に貼り付けた鏡だ。その鏡でワラシの顔と皿を見ながらカーツンは食事をさせた。ワラシを胸に抱えているカーツンはワラシの頭を見下ろすことになり、その下にある皿とワラシの顔との距離や角度がよく掴めない。それでムーサンから、「舌が届いてないよ」とか「顔が汁に浸かりよるよ」とか言われることになった。鏡によってワラシの顔と皿の位置関係をつかむことができた。

 サンジイがワラシの食事の様子を見て、「この犬は相当に年をとっているね」とか、「もう長くないね」とか言うことがあった。サンジイとサンバアは午後七時までには夕食を終え、部屋に引きあげていることが多かったが、カーツンが平常時刻に帰宅した場合は、ワラシの食事の時にもまだ食卓に居ることもあるのだった。サンジイの言葉に〈あなたよりも先に逝くことになるね〉とカーツンは胸の中で応じながら、サンジイの六分の一も生きないワラシの寿命の短さを果無むのだった。

 ワラシの目は傷ついていた。発見したのはムーサンだった。ワラシの瞳の表面に孔があると言う。病院に連れて行くと角膜が傷ついていると言われた。ドライアイになっているので、乾燥を防ぐために目蓋を閉じ合せた方がいいと言われ、ワラシの上下の目蓋は接着剤で接合された。わずかしか開いていないワラシの両目を見て、鬱陶しいことだろうとカーツンはワラシの苦痛を思いやった。角膜の孔は自分が作ったとムーサンは自分を責めた。ワラシはいつも同じ姿勢で横たわっているので、同じ側ばかりが下にならないようにムーサンが時折り体の向きを変えていた。その時、硬直した頭部が床に接する位置や角度が変って、目を敷物に擦りつけてしまった。ムーサンは、「ワラちゃん、ごめんね。気がつかんでごめんね」と詫び続けるのだった。

 後脚は伸びきったまま硬直し、首も尻尾の方に湾曲して硬直し、殆ど塞がれた両目。ワラシの全身をカーツンは眺め、惨憺たるものだと悲しんだ。

 ワラシの両目の接着はその後除去された。ドライアイが一定の改善を見せたこともあったが、鬱陶しい思いをこれ以上ワラシにさせたくないというカーツン夫婦の思いがあった。白内障が進行しているワラシにはドライアイが治癒しても視力の回復にはさして意味はなかった。目を塞がれたワラシを見たくないという思いもあった。

 師走に入った。いろいろと事の多かった二学期も十七日に終業式を迎えた。冬期の課外授業が二十八日まで組まれていたが、カーツンには午後からの一コマが割り当てられていた。

 十九日の朝、カーツンはワラシを敷物ごと助手席に乗せ、車で三十分ほどかかる動物病院に連れて行った。前日、紙オムツを取り替えると、オムツに血が付いていた。大腸の腫瘍が大きくなって、そこから出血したのかなとカーツンは思った。いよいよ終りが近いのかと気持が暗くなった。午後から課外授業があるので病院から早く戻る必要があった。それで早めに出発した。

 診療開始時刻より三十分早く病院に着いた。一番乗りだった。早く着けば早く診察してくれるという妙な思い込みがカーツンにはあったが、もちろんそんな対応はなく、車の中で待たねばならなかった。診療開始時刻の数分前に薄い顎髭を生やした若い獣医が入口から出てきて、車の中のカーツンに入るよう合図をした。

 出血の原因は肛門周縁の傷だった。血の色が黒ずんでなかったので、体内からではないかもとカーツンも思ってはいたが、一先ず安心した。

 二十四日の朝、カーツンはまたワラシを敷物ごと助手席に乗せ、動物病院に運んだ。今度は口からの出血だった。診察台に載せて体重を量ると二・八キロに落ちていた。獣医は口の中を調べ、「ここに傷があるから、ここから出血したんでしょうね」と言った。「どこですか」とカーツンは覗きこんだが、よく見えなかった。

「年は越せそうですか」

 とカーツンは獣医に訊いた。

「どうでしょうかね。口の中も白くなってきているし、体重も二キロ台になりましたからね」

 獣医は首を捻ってそう言った。

「でも、よく頑張ってますよ。八月に来た時が四・五キロでしたからね。あれから四ヶ月ですからね」

 薄い顎髭を生やした若い獣医は骨と皮ばかりになったワラシの体を見ながら言った。

 年の瀬まで一週間、それさえワラシには越えられない時間なのかとカーツンは思った。カーツンはワラシには二十歳まで生きていて欲しかった。しかし、後脚の衰えが始まった時、それが叶わぬ望みであることを知った。今年に入ってワラシは見る見るうちに衰弱していった。せめて来年の五月十五日、十五歳の誕生日は迎えて欲しいとカーツンは望みを修正した。その時には彼は退職している。退職後、ワラシを連れてあちらこちらを旅して廻るという夢は破れたが、十五歳という年齢には達して欲しかった。しかしそれも叶わぬようだった。ならばせめて年は越して欲しかった。

 カーツンは病院から戻ると、その日も課外授業のために出勤した。課外授業を終えると、数日前から着手している第四回校内実力テストの問題作成の仕事があった。評論・小説・古文・漢文・古文単語の五分野の大問からなる解答時間一二○分の問題だ。その作成、印刷、袋詰めまで一人でしなければならない。年明けの始業式早々に実施される試験なので、課外最終日の二十八日までには完成して問題保管棚に納めておかなければ、正月を安らかに迎えられなかった。共学部に所属する国語科の教員は四人いたが、年四回実施される校内実力テストの問題作成を一人一回ずつ担当することになっていた。カーツンが最終回の担当だった。その日に予定していた作業の進度までをやり終えると、平常の下校時刻よりも学校を出るのが遅くなってしまった。

 帰宅したカーツンはカティアとツムジの食餌を作り、二匹に食べさせた。その後、ワラシのために煮汁を皿に取り、その汁のなかに茹でたカボチャの二、三片を入れ、すり潰した。さらにワラシの好物のニンジンを擂り、それを汁に混ぜた。そうしてカーツンはボックスに横たわっているワラシを抱えあげた。すると、首がグラリと垂れた。体にも力がなかった。皿の上に顔を近づけたが、もう飲む力はないことが分った。カーツンはせめて今朝病院からもらってきた薬だけでも飲ませようと思った。ムーサンに錠剤を取り出してもらい、口を開かせようと唇のそばを撫ぜた。その刺激でワラシはパクパクと力なく口を開閉した。舌の色が真っ白になっていた。「口の中が白くなっている」という獣医の言葉を思い出し、カーツンは胸を突かれた。口の中に錠剤を入れようとするがうまくいかない。すると、「口から血が出ている」とムーサンが言った。口中ばかり見ていたカーツンは驚いて唇の周囲を見た。赤く染まっている。またか、と彼は思った。このために今朝病院に行ったのだ。と、支えている臀部の方からも血が垂れていることに気がついた。食事どころではなかった。カーツンはこの時初めて〈ワラシがもう死ぬ〉と意識した。

 カーツンはワラシをボックスの中に横たえた。そして、「この子はもう終りだよ」と力なくムーサンに言った。二人はワラシを覗きこんだ。呼吸を確かめようとした。胸と腹に動きは見られなかった。じっと見つめていると腹の産毛が痙攣したように見えた。心臓は止まっているとムーサンが言った。午後九時だった。今日逝ってしまうとは、とカーツンは茫然とした。「年は越せそうですか」と獣医に訊いたのは今朝だった。二人は言葉もなくワラシを眺めた。背骨が浮き出るほどワラシは痩せ衰えていた。ムーサンは涙を零していたが、カーツンは涙が出なかった。しかし悲しみは衝撃のようにカーツンを打っていた。彼はそれに耐えるように体を固くしていた。

 新しい白い掛布団を畳んだ上にワラシを横たえた。顔だけ出して、ワラシの体の上にこれまで使っていた小さな毛布をかけた。ムーサンが仏壇の前から線香立てを持ってきて、ワラシの顔の側に置いた。

 ワラシが死んでしまった―カーツンの頭の中でその言葉が繰り返し鳴っていた。嘘だろうと反応する思いがある。あまりにあっけないではないか。年を越すどころじゃないではないか。早すぎるではないか。涙がようやく滲んできた。

「あっけなかったな」

 カーツンはムーサンに言った。

「苦しまなかったね」

 とムーサンは泣きながら言った。

「ああ、それはそうだな」

 とカーツンは頷いた。

「眠るようだった。大往生だ」

 カーツンは涙に咽んで言った。そう言えることはせめてもの慰めだった。

「今夜は今からお通夜だな」

 カーツンはそう言ってこれから葬儀まで続く重い時間を思った。


 その晩は夫婦の寝床の間にワラシの褥を置いて過ごした。ワラシは二人の枕の間に顔を俯けて横たわっていた。その横顔は眠っているようだった。

「ここにワラシは来たかったんだよな」

 とカーツンは言った。ワラシの寝場所は十年近く夫婦の蒲団から離れていた。蒲団の上はツムジとカティアのテリトリーだった。子犬を産むまではワラシの天下だった。寝床に横になると、ワラシは毎晩カーツン、あるいはムーサンの顔を舐めにきた。長い時は二十分近く舐め続けた。集中的に舐められる小鼻脇がヒリヒリと痛くなることもあった。ワラシは満足すると蒲団の上の好きな場所で夫婦と一緒に眠るのだった。ツムジがワラシを追い払った。ワラシは夫婦の顔の近くで眠ることなど思いもよらなくなった。

「ワラシをもっと伸び伸びと生きさせてやりたかったな。俺が子供を産ませたばっかりに」

 と言ってカーツンは言葉に詰った。

「言いなさんな。ワラちゃんは幸せだったと思うよ。子供に囲まれて、皆に可愛がられて」

 とムーサンが応じた。

「この子は本当にいい子だったね。困らせることがなかったもの。助けてくれるばっかりで」

 そう言ってムーサンは声を詰らせた。

「最後に介護の苦労をさせたけど、それもね、私を悲しませないためだったように思えるんよ。この何ヶ月かこの子の世話をしたお陰で、してやれることはしてやったような気持で送れるもの。―私はワラちゃんが死んだらどうなるやろうかと思いよった。ペットロスになって、何にもする気がなくなるんじゃないかって」

「そうだな。俺たちもよく頑張ってきたよ。獣医もそんなこと言いよった」

 カーツンはそう応じた。確かにこの四ヶ月は大変な日々だった。そのワラシの介護から解放されるという思いは喜びではなく虚脱感をもたらすだけだった。

「今日亡くなったのも、明日が休みやから、あんたに休みを取らさんですむやろ。最後まで困らせん子や」

 その日はクリスマス-イブの土曜日だった。

「そうやな」

 カーツンは頷いた。二人は目を瞬いた。クリスマス-イブにワラシは逝ったのだとカーツンは思った。覚えやすい日だと思った。

「お母さん亡くなったよ、カティア」

 とムーサンが声をかけた。ツムジとカティアは寝床から離れて座っていた。横になっていないのはやはりいつもとは違う緊張を覚えているのか。

「カティアがね、ワラシが亡くなる前に、ずっとワラシの顔を覗きこむようにしていたのよ。ボックスの前に座ってね。予感でもあったんやろうか」

「へぇー、俺が食事させようと抱え上げる前か」

「そう」

「ふーん。お別れしよったんかな」

 カーツンがそう言うと、

「カティア、あんたお別れしたんかね」

 とムーサンは言って涙を流した。

「初めて散歩させたのは夏の暑い日差しの下だったな。生後三ヶ月を過ぎるまでは散歩に出してはいけないと言われて、ようやく三ヶ月が過ぎて、散歩に出たんだ。八月下旬の陽の下をワラシはよく歩いたよ。あの湯川の交差点の歩道橋がある所まで」

 この家に引っ越してくる前の、K市でのアパート暮し時代の思い出だった。

「かわいそうに。あなたは無理させるから」

 とムーサンは応じた。

「しかし、ワラシは負けん気は強かったよ。俺が手袋をつけて格闘したときも、やればやるほどワラシは燃えてきたからな」

 それは職場から帰宅したカーツンがほぼ毎日ワラシを相手に行っていた遊びだった。カーツンが軍手をつけると、それが戦闘開始の合図で、ワラシはウーと唸りながら手袋に突進してくる。それを押し返したり、跳ねのけたりする。ワラシはひっくり返ったり、一回転したりしたが、怯まず倦まず突進してきた。

「ワラシは隠れんぼも好きやったよ。私がタンスの陰やドアの後ろに隠れると、一生懸命捜しよったよ」

「あれは交配の直前だったか直後だったか、総合運動公園に朝の散歩に行って、ワラシが颯爽と歩く姿を見ながら、これが見納めになるんじゃないかと、とても切ない気持になったことがあったな。無事に出産できなかったらどうなるんだ、ワラシが死ぬようなことになったら、と突然恐くなってね」

「あの時の写真あるよね。ワラシが赤と白のチェックの服を着た」

 ムーサンが言った。

「G工大のグラウンドではよく走ったね。三匹とも全力疾走したな、あのグラウンドに入ると」

 それはサッカー場のような広大な長方形のグラウンドだった。犬を走らせるためにカーツン夫婦も息を切らして走ったものだ。

「あの頃は休みの日は総合運動公園とかG工大とかよく行ってたね」

 二人の脳裡にはその時々のワラシの愛しい姿が浮かぶのだった。そのワラシが居なくなってしまったことが取り返しのつかないことに思われるのだった。そうなのにどうしようもないこととして今は諦めなければならないことが二人に涙を流させるのだった。

 夜中にカーツンは目覚めた。重い時間の流れのなかにいる自分をカーツンは感じていた。カーツンの顔の横にはワラシが居るのだった。カーツンは横を向いた。暗闇のなかで何も見えない。しかしそこにワラシが横たわっていることをカーツンははっきり感じた。昨夜までは足の下の方にいたワラシが、今は命を失って。


 明け方、目覚めたカーツンは、そのまま顔を横に向けてワラシの横顔を見た。薄明の中に、俯いているワラシの、額から鼻にかけての馴染み深い愛らしいカーブが目に入った。眠っているようだった。カーツンは手を伸ばしてワラシの頭に触れた。懼れていた冷たさが少し感じられたようで、カーツンは悲しみとともにすぐ手を引っこめた。

 ワラシを褥ごと抱えあげ、カーツンは階下へ下りた。仏壇の前に安置した。毛布から出ているワラシの顔は生きている時と変らないようだった。しかし、もう十時間以上動きががないのだから死んでいるのに間違いはなかった。

 ムーサンが紙オムツを外し、ワラシの全身を温かい濡れタオルで拭いた。下腹部に十円玉くらいの薄黒いリングが浮き出ていた。内部にその形で腫瘍が広がっているのではとカーツンは痛々しく思った。開いている目を閉ざそうとしたがうまくいかなかった。敷物が真新しいものに換えられ、ワラシはその上に横たえられた。見収めだとカーツンは思った。彼は肉が落ちて骨格が露になり、頭頸部が尻尾の方に屈曲しているワラシの全身を最後の姿としてカメラに収めた。仏壇に花を飾り灯明を灯した。二人は線香を上げ、合掌した。

 電話で連絡しておいた松岡のおじさんがネロを連れてお別れに来た。松岡さんは「ワラシ、逝ってしまったか」と言って、ワラシの顔をしばらく眺めた。そして、「ほら、ネロ、お母ちゃんだぞ」とネロを抱えてワラシの顔に近づけた。ネロはワラシのにおいを嗅ぐように鼻を近づけた。

 松岡のおじさんが帰ると、中井夫婦がマックを連れてお別れに来た。奥さんが造花の小さな花籠を供物として差し出した。彼女はワラシの顔を見て涙を流した。マックは落着かず周囲をうろうろと動いた。

 愛動園という動物霊園に連絡を取り、ワラシの火葬は午後一時半から行われることになった。ムーサンは花屋に供花を注文した。

 ゆるやかに時が流れていた。虚脱感がそんな感覚をもたらすのかもしれなかった。悲しみとともに重荷を下ろしたような安堵感のようなものが確かにあった。しかし悲しみに抑え込まれて解放感にまで至ることはない。結局、虚脱感と表すほかにない感慨のなかにカーツンはいた。今日が休日であることがカーツンには有難かった。余事にかまけることなくワラシの死を悲しみ悼むことができるのだ。ムーサンは「最後まで困らせん子」と言ったがその通りなのだ。それがまた彼にワラシを愛慕させ悲しませた。

 昼食の後、カーツン一家は愛動園に向け出発した。ムーサンが車を運転し、助手席にカティアとツムジを置いた。カーツンは後部座席に座った。傍らにはワラシが横たわっていた。

 愛動園は生後ひと月で死んだワラシの子を火葬にした施設だった。それから十一年を経てワラシの火葬の時を迎えたのだ。

 祭壇の前にワラシの遺体は置かれ、紺色の作務衣を着た施設の職員によって読経が行われた。焼香が終ると納棺となる。一メートル程の長さの段ボールの白い棺に敷物とともにワラシを入れる。そして棺の中を花で満たす。カーツンとムーサン、それに職員の三人が供花の花冠を手折って次々と棺に入れる。ワラシが赤、黄、ピンク、紫などの花びらに埋もれていく。ワラシ特有の絹の光沢を放つ金色の頭毛が花びらの間で輝いている。その顔にカメラを近づけ、ムーサンが写真を撮る。そしてカティアを抱き上げ、

「カティア、ワラちゃんとお別れだよ」

 棺に近づけるとカティアは覗きこむように首を伸ばした。じっとワラシを見つめる。その人間の子を思わせる仕草がカーツンとムーサンに新たな涙を流させる。

「ツムちゃんもお母さんとお別れしなさい」

 ムーサンは今度はツムジを抱いて棺に近づける。ツムジは棺の方に顔を向けない。ムーサンが更にワラシに近づけると抗うように顔を背ける。カーツンは奇異の感に打たれた。ツムジは自分がワラシを苦しめたことを自覚しているのか。だからワラシの顔を見れないのか。犬にもそんな心があるのか。

 ワラシの棺は炉の扉の前に置かれた。この子を今から焼く。この子の姿はこの世から無くなる。カーツンは無性に切なくなる。熱いだろうな。焼かれるワラシの苦痛を思う。もちろん死んだワラシは苦痛を感じない。そう思うとふとワラシは本当に死んでいるのかという不安が起き、カーツンは動揺した。獣医に死亡をきちんと確認してもらう必要があったのではないか。いや、有り得ない。彼は不安を打ち消す。絶命の時刻から既に十七時間が経過している。十分だろう。

 これがワラシを見る最後だ。カーツンは棺に歩み寄り、棺の中のワラシをもう一度見た。棺は炉の中に入れられ、カーツンとムーサンが合掌するなか、点火ボタンが押された。


 長い階段を上って入った待合室はかなり広い部屋で、中央にはソファとテーブルが置かれていた。テーブルの上には菓子や飴の入った漆器が置かれ、コーヒーや日本茶を飲む用意が整っていた。

 カーツンはコーヒーを飲みながら窓の外に目をやった。小春日和と言うのか、うららかな天候の日だった。彼は景色を見ようと立ち上がり、窓から外を見回した。郊外ののんびりした田園風景が広がっていた。十メートルほど先に煙突があり、さほど大きくない筒先から薄く煙が出ていた。ワラシの煙なのだろうとカーツンは思った。また涙が滲んだ。

 部屋の四囲の壁には額装された写真が飾られていた。天然記念物に指定された近在するカルスト台地の風景写真だった。カーツンはいくつかを見て回った。

 テーブルの端には大学ノートが数冊重ねて置かれていた。カーツンは手に取って捲って見た。愛犬や愛猫を荼毘に付した飼い主たちが書き残した文章が並んでいた。今のカーツンたちと同じく、骨になるのを待つ間の思いを記したものだ。動物に愛称で呼びかけ、感謝を表し、冥福を祈ったものが多い。動物との思い出を綴ったものもある。動物のスケッチを添えたものもある。読んでいくと動物たちが家族の一員としていかに愛されていたかが伝わってくる。

 カーツンもペンを取って書くことにした。ワラシは喜びをくれるばかりで、飼い主を困らせたことのない犬だった。飼い主の思いを理解する聡い犬で、飼い主が望んでいるように成長してくれた。ワラシのような犬ならもう一度出会いたい。その時は子供など産ませず、ワラシ一匹だけと最後まで過ごしたい。カーツンはそんなことを記した。

 

 連絡があって、二人は階下の祭壇のある場所に行った。祭壇の前に置かれた鉄の床台にワラシの遺骨があった。横たわったワラシがそのまま骨になったように、頭骨から背骨、四肢、尾骨までが並んでいた。カーツンの目から涙が溢れ、ムーサンは嗚咽した。

「きれいなお骨が残りました。これだけ崩れずにきちんと残るというのも珍しいですよ。丈夫に育ったんですね」

 と職員が言った。毎日肉と野菜と穀物の入った手作り食を与えてきた。ワラシが成長する頃はもっと大きくなれ、もっと大きくなれと心の中で呼びかけていた。カーツンはそんなことを悲しく思い起した。丈夫に育ったのになぜもっと長生きしてくれなかったのだという嗟嘆が生まれた。

「これが喉仏です」

 と職員は言って二センチほどの小さな骨を示した。

「仏様が座っているような形をしているでしょう」

 と言った。犬にもこれがあるのかとカーツンは思った。

「歯もしっかり残ってますし、爪も残っています」

 職員は箸の先で示しながら言った。爪を見ると、それがワラシの太い足の毛の間から覗いていた様が思い出された。

 職員は二人に箸を渡して、足の方から骨壺に入れていくように指示した。二人は交互に骨を抓んだ。箸で抓んでも崩れない骨だった。尾骨は小さな先端まで残っていた。立派な骨だとカーツンは思った。

 頭骨も割れないで残っていた。見慣れていたワラシの額から鼻にかけての曲線をそのまま辿ることができた。

「大きい方の壺を選ばれていてよかったですね」

 と職員は言った。骨壺は二つのサイズから選ばされた。カーツンが大きいサイズを選んだのは容量と言うより壺を包む織物の色合いや柄が気に入ったからだったが、幸いだった。最後に頭骨を職員が持ち上げ、積み上げた骨の上に慎重に置いた。骨壺はほぼ一杯になった。

 帰りの車の後部座席にカーツンはワラシの骨壺を膝に載せて座っていた。来るときは生身で傍らに横たわっていたワラシは、今は骨となって骨壺に納まってしまった。一段階が終ったという感慨があった。骨壺が衝撃で傾いたりすると、一番上に載っているせっかくきれいに残った頭骨が崩れてしまう恐れがある。骨を現状のまま持ち帰ることが自分の責務と考えるカーツンは両手でしっかり骨壺を支えていた。


 その日の夕方、カティアは下痢を起し、血便を出した。そして吐いた。夫婦はカティアを絶食させた。ツムジには「トロトロ」を与えた。ツムジには異常はないのかと思っていたら、夜中の四時頃、ツムジがウロウロと部屋の中を動き回り、鳴き、騒いだ。カーツンはツムジを自分の蒲団に引き入れて宥めたが、しばらくは鎮まらなかった。

 翌日、ツムジは朝から下痢を起し、夕方には血便が出た。カティアの下痢も治まらなかった。ワラシの死を二匹は感受しているのだと夫婦は語り合い、感慨に沈んだ。

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