第6話

 11月に入って二週目の木曜日の放課後、カーツンの所属する共学部二年の学年会議が開かれた。議題は来年度のクラス編成について方針を決めることだった。特進クラスと進学クラスは二年時の成績と素行によって三年のクラス構成員の入れ替えを行う。その際、成績判定の資料とするテストとして何を用いるか、また扱い方をどうするかを話し合うのが主な内容だった。来年度はカーツンは退職して学校に居ない。だから彼には大して関心のない議題だった。しかしクラス員の入れ替えが行われるクラスの担任にとっては忽せにできない重大事であり、いろいろな意見が出された。

 カーツンはそれよりも二週間後に迫った期末考査が気になっていた。また二年のスポクラの試験監督を割り当てられるかもしれなかった。中間考査で中井の答案丸写し事件が起きた以上、今度こそは中井・宅見の不正行為を摘発しなければならない。しかし、どうすればいいのか。証拠が押えにくいカンニング行為をどう摘発するのか。カーツンは悩んでいた。彼は一時は試験監督割を作成する教員に、二年のスポクラの試験監督からは外してくれと申し出ようかとさえ思った。トラブルが発生する恐れがあるという理由で。しかしそれは教員としての無力を自ら表明することだと思って止まった。そして昨日、この問題を学年会議に出してみようというアイデアが浮かんだのだ。カーツンは予定された議題が終了するのを待っていた。その時が来れば発言しようと落着かない気持ちで時を過ごしていた。

 議題は全て終った。学年主任が「他に何か先生方で言っておきたいことはありませんか」と問いかけた。カーツンが口を開こうとすると、クラス担任の一人が、補足的に確認したいことがあると言って発言を始めた。その発言が終ると、二、三の教師がそれに対して発言した。カーツンはイリイリした気分で待った。ようやく議論が終った。カーツンの発言の機会が来た。カーツンは口を開いた。この学年会議での初めての発言だった。

「試験監督上の問題ですが、答案を横にずらして横の生徒に見せるような行為が見られるのですが、そういう場合はどう対応すればいいのでしょうか」

 カーツンの発言に教師たちは沈黙した。

「答案を自分の正面に戻せ、と注意しても従わない場合はカンニング行為と見なして処置してもいいのですかね」

 カーツンは続けて言った。

「それはちょっと難しいのじゃないですか」

 一人の教師が応じた。

「試験監督の指示に従わない場合はカンニングと見なすと前もって言っておいてもですか」

 カーツンは補足して訊ねた。

「そういう場合はやはり注意を繰り返さなければならないでしょう」

 別の教師が応じた。

「注意を繰り返しても改まらない場合はどうするんですか」

「四度でも五度でも私は注意しますよ」

 とその教師が言った。

「その生徒の試験を停止して、答案を取り上げるということはできないのですか」

 カーツンは自分がやろうと思っていることを口にした。

「それはまずいですよ。試験終了後、職員室に呼んで注意するというのが適切ではないですか」

 三人目の教師が発言した。その発言に二、三人の教師が頷いた。

「そうですか」

 カーツンも頷いた。そんな緩い対応でいいのか、と彼は思った。切羽詰った考え方をしていたなと思った。

 カーツンの問題提起に対する学年の教師たちの対応には真剣味があった。初めて所属した学年の馴染みの薄い教師たちが自分の問いかけにどんな反応を示すのかカーツンは不安だった。そんなことを訊ねるのかと鼻で笑うような対応をされるのではないかとカーツンは内心懼れていた。しかしそんな不快な思いをせずに済んでカーツンはほっとした。学年で起きた答案丸写し事件が教師たちの間に伝わっていたせいかもしれなかった。この話し合いでカーツンは中井・宅見に対する今後の対応に指針を与えられて気が楽になった。

 期末考査の監督割が発表されてみると、カーツンは二年スポクラの監督からは外れていた。中間・期末と連続しては割り当てないのかなとカーツンは思った。とりあえずは難を逃れたという思いがあった。しかし、今回外れたことで次の学年末考査で二年スポクラの試験監督となる確率は高まったと思った。学年の成績を確定させる最後の定期考査は、そこで何かが起これば取り返しがつかない。そう思うとカーツンはやれやれと溜息をつきたくなった。

 期末考査が始まると、毎朝の職員朝礼で配布されるその日の予定や伝達事項を記した「インフォメーション」に、「不正行為をしない」という注意の下に、答案を横にずらして隣の人に見えるような位置に置かないという注意も添えられた。答案丸写し事件や学年会議での自分の発言が反映されたのだとカーツンは思った。これがクラス担任によって毎朝のホームルームで生徒に伝達されると思うと彼は心強かった。

 試験の二日目、二年のスポクラでカンニングが摘発された。英語の試験の時間だった。挙げられたのは村岡だった。いつかカーツンに「土下座をしてください」と言って、「馬鹿! 」と一喝された生徒だ。柔道部員だった。カンニングペーパーを書き写しているところを見つかったのだ。カンニングペーパーという物証を押えられたので逃れようがなかった。村岡は規定通りの処分を受けた。当該教科は零点。一週間の停学謹慎。そして三年生になってから志望先の推薦入試は受けられなくなった。

 村岡の事件はクラスにインパクトを与えた。停学処分を受けたのは村岡が初めてだった。カンニングをすればこんな処分を受けるということを生徒たちは実地に見ることになった。特に推薦入試が受けられなくなるという処分は卒業後の進路に大きな制約を課すもので、生徒たちには重く受けとめられたようだった。

 謹慎を終えて教室に出てきた村岡は、反省の印として頭を丸坊主にしていた。そして悄然と席に座っていた。クラスの生徒たちは村岡を馬鹿なことをした奴という目で見ているようだった。

 二年スポクラの期末考査の平均点は55・6。平均点が欠点だった中間考査と比較すれば20点以上の上昇だった。カーツンの警告と生徒たち自身の危機意識がプラスに作用したようだった。欠点は四人に減った。しかし中間考査の点数と平均して二学期の成績を出すと、その平均は45・4に落ちた。欠点者は七名となった。

 カーツンは記録簿に記された二学期の成績で、欠点となっている者の点数をオレンジ色の蛍光ペンで塗った。そして同じ色で塗られている一学期の成績の欠点と見比べた。あと定期考査は学年末考査の一回しかない。その考査でこの連中がどれだけの点を取って成績を上昇させるかだと思い、吐息をついた。一学期、二学期ともに欠点という者が二人いた。納富と広井という生徒だ。広井は女生徒だった。欠点者中の横綱だとカーツンは思い、二人の体重を実際に背負ったような負担感を覚えた。何か手を打つ必要があった。進学クラスと共通問題にするのはもう限界かなと彼は思った。

 三年のスポクラにとっては学年末考査だった。五組の浦橋と六組の曽根がどんな点を取るかがカーツンにとってはもちろん最も気がかりなことだった。中間考査を寝過ごして受けなかった浦橋は今回が欠点を解消し追試を免れる最後の機会だった。何しろ三年になって受けた定期考査はこれまで全て欠点なのだ。今回は浦橋も最後まで気を抜かなかったようで、結果は93点だった。カーツンはほっとした。この点を基に不受験だった中間考査の見込み点を出すと86点。この二つを平均して二学期の成績は90点という好成績になった。不受験が却ってよかったのかもしれなかった。一学期の成績は15点という低さだったが、学年を平均すれば欠点にはならず、追試を免れることが確定した。

 問題は今回は曾根の方だった。23点しか取らなかった。何を考えているんだとカーツンは思った。無理をすることはなく、中間考査と同じくらいの点を取れば十分だったのだ。本人にもそう言っておいた。それが却って油断をさせることになったのか。本人に訊くと、「頑張れなかった」と言って細い目をさらに細めてニヤリと笑った。その言葉は〈頑張る気になれなかった〉とカーツンの耳には聞こえた。カーツンは絶句した。危機感は少しもないのだ。計算してみると平常点10点の内8点を与えればギリギリ欠点を脱する点数だった。しかし曾根はノートの提出状況が悪く、カーツンが定めた基準では8点はやれなかった。それで彼は未提出の分を全て出すよう曾根に指示した。曾根が指示通りにノートを出せば十点を与えることができた。しかし期限までに曾根が出したのは一部だった。少し甘いなと思ったがカーツンはそれで八点をやることにした。

 こうしてカーツンは何とか追試受験者を出さずに三年スポクラにサヨナラできることになった。

 学年末考査終了後、二学期の終業式まで二週間ほどの期間があった。三年スポクラは週四時限の授業だから、授業時数にしてクラス毎では八時間ほどが残されていた。カーツンは教材を教科書から問題集に切り替えた。三年スポクラの生徒は古文の副教材として問題集を買わされていた。学校が買わせている以上、使わないわけにはいかない。カーツンは教科書の一教材が終り、考査までに次の一教材を終えるには授業時数が不足している場合や、学期末の残余時限の消化に問題集を用いることにしていた。

 学年末考査後は生徒の学習意欲はさらに減退した。居眠りと騒がしさはエスカレートした。それはスポクラだけの現象ではなく進学クラスでも表れていることだった。教科担当はこの期間の授業の消化にいつも苦労するのだ。

 六組の生徒が授業中カーツンに、「先生、図書室に行かないんですか」と訊いてきた。「何のことだ」と問い返すと、「現代文の授業は毎時間図書室に行ってますよ」と言う。なるほどな、とカーツンは思った。現代文の授業は二学期に入ってから教科書を離れて、言葉の決まりや漢字の書き取り、格言・ことわざ・四字熟語・難読語などの学習をプリントを使ってやっていると聞いていた。教科書に載っている評論や小説を読解する授業はスポクラには無理と判断したようだ。定期考査の問題もその内容になっていた。試験に出るということが辛うじて生徒の学習意欲をつなぎとめていたのではないか。学年末考査が終ればその動機もなくなる。これまで通りの授業は困難と判断した担当教師は生徒を図書室に入れ、好きな本を読ませることにしたのだ。それも残った授業時数を消化する一つの方法だった。既に問題集の授業に入っていたので、今手をつけている問題を解き終えたらカーツンも図書室を利用しようと思った。六組は結局四時限ほどを図書室でつぶした。

 五組は森元などが海賊映画のDVDを見たいと言ってきた。カーツンは二時限ぐらいなら見てもよいと応じた。予定の日に教室に行くと、森元はDVDは持ってきていたが、それをテレビ画面に映し出すディスクプレイヤーの用意がないことがわかった。教室のテレビに付属しているのはVHSに対応したものだった。森元はカーツンが用意すると思っていたようだ。「そんなことは知らん」とカーツンが言うと、何々先生がプレーヤーを持っているとカーツンの知らない講師の名前を言い、借りてきてくれと頼むのだった。カーツンはお前が借りてこいと応じて取り合わなかった。それでその日は授業をすることになり、問題集の次の問題に進んだ。いったん問題を解き始めると、その問題が終るまでは図書室には行けない。五組も図書室に入れようとカーツンは考えていたが、問題集の区切りや図書室が使える時日の折り合いがうまくつかず、また森元たちもプレーヤーを借りてこなかったので、五組は結局最後まで問題集を解く授業を続けることになった。

「今日が最後の授業だ」

 とカーツンが言うと、森元が教壇に上がってきて、

「先生、お疲れ様でした」

 と畏まった仕草で頭を下げ、

「肩を揉みましょう」

 と言ってカーツンの肩に手を掛けた。儀礼の形はできているなとカーツンは思い、

「ああ、ありがとう」

 と応じて肩を預けた。揉まれながら、

「お前、推薦で早稲田に入ったと言ったな」

 と声をかけた。実は森元からそう言われてカーツンは驚き、担任に確かめてみた。担任の三宅は首を捻りながら、「そんなことはないですが」と答えた。俺は早稲田合格がウソだったことを知っていると森元に面白く伝えたいとカーツンは思ったが、うまい伝え方が思い浮かばない。騙された形のままで終るのも一興かもしれないとカーツンは思い直した。それで声をかけたのだ。森元は返事をしなかった。

「しっかり頑張れよ。いい大学に入ったんだからな」

 カーツンとしては皮肉を利かせたつもりだった。すると、

「俺にはもの足りない大学だけどね」

 と森元は応じた。この野郎、とカーツンは思いながら笑った。森元は肩から手を離し、

「先生、俺の名前、読めんかったね」

 と言った。

「ああ」

 とカーツンは肯じた。「武肥」は何と読むのか。

「いさみつ」

 と森元はカーツンに告げた。

「えっ」

 とカーツンは驚いた。そんな読みがあるのか。カーツンの驚きを森元は満足気な笑みを浮かべて見て、教壇を下りた。国語の教師としては一本やられたなという思いがカーツンに残った。

 カーツンは常に意識していたし、それへの対処も反芻されていたが、豊田があれから授業中の教室に現れることは遂になかった。あの時の失敗が彼には痛かったのだろうとカーツンは推測した。


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