第5話
中間考査が済んで四、五日経った頃、空いている三時限目に、三年男子部の学年主任の豊田がカーツンの座席にやってきた。
「ちょっといいですか」
と豊田は言って、空いているカーツンの隣の席に座った。戦闘開始だな、とカーツンは気持を引き締めた。
「先生、三年六組の授業なんですが、もう少しどうにかなりませんか」
初めて学年主任になって自信をつけてきたことが窺われる横柄な口調だった。予想通りの言葉に、
「と言いますと」
とカーツンは身構えた。
「いや、寝ている生徒もたくさんいますし、話をしている生徒も多いようですが」
「私としては精一杯やっているんで、あれ以上はできませんね」
「そうですか。精一杯ですか」
豊田はそう言って皮肉な笑いを漏らした。三年スポクラの生徒の状況がどんなものか、お前も知っているだろうとカーツンは思った。豊田も五組と六組にそれぞれ週二時限ずつ授業に行っていた。
「私としてはできるだけの事はしているつもりです。学年としてそれでは困ると言うのであれば、担当を変えてもらうしかないな」
カーツンは自分を毎年三年のスポクラに配置する教科主任への反発を気持のなかで再生しながら言った。もちろん年度途中での担当の変更などできないことは分っていた。
「担任に相談したらどうですか。担任の協力を求めたら」
豊田の言葉にカーツンは六組の担任の顔を思い浮かべた。二年スポクラの担任の大島と同様に彼が話をしようという気の起きない教員だった。その教師に助力を請うようなことは絶対にしたくなかった。
「その必要はないですよ。僕は別に現状で困っているわけではないんだから。僕の方から担任に何かを求めることはない」
「あの授業の状況で困らないんですか」
豊田はまた皮肉な笑いを漏らした。カーツンは怒りを抑えて、
「あれが生徒の実状じゃないですか。それに向き合って一歩一歩変えていく他はないでしょう」
あの生徒たちに俺はこの四月から接したのだが、お前たちは入学時から二年半も関わってきたのだろう。その「教育」の成果があの生徒たちの現状ではないか。学年主任としてそのことに責任は感じないのかとカーツンは思った。
「一歩一歩変えていくって、先生はどんなことをしてるんですか」
と豊田が訊いてきた。カーツンはこの男に言っても解るまいと思ったが、
「学習意欲を喚起するためにいろいろな話をしたり、問いかけをしたりしますよ」
と答えた。豊田は埒が明かないという顔つきをした。
「それで変るんですか」
「そうする他はないでしょう。時間がかかりますよ」
生徒を変えていくのに生徒との対話や交流の他に何があるのかとカーツンは思った。
「それじゃあ授業は変りませんよ。それでよしとするなら給料泥棒ですよ」
と豊田は言った。やはり言ったなとカーツンは思った。自分が無能無益と見なす教員を豊田が「給料泥棒」という言葉を使って批判することをカーツンは聞き知っていた。豊田はそのレッテルを貼ることでその教員の排除を図るのだ。
「あんたはそれが言いたいんだろうが、あんたとは考えが違うからね」
カーツンは自分を抑えて、自分より二十も年下の豊田の青臭い鼻息を笑うような気持で言った。
「別にそれが言いたいわけじゃないですが」
豊田は少し鼻白んだ表情をしたが、
「今の状況のままでは困るんですよ」
と言った。
「私は精一杯やっているんで、それで困ると言うのであれば、そちらの方で授業の見廻りに来るとか、担任が何かするとか、それはしてもらって結構ですよ」
とカーツンは応じた。すると豊田は、
「校長と話してみましょうか」
と言った。問題を大きくするぞという威嚇をカーツンはその言葉に感じた。
「ああ、いいですよ」
とカーツンは受けて立った。
二人は起ちあがって校長室へ向った。職員室の出入口近くに偶然校長が居た。
「校長先生、ちょっとお話したいことがあるのですが」
と豊田が声をかけた。
「何」
と言って校長は豊田とカーツンを見た。そして、
「ああ、いいですよ」
と応じた。校長は職員室を出てすぐ脇にある応接室に二人を導いた。
机を挟んで校長が肘掛け椅子に座り、二人が長椅子に座った。
「三年のスポクラの授業なんですが、江崎先生が担当してるんですが、ちょっと問題があるようなのでご相談したいんです」
豊田が切り出した。江崎はカーツンの姓だ。
「問題というと」
校長が問い返した。
「授業中に居眠りをする生徒や、話をする生徒が多いように思われるんです。私も一度授業を見させてもらったんですが」
豊田が答えると、
「先生はスポクラに行ってるの」
と校長は驚いたようにカーツンに訊ねた。
「はい」
カーツンは諾した。
「それは大変だね。なかなか勉強しないでしょう」
校長の理解ある言葉にカーツンも思わず笑みを見せて、
「ええ、苦労してます」
と応じた。スポクラのような手のかかるクラスに、定年を目前にしている自分のようなロートルが教えに行っていることに校長も驚いているのかなとカーツンは思った。
「何しろ学習意欲が希薄ですから。勉強に向う気持が本当にありませんね」
カーツンは実感をこめて言った。その言葉にこの学年のこれまでの生徒指導への批判もこめていた。
いきなり始まった校長とカーツンの会話に豊田は出鼻を挫かれて沈黙した。
「先生は教科は何ですか」
校長が訊ねた。
「国語です」
「国語ですか。大事な教科だ。生徒の反応はよくないですか」
「興味はないようですね」
「スポーツだけやっとけばいいと思っているからね」
「そうなんです」
わが意を得たりというようにカーツンは頷いた。さすが校長だという思いがした。
「だからね、先生。生徒たちに語ってくださいよ、国語の大切さを」
校長がカーツンの顔を正面から見つめて言った。
「ああ、それはもう毎時間話をしているのですが」
確かにそれはカーツンが力を入れていることだった。
「国語は教科の一つというより、日本人にとっては生きていく上で必須の力だ。入試科目にあるとかないとか目先のことばかり考えるな、というようなことを話すのですが」
「うん」
と校長は頷いた。
「しかし、生徒にはなかなか伝わりませんね」
カーツンがそう言うと、
「江崎先生もご苦労されているとは思うんですが」
と沈黙していた豊田が口を挟んだ。
「先生だけの力では限界があると思うんですよ。現状を見るとですね。私としては担任とも連絡を取って授業を改善していく必要があると思うんです」
豊田は校長を見ながらそう言った。
「僕としては精一杯やっているんで。確かに苦労はしてますが、どうしようもなくて困っているというわけではないんです。私も三年のスポクラはこの五、六年毎年担当していて、やり方はそれなりに分っています。だから担任に助力を求める気持はありません」
カーツンも校長に向って話す形になった。
「しかし、学年としてはあの授業の状況では困るんです」
「だから、学年の方でそう考えるのだったら、何らかの手を打ってもらっていいですよ、と言ってるんですよ。私の方から担任にどうこう言っていくことはない」
二人は校長の前で言い合う形になった。校長は二人のやり取りを黙って聞いていた。
「私は私のやり方で三年のスポクラの授業をしてきたし、これまでこれという問題もなく卒業させてきました。学年からこんなことを言われるのは初めてですよ」
カーツンは憤慨の気持を語気に込めた。
「いや、先生に問題があると言ってるわけではないんですが」
豊田は校長の顔を見て言った。こいつ、言い方を変えてきたな、とカーツンは思った。
「スポクラの担任は誰かね」
と校長が豊田に訊ねた。
「芦田先生です」
豊田は六組の担任の名前を答えた。
「あなたから芦田さんに話してみたらどうかね」
と校長は言った。カーツンは校長の言葉に頷いた。
「大体、あなた、私に言ってくる前に担任に話をしましたか。何で私にだけ言ってくるんですか」
とカーツンは豊田に言った。彼は校長の発言で言いたいことが言いやすくなっていた。
「江崎先生も一生懸命やっているんだが、担任からも授業をしっかり受けるように注意をしてくれ、とあなたから言ったらいい」
と校長は豊田が芦田に話す言葉まで踏み込んで言った。
「はい」
と豊田は頷いた。しかしその表情には話の展開が予期したこととは違っているという戸惑いが表れていた。
「後、半年ですかね、スポクラの授業は」
校長がカーツンに訊ねた。
「いや、三学期は授業がありませんから、実質、後二ヶ月ですね」
とカーツンは答えた。
「そうですか。残りはあまりないね。ご苦労ですがよろしくお願いします」
と校長は言った。
「はい」
と答えてカーツンは頭を下げた。それで話は終った形になった。豊田は何か言いたそうに校長を見たが、言葉は出なかった。仕方ないというように、
「それでは失礼します」
と豊田は言って起ちあがった。そして、あなたは起たないのかというように隣のカーツンを見下ろした。カーツンは座ったまま動かなかった。豊田は訝しい表情をしたが、ドアを開けて出て行った。
「どうもありがとうございました」
カーツンは校長に礼を言った。そのために残っていたのだ。校長のお陰で助かったという思いがカーツンにはあった。校長は笑って、
「先生はこの学校に勤めて何年になるんかね」
と尋ねた。
「二十一年目です。今年が最後です」
「最後というと、定年? 」
「はい」
「それは、それは。最後まで苦労するね」
と校長は言って破顔した。
この校長は三年前に就任した。いくつかの中学校の校長を歴任して、退職後の再就職だった。高校に勤めたことはなかった。理事長とコネがあり、市内の中学校の校長たちに顔が利くので生徒募集に役立つということで就任を要請されたようだ。教員になる前は国鉄に勤めていたらしいが、苦労人の面影があった。
応接室を出て、職員室に戻り、カーツンは自席に座った。豊田の急襲を何とか撃退できたという安堵感があった。豊田の意図は、まともに授業もできない無能教師としてカーツンをやり込め、学年主任である自分や担任に助力を乞う姿を他の教員たちの前に現出させることにあったと思われた。ところが管理職として当然自分の側につくだろうと思った校長がカーツンの側に立ったのが誤算だった。カーツンと校長の意外な連携に豊田は驚いたに違いない。カーツンを残して応接室を出て行く時の豊田の怪訝な表情には、カーツンの逆襲を、つまり、自分が出て行った後、カーツンが校長に自分の悪口を語り始めるのではないかと懸念する思いが覗いていた。カーツンはそう感じた。
カーツンにとっても校長が自分寄りの発言をしてくれたのは意外だった。カーツンと校長との間に特別なつながりはなかった。二学期が始まった頃、カーツンが同人誌に発表した小説についての批評が、新聞のローカルページの文芸時評欄に載った。校長がそれを見つけてカーツンの席まで新聞を持ってきて、履歴書に貼るサイズの顔写真を指して「これは先生だろう」と言った。カーツンは当惑しながら肯った。校長が見つけるとは予想外だった。顔写真を頭に入れてなかった。校長との間に何かあったと言えばそれくらいだった。
豊田はまだ職員室に居り、入試広報担当の教頭と話を交していた。第三学年は男子部・女子部のそれぞれ最後となる生徒が在籍している学年で、その職員室は二階にあり、豊田は二階から共学部の職員室がある一階に下りてきているのだ。用事は終ったはずなのに二階に戻らず、職員室上座にある教頭席の側に立って教頭と話を交しているのだ。その教頭は今年度の入試受験者数の増大の功績によって教頭に昇格して間もなかった。まだ若く、カーツンより十歳以上年下だった。昇格者同士の話は合うようだった。豊田は話を交しながら時折睥睨するように職員の席を見回した。それは負け惜しみのようにカーツンには思えた。すごすごと二階に引き上げたのでは学年主任の面目が保てないのだ。それで意味あり気に教頭と話を交しているのだ。見回す豊田の視界に自分も入っていることを意識しながら、カーツンは構わず昼食を摂ることにした。
弁当を食べながら豊田とのやり取りを反芻していると、「給料泥棒」という言葉がやはり腹立たしく思い浮かんだ。あんな言葉を聞き捨てにしていいのかとカーツンは思った。カーツンの身内が熱くなった。豊田はまだあそこで教頭と話を交している。文句を言いに行こうかとカーツンは思った。〈あなたは訊き捨てならないことを言った。取り消して謝罪しろ〉という言葉が浮かんだ。カーツンの箸の動きが止まった。カーツンは豊田を見た。どうしようか。今行って言えば豊田は謝りそうな気がした。カーツンは切迫する気持に苦しくなった。豊田が「給料泥棒」という言葉を発した時の自分の対応を思い起した。「あなたはそれが言いたいのだろうが」とカーツンは応じたのだ。それはその言葉を拒否し、取り消しを求める対応ではなかった。むしろそんな言葉は問題にしないという対応だった。それが自分の対応であれば、今さら抗議して謝罪を求めるというのもチグハグな気がした。校長を交えて話をしていた時にこの事を言えばよかったとカーツンは悔いた。あの場で言えば、豊田をやり込め、謝罪させることが間違いなくできたのだ。迷ったあげく、カーツンは諦めた。〈馬鹿を相手にしても仕方がない〉と彼は自分に言い聞かせた。カーツンが聞き及んだ範囲でも豊田はいろいろな人に対してこの種の言葉を発していた。その報いはきっとあるだろうとカーツンは思った。これからも豊田とはスポクラの授業をめぐってやり合わなければならないかもしれなかった。その際にはこの言葉を問題にし、取り消しと謝罪を求め、応じなければ、話をすることはないと突っぱねてやろうとカーツンは心を決めた。
この出来事の後、カーツンが六組の授業に行くと、生徒たちは服装を正して、きちんとした姿勢で座っていた。校長の指示を受けて、豊田か担任から注意があったのだなとカーツンは思った。そしてこんな付焼刃はすぐ崩れると思った。それでも生徒たちはその一時限は態度を良くしていた。しかし次の授業からは元に戻った。
カーツンは豊田が授業を見に来ることをいつも意識に置いていた。そして彼が何か言ってくれば、「給料泥棒」という言葉を問題にしようという心組みを持続させていた。
それにしても豊田はなぜ五組を問題にしないのだろうとカーツンは思った。カーツンから見れば五組も六組と大差のないクラスの状況であり、授業の状況だった。そう言えば一学期に豊田が授業を見に来たのも六組だった。豊田と五組の担任の三宅との関係を考えてみると、同じ部活の顧問と副顧問だった。豊田が顧問で三宅が副だ。三宅はこの学校の卒業生で、在校中はその部活に所属し、顧問は当時も豊田だった。つまり二人は部活を通じて師弟の関係にあった。三宅は母校に教師として就職し、かつて自らが所属していた部活の副顧問となった。豊田を補佐する立場だ。しかも二人は担当教科が同じだった。教科においても豊田は三宅の目上だった。こうして二人は二重、三重の上下関係で結ばれていた。実際、三宅は豊田に逆らうことはなく、常に豊田の意向を受けて動いていた。学校では三宅は「豊田の子分」と目されていた。こう考えてくると、授業がうまく行われていないという告発を五組についてはしなかった豊田の心事も読めてくるのだ。そのクラスの授業の状況を問題にすれば、教科担当者だけでなく、クラス担任の責任も問われる。自分の配下の三宅に累を及ぼしたくない豊田は問題を六組に絞ったのだ。とすれば、豊田が言う授業の改善は口実で、目的はカーツンへの攻撃だったということになる。豊田の意図が純然たる授業の改善ならば五組も放っておけないはずだ。そう考えてカーツンはクソッと舌打ちした。
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