第4話

 カーツンは平日は午後5時20分が退勤時刻になっている。電車に乗って、一回乗り換え、家に着くのは6時半近くになる。その時刻にはカティアとツムジの散歩はムーサンが済ませている。食卓ではサンジイとサンバアの夕食が終りかけている。帰ってきたカーツンはツムジとカティアの食餌を作る。そして食べさせ、ワラシにも食事をさせる。それが終ってからカーツンとムーサンの夕食が始まる。その頃にはサンジイとサンバアは夕食を終え、寝室に入っている。

 夕食が終るとカーツン夫婦と犬3匹は二階の居室に上がる。犬は階段を上り下りしない。カーツンとムーサンが運び上げ、運び下ろす。勝手に階段を昇降しないように躾けたのだ。ワラシは1匹だけで抱かれて運ばれるが、カティアとツムジは両脇に抱えられて移動することが多い。犬にとっては1匹だけで抱えられる方が楽だろうが、人は一度で済まそうとして両脇に抱えることになる。

 夫婦の居室は十畳の部屋で、寝室を兼ねる。部屋には寝床が敷かれていることが多い。寝床の敷き上げはカーツンの仕事だ。朝は5時半に目覚まし時計が鳴り、カーツンはだいたいムーサンより早く起き、階下に降りていく。それからは出勤までのルーティーンな作業が続く。寝床を上げる機会も暇もない。寝床を上げるのは月に一、二度、天気の良い休日に蒲団を干す時くらいだ。

 ワラシの寝場所は夫婦の寝床の足の方にある。部屋の南端にあるアルミサッシのガラス戸の前だ。そこに長方形の化繊のカーペットが置いてある。その上に薄い蒲団を敷き、そこにワラシを横たえる。ワラシは置かれたままの姿勢で動かない。カティアとツムジは蒲団の上の適当な場所に座を占める。

 夫婦はこの部屋でテレビを見ながら寝るまでの時間を過ごす。夫婦にとって一日で最も寛ぐ時間だ。 

 だが、ワラシが鳴きだす。ワラシが鳴きだすと夫婦のどちらかが対応する。なぜ鳴くのか。先ず浮かぶのは運動の欲求。掛け蒲団を除け、敷き蒲団の上をワラシの胴体を支えて歩かせる。夏の頃はワラシを支えて4、5回クルクル回ると、カーツンは目が回って尻餅をついた。ムーサンが代ってさらに4、5回ワラシを回転させる。その頃にはまだそれだけの体力がワラシにあった。秋に入って左側の後脚が硬直してしまうと、この運動もうまくいかなくなった。

 食べ物への欲求も考えられる。ワラシの夕食の摂り方が思わしくなかった時は残した食物を二階に持ってきている。ワラシだけの特別メニューである茹でた牛肉、缶詰、笹身を茹でてむしったものなどだ。ワラシを抱えて口に食べ物をあてがう。ワラシがそれらの食物を食べてしまうと、夕食が進まなかった時に抱えこんだ胸の閊えが取り除かれたような安堵感と喜びをカーツン夫婦は覚えるのだった。

 水を欲している場合もある。そのために水を入れた器も用意している。オシメが濡れて気持が悪いので鳴いている時もある。替えのオシメも二、三枚用意している。

 最後に便だ。便が溜って気持が悪いのかもしれない。これは肛門の下を触ってみて判断する。

 こうして一日で一番寛げる時間も落着けない時間になった。

 ワラシが夜鳴きするようになったのは8月の下旬からだ。それは零時過ぎに始まることもあれば、1時過ぎの場合もある。夫婦が就眠して一、二時間経った頃だ。繰り返される鳴き声にカーツンは目覚める。足先でワラシが鳴いている。訴えるように鳴いている。かなり大きな声だ。室内は暗闇だ。手探りで枕許のリモコンを掴み、豆電球を点ける。ムーサンは鼾をかいている。起き上がってワラシの寝場所に寄る。薄明りの中で毛布から出たワラシの顔を見つめる。ワラシは身を震わせながら鳴いている。鳴くたびに口が開く。なぜ鳴くのか。カーツンは就寝前までの状況を思い起す。食べ物、水、オシメ、…。

 原因はいつも不明確だ。とりあえずあれこれやってみる他はない。先ず水を飲ませることにする。通常は小鉢として使われる陶碗に水を入れている。ワラシを抱え、その器を鼻先に近づける。水面を鼻面に近づけ、水だと分らせなければならない。それが分れば、そして飲みたければ、ワラシは舌を動かし始める。器の位置の調節が難しい。ワラシの頭の陰になり、また照明の暗さもあって水面の位置がよく見えない。あまり器を上げると鼻まで水に浸かってワラシが息を継げなくなる。下げ過ぎると舌が水面に届かず空回りしてしまう。この作業はカーツンよりムーサンがうまい。ピチャピチャと規則的に音を立ててワラシが水を飲み始めるとカーツンはホッとする。器の水が半分以上もなくなるようだと原因は水だったということになり、これで鳴きやむことが期待される。器を近づけても水を飲もうとしない場合がある。そうなると他の対応を考えなければならない。

 空腹なのか。カーツンはこんな時のために用意している長方形のプロセスチーズを取って、そのアルミ箔を剥がす。一片をちぎってワラシの鼻先に持っていく。口を開く場合と開かない場合と反応は二通り。口を開かない時でもチーズを口に押しつけるようにすると食べることもある。チーズを与える際には注意が必要だ。指を噛まれる恐れがある。もちろんワラシが意志的に噛むわけではない。チーズを口に差し入れるタイミングだ。ワラシはカブッと銜える。その勢いは元気な頃とさほど変らない。それに歯も健在で一本も欠けていない。間欠的にだがカーツンがワラシの激しい抵抗を排して、ガーゼで歯磨きを施してきた賜か。昼間の出来事だったが、カーツンはワラシにチーズをやっていて指を噛まれたことがある。指先を引くのが一瞬遅れて右手の中指の先を噛まれた。指の腹の皮膚が7ミリほど切れ血が出た。おかげで二週間あまりパソコンのキーボードを叩くのに支障を来した。

 オシメを換えてやって鳴き声が治まることもある。就寝前に換えたのに夜中にまた換えてやることもある。

 一番手間取るのは真夜中の便取りだ。これをするには階下へ降りて、ゴム手袋、モイスチャークリーム、ティッシュペーパー、ビニール袋などを持ってこなくてはならない。そして豆電球の明るさでは作業ができないので、電燈を平常の明るさにする。パッと明るくなる室内にムーサンや2匹の犬が目覚めるのではないかとカーツンは気遣う。便が予期通り取れた時には、緊張しただけに達成感と安堵を覚える。

 これらの作業のどれか一つでうまくいけばそれで終了だ。眠い時は一つを試みて、それがうまくいかなくても終了として横になることもある。しかし案の定、ワラシがまた鳴き始める。カーツンは俺はもうだめだと思う。明日があるのだと思う。ムーサン、起きてくれないかな、と思い、これだけ鳴いているのによく寝ていられるなと、狸寝入りを疑ったりする。しかしムーサンを起したりはしない。逆の場合もあるのだ。カーツンが寝入っている間にムーサンが起きて処置していることも。だから相手が自発的に起きるまで声をかけたりしないことがお互いの不文律になっていた。

 10月に入ってすぐの日曜日だった。二階に上がって間もなくワラシが鳴き始めた。カーツン夫婦は視聴したいテレビ番組があったのだが鳴き声で音が聞き取れない。これはもうだめだと諦める。夫婦は考えられる処置はすべてしたが、ワラシの吠え鳴く声は治まらない。原因はおそらく腫瘍がもたらす苦痛なのだろう。そう思うとワラシが痛ましく憐れだ。ムーサンが声をかけながら体を撫でてやる。少し治まったかと思うとまた鳴き始める。

 ワラシが鳴き騒いでおさまらない時に飲ませる頓服薬を病院から貰っていた。効力が落ちるし、副作用もあるので連続しては使わないようにと注意されていた。使用には慎重を要する薬だった。時刻は11時を過ぎていた。ワラシはもう二時間以上鳴き続けているし、これ以上この状態を続けるのはワラシを衰弱させるだけだと思われた。夫婦の就寝時刻も過ぎていた。頓服は飲んでから効くまで時間がかかることを考え合せて、夫婦は頓服の使用を決断した。

 ところが頓服が見当たらない。いつもは枕許にその紙袋が置いてあるのだが見当たらないのだ。今朝、飲酒に使ったコップやワラシの食べ物を入れた小皿などを盆に載せて階下に運んだ際、盆の上に頓服の紙袋もあったことをカーツンは思い起した。階下に降りて食卓の端に置いてある小さい籠の中を捜すが見つからない。その籠にはツムジに飲ませる皮膚炎の薬や夫婦の歯間ブラシなどの小物が入れてあり、頓服の紙袋を入れるならこの籠のはずだった。紛失した。カーツンは唇を噛んだ。二回目の紛失だった。己の迂闊さに彼は舌打ちした。あれこれやってもワラシが鳴きやまない時、最後には頓服があるという思いがどこかで夫婦を安心させていた。それがない。前回の紛失時はワラシの状況が比較的短時間で治まったので助かったが、今夜はどうなるか。カーツンの気持は暗くなる。

 寝床に横になって目を閉じても、ワラシの切ない鳴き声がカーツンの頭中で響く。するだけのことはしたのだ。もう寝ようと思う。明日からまた苦しい一週間が始まるのだと思う。しかしワラシの鳴き声が眠りに落ちようとする意識を引っ掛け、引き上げてしまう。ムーサンの鼾が聞こえてくる。大したもんだとカーツンは思う。

 ワラシは午前1時まで鳴き続けた。眠れないカーツンはそれまでに二度ほど起きて、ワラシに水をやったりオシメを換えたりした。ワラシの鳴き声が止んだ時、これで終りかとカーツンはほっとした。さあ、寝ようと思った。残された睡眠時間は4時間余りしかなかった。

 トロトロと眠ったカーツンがワラシの鳴き声で目覚めたのは午前2時半だった。絶望的な気分がカーツンを包んだ。明日は、いや、もう今日だが、スポクラの授業が三年、二年と三時限あるのだ。その戦いにこんな不利な状態で臨まねばならないことがカーツンを絶望的な気分にさせるのだ。少しでも眠らなければと彼は思う。しかしワラシは再び鳴いているのだ。

 何の音だろうか。外の闇からドーンというような、ガッシャーンというような、鋼鉄の大きな塊が上から落ちてきて何かを潰しているような音が耳に届く。それはワラシの鳴き声で眠れない夜が重なるなかで、幾度か耳にして馴染んできたとも言える音だ。そんな音を立てる工場が近くにあるのだろうか。だが昼間、家の背後に広がる田圃の向うを眺め回しても自動車工場があるだけなのだ。起きている間、そんな音が自動車工場から聞こえてくることはなかった。

 こんな状態では明日はもたない。カーツンは狂おしい気分になった。もうだめだ、俺は逃げるぞ、と彼は決意した。彼は階下の応接間で寝ることにしたのだ。〈悪いが逃げさせてもらう〉カーツンは心の中でムーサンとワラシに詫びて、毛布を持って階下へ降りた。応接間のソファは昼寝にはもってこいの寝床だった。こんな時にも役立つはずだ。

 ソファに横になると、天井からワラシの鳴き声が下りてくる。同じ部屋の中で聞くより

は弱められているが。〈後はムーサンに任せよう〉そう思ってカーツンは目を閉じた。〈最後はやはりムーサンが背負うことになるんだな〉という思いが浮かんだ。二、三日前もワラシは夜中に騒いだ。ムーサンは鎮まらないワラシを連れて階下に降り、キッチンの隣の部屋の畳の上で毛布一枚に包まってワラシに添寝したのだ。お陰でカーツンは静かな中で眠ることができたのだった。


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