第3話

 ムーサンはサンジイとサンバアの介護に追われている。サンジイは日曜日を除いて毎日デイ-ケアに通い、サンバアは月・水・金にデイ-サービスに通う日々だ。サンジイは9時半頃に迎えが来る。サンバアは8時40分頃だ。その時刻までにムーサンは二人を着替えさせ、持っていく荷物を調える。入浴後の着替えの下着、靴下、タオル、塵紙などを手提げ袋に詰める。サンジイの好きな飴玉なども入れてやる。迎えが来ればサンジイの体を支えて出口まで連れ出し、デイ-ケアの職員に助力して車椅子に乗せる。そしてサンジイが迎えの車に車椅子ごとリフトで運び込まれ、発車するまで見送る。サンバアはまだ自分一人で歩けるが、肩に手を添えて送り出し、これも発車を見送る。二人は午後4時半頃に相次いで帰ってくる。それを迎えるのも一仕事だ。サンジイの場合は待機していないと、車椅子を降りたサンジイを職員が支えて家の中に入ってくる。椅子に座らせるまでは支えが必要なのだ。家の中を他人に見られたくないこともあり、ムーサンは迎えの時も気を張った。

 二人がムーサンを悩ますことは多い。特にサンバアは大小便をしかぶる。脳梗塞で倒れるまでは全くなかったことだ。そのためサンバアは使い捨ての紙パンツを穿くようになっている。それでも蒲団や毛布をよく汚す。便が出ていても気がつかないことがある。

「あ、臭い。あんた、ウンコが付いとるよ、パンツに」

 とムーサンがサンバアに言う。

「そんなことないよ」

 とサンバアは否定する。

「脱いで見てみなさい。こんなに臭いよるのに。パンツに付いとるけ」

 とムーサンは苛立たしげに言い、早く紙パンツを穿き替えるように急かす。自分の失敗を認めないサンバアはそれでも、

「そんなことないよ」

 と否定する。サンバアを促して穿き替えさせるのも一苦労だ。

 サンバアは便意の知覚が遅い。知覚があって立ちあがっても、トイレに着くまでに出てしまう。これが朝、支度を終えてデイ-サービスの迎えを待っている時に起こると事だ。サンバアが、

「便所に行きたくなった」

 と言って立ち上がる。

「なしね。今頃。もう迎えが来るが。はよ行き、はよ」

 とムーサンが促す。実は十分も前からムーサンは、「トイレに行かんでもいいかね」とサンバアに注意をしていた。サンバアは「行きたくない」と言って動かないのだ。

「あんたは行きたくなった時は間に合わんのやから、トイレに行って座っとき」

 これまでの失敗の経験からムーサンはこんなことも言うのだが、サンバアは動かない。そして恐れていた通りのことが起こるのだ。

 トイレに立ったサンバアは5分経っても戻ってこない。トイレからは強烈な臭いが流れてくる。サンバアの大便の臭さはピカ一だ。バキュームカーの蠢くホースの傍らに立っているのと変らない。トイレの戸を閉めるように言っているのだが、今日も開けたまま用を足しているようだ。息を止めて、障子、襖を閉める。どうやらしかぶったようだ。何度も水を流す音が聞こえる。せっかく着替えたのにやり直しだ。

「お早うございます」

 と勝手口から声がして、迎えが来た。ムーサンは仕方がないので、次の人を先に迎えに行ってくれと頼む。それができない場合はムーサンが車を運転してサンバアをデイ-サービスまで送り届けることになる。

 サンバアは便座にきちんと座らない。中腰で用を足す。他人の尻が触れた部分は不潔だと思っているようだ。デイ-サービスのトイレでもそうらしい。そのため小便が外に飛び散ったり、便器に大便が付着したりする。掃除をするのはムーサンだ。

「ちゃんと座ってし。家族やないかね。何が汚いかね」

 とムーサンはサンバアに言い聞かせるが、改まらない。二年前にトイレを洋式に変えて以後、そんな座り方をしていたのだろう。サンバアは自分の生活スタイルを変えない人だ。

 カーツンは家の便所では小便の際も便座に座ってするようにムーサンに言われている。尿の飛び散りを防ぐためだ。しかしサンバアが使った後は便座に尿がこぼれていたり、それが乾いた跡があったりする。そんな時はクリーナーで拭き取る必要がある。だから座る前に便座の状態を確かめなければならない。小便が出そうになっているのに、尻を下ろす前に便座のチェックをしなければならず、漏らしてしまうこともあるのだ。サンバアが他人の尻は不潔だと中腰で用を足すと聞いて、「あんたの尻が一番不潔なんだ」とカーツンは便所の中で毒突いた。

 足が不自由なサンジイのために寝室にはポータブルトイレが置いてある。溜まった屎尿をトイレに捨て、便槽を洗うのもムーサンの仕事だ。この作業中と作業後しばらくはトイレ周辺にサンジイの屎尿の臭いが漂う。サンバアが脳梗塞で倒れるまでは、このサンジイの屎尿の処理は彼女の仕事だった。ムーサンが、

「かあちゃん、トイレがいっぱいになっとんやない。クーサイよ。捨てなァ」

 と何度か促してサンバアはようやく腰を上げる。時には、

「あんたが捨てりゃいいわ」

 と言い返し、

「かあちゃん、あんた夫婦やろ。何で私が捨てないけんの」

 と言われてしぶしぶソファから立ち上がるのだ。サンバアは「クーサイ、クーサイ」と言いながら作業をする。その言葉にはこの作業への嫌悪感が滲み出ている。メーファーズ(没法子)という中国語も出る。「仕方がない」という意味の諦めの言葉だ。12歳の時に満州に居る叔父の家に預けられ、敗戦後引き揚げてきたサンバアは、折に触れて中国語が口をついて出る。

 サンジイが大腿骨を折って、入院・手術となった時、晩酌して酔ったサンバアが自分の部屋で、「ザマアミロ! 」と叫んだことをカーツンは覚えていた。その頃サンバアは自分の部屋で寝起きしていた。その声がサンジイに対して言われたものと取るには戸惑いもあったが、そうとしか取れない状況だった。恐らくサンバアはサンジイはこれで終りだと思ったのだ。カーツンも実はそう思った。88歳での骨折だ。歩行不能となればやがて寝たきり、そして臨終という予測が立つ。ところがそれから三年間、サンジイは寝たきりにもならず生き長らえてきた。

 半年間の入院を終えてサンジイが自宅に戻ると、サンバアはサンジイの部屋で寝起きすることになった。サンジイの心臓の状態が不安定で、血圧が急に降下して顔面が白くなり、瞑目絶句してしまうことが何度かあった。ムーサンが背中を叩き、回復することもあったが、救急車も二、三度呼んだ。そんな状態だったから、夜中の急な異変に備えてサンバアはサンジイと寝起きを共にすることになったのだ。サンジイの介護がサンバアの仕事になった。もっとも、サンバアがするのはサンジイの下着の洗濯と便槽の清掃、車椅子の介添えくらいで、他の世話一切はムーサンが行っていた。それでも自分の部屋で起居ができなくなり、サンジイの状態に気を配らなければならなくなったことは、サンバアには負担だった。特にサンジイの屎尿の処理は自分に降りかかってきた負担の嫌悪すべき本質を露にするもので、サンバアには疎ましかった。「ザマアミロ! 」とはならなかったのだ。しかし夫婦である以上は受け入れる他はない。「メーファーズ」にはその諦めの気持が籠っていた。

 サンバアは七十代の終りまでは酒を飲まなかった。酒は飲めないと思っていた。サンバアには六人の妹弟がいたが、酒を飲む者はいなかった。サンバアが預けられた満洲の叔父も、一口飲んだだけで顔が真っ赤になってしまう体質だった。サンバアが飲み始めたのはカーツン夫婦が同居してからだ。80歳が近づいた両親の世話をしたいというムーサンの意志でカーツン夫婦は同居した。ワラシを飼うようになって、ペット禁止のアパートに居れなくなったことを機に、二人はワラシを連れて引っ越した。

 晩酌するカーツン夫婦に誘われたか、或いは張り合ってか、サンバアは酒を飲むようになった。飲んでも体に異変は起きなかった。飲める体質であることがわかった。サンバアの晩酌は初め350mlの発泡酒一缶だったが、それに焼酎のお湯割りが加わるようになった。それも一杯では済まず、二杯目を求めるようになった。ムーサンが「大丈夫かね。止めといた方がいいよ」と言っても、「あんたたちも飲みよるやないかね」とサンバアは応じて聞かなかった。

 サンジイの介護をするようになってサンバアの酒量は更に増えた。晩酌だけでは治まらなくなった。夜中、台所に入って盗み酒をするようになった。ムーサンが見つけて、「いい加減にしとかんとあんたも倒れるよ」と言っても聞かなかった。ムーサンは台所や冷蔵庫にある酒類を隠したが、サンバアは稲屋に入って発泡酒の紙箱から缶を取り出して立ち飲みまでした。飲酒はサンバアには「メーファーズ」の憂さ晴らしだった。そして脳梗塞で倒れたのだ。

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