第2部

第1話

 8月の最後の週の始めに始業式が行われ、学校は二学期に入った。

 三年のスポクラの一学期の成績は五組が平均点68・2、六組が70・3の好成績だった。カーツンが施した試験対策や、一学期の成績で仮評定が出されるという事情が作用した結果だが、どういうわけか五組と六組に一人づつ欠点者が居た。この二人は中間・期末ともに欠点を取っていた。カーツンにとっては、点を取らせようという自分の働きかけや、点を取ろうとするクラスメートの動きに抗して、頑なに点を取るまいとしているような印象を与えられる厄介な存在だった。

 五組の浦橋はカーツンが何を言ってもうるさそうな不信の眼差しを向けてくる生徒だった。六組の曽根はいつも眠たそうに目を閉じていた。二人はノートも出さず、カーツンはどう指導すればよいか戸惑いを覚えた。

 しかし放ってはおけなかった。三年生は二学期で授業が終るのだ。二学期の期末考査は名称も学年末考査として実施される。それが最後の定期考査であり、その成績を算入して三年の成績が確定する。一学期の成績が欠点だった者は二学期の中間考査で成績を上げておかないと、学年末考査の一回だけで欠点を脱することは難しい。学年末考査で欠点を解消できなければ三学期に追試を受けることになる。生徒も嫌だろうが教師も追試などしたくない。追試のための勉強を生徒に督励しなければならず、追試問題も作成しなければならない。煩わしいことだ。カーツンは追試受験者などは出さず、二学期終了の時点で三年のスポクラと縁を切りたかった。そのためには中間考査の段階から浦橋・曽根の成績を上げる必要があった。

 カーツンは二人にハッパをかけた。授業の度に中間考査への意識を喚起した。浦橋の一学期の成績は15点。これに二学期の成績を足して二で割って35点以上にならないと追試を受けることになる。学期の成績は中間・期末の平均点だ。だから中間考査では55点以上を取る必要がある。カーツンはこういう計算を浦橋にさせ、中間考査で取るべき点数の目標を持たせようとした。クラスで欠点を取っているのは自分だけであり、授業がなくなり皆が登校しない三学期に、追試のためにノコノコ出てこなければならなくなることを知ると、いつも不信の目をカーツンに注いで、言うことを聞かない浦橋も、どんな勉強をすればいいのかとカーツンに訊いてくるようになった。カーツンは手ごたえを感じて、授業中はしっかりノートを取り、試験前になれば演習ノート、学習プリント、プレテストの三つをしっかりやっておくことを指示した。一学期の成績が21点の曽根にも同様の計算をさせ、中間考査での目標を持たせた。柔道部所属で百キロを超える体重があり、動作や表情が鈍重な印象を与える曾根だが、自分の置かれている状況を理解したようで、「頑張ります」という言葉が出た。カーツンは曾根にも勉強について浦橋と同様な指示を与えた。そして考査前の十日間は授業の度に二人に声をかけ、勉強の状況をチェックし、尻を叩いた。

 厄介な二人がようやくやる気になったことでカーツンの気持も少し楽になったが、授業での苦労は相変らずだった。授業をまともに受ける者は少数であり、大半が雑談、居眠り、遊びの中で時間を過ごしていた。こんな状況で豊田が教室に入ってきたらどうなるか、という緊張はカーツンには常にあったが、その時はその時と考える他はなかった。

 五組の森元は例によって教壇に上がってきて、突拍子もないことをカーツンに語りかけ、授業を攪乱する。ある時はカーツンの腕時計に目を留め、

「じいちゃん、いい時計しているね。高いんやろう」

 と言ってきた。

「うん、まぁな」

 とカーツンは応じた。森本は近頃カーツンに「じいちゃん」と呼びかけることが多くなった。カーツンは数年前から自分をそのように呼ぶ生徒の声を耳にするようになった。しかし面と向かって言うのは森元が初めてだった。

「何ぼしたん」

 と森元は訊いてきた。

「何ぼと思うか」

 と訊き返すと、

「十万くらい? 」

 と森元は言った。ほう、こいつには高く見えているんだ、とカーツンは思った。ならそう思わせておくのも面白いと思い、

「うん、そんなもんだな」

 と答えた。実はその半分以下の値段だった。それでも身につけるものに金をかけないカーツンとしては高い買い物だった。森元は疑わず、なるほどという表情をした。カーツンはそれが可笑しかった。

「ちょっと貸して」

 と森元は言った。そろそろ、席に戻れ、と言わなければならないなとカーツンは思ったが、まぁまぁ、と自分を抑えて、腕時計を外して森元に渡した。森元は時計の文字盤を見て、メーカーの名前を表すアルファベットに首を傾げた。

「これ、何て読むん? 」

「お前、この会社知らんのか」

 とカーツンは驚きを込めて言った。それはカーツンの若い頃には日本を代表する時計会社であった二つの会社のうちの一つだった。カーツンの世代ではこの会社名が読めない者はいないはずだった。

「知らん」

 森元はバツの悪そうな表情をした。

「本当に知らないのか」

 カーツンは念を押し、

「へぇー」

 と少し大げさに驚いてみせた。カーツンがその時計会社の名を告げても森元はピンとこないようで、「ふーん」と言うだけだった。カーツンとしては一本取ったような気分だったが、時代の推移も感じた。

「席に戻れ」

 と言うと、森元は時計を返しておとなしく席に下がった。

 森元は授業態度は良くなかったが、憎めないところがあった。カーツンは森元が何か言ってくると、からかい返したくなる衝動を覚えた。例えばその背の低さだ。もちろん教師としては言うべきことではないので自制していたが、やりとりのなかでそれを匂わせる言葉が出てしまうこともあった。ある時、森元は何かの話で祖父は父親より大きいと言った。カーツンは身長を訊ねた。「170センチを超える」と森元は答えた。カーツンは「不思議だな」と言って笑った。「なにが」と訊く森元に、「隔世遺伝は起きなかったのか」と答えてニヤリとした。すると森元は、「馬鹿にしているのか」と敏感に反応した。そして躊躇もなく、「くらすぞ」と言った。カーツンはその生意気な言葉に、何を! と反発したが、この生徒の迫力をも感じた。森元を見ていると、小型犬ほどよく吠える、小男ほど喧嘩っ早いなどの言葉が浮かんできた。

 森元をからかいたくさせるもう一つのネタはその名前だった。森元の名前は「武肥」だ。何と読むか分かるかと森元はカーツンに訊いてきた。挑戦的な言い方だった。

「ブヒか」

 とカーツンはわざと無造作に答えた。

「ブヒ? 」

 森元は顔を顰め、カーツンを睨んだ。

「違うか」

 とカーツンは訊いたが、森元はそれ以上は何も言わなかった。「ブヒ」は豚の鳴き声を表す擬音語だ。カーツンはそれが可笑しかった。彼は森元をブヒと呼んでみたい衝動に何度か駆られた。おい、ブヒ、静かにしろ! おい、ブヒブヒ、などと。しかし、これも教師としてすべきことではなかった。だが、森元が教壇に上がってきて、例の肩揉みを始めた時、カーツンは我慢できず、

「ありがとう、ブヒ。もういいぞ、ブヒ」

 と言ってしまった。二、三人の生徒が笑った。

「馬鹿にしているのか」

 と森元は言い、腕に力をこめた。

「いや、いや」

 とカーツンは笑いながら首を振り、

「痛い、痛い」

 と言って片手を拝むように上げた。森元は満足したように教壇を下りた。

 そんな森元だったが、一学期の成績は93点とクラスで最高だった。点を取るべき場合は取るという計算のできる生徒で、その集中力も持っていた。

 六組では奥野が相変らず騒がしかった。この生徒は何度かカーツンから集中的に叱られているので、のべつにしゃべることはなくなったが、ある時発作的にしゃべり始めるのだ。それはもう我慢ができないという感じだった。やむなくカーツンが注意をする。奥野は黙り、カーツンを見つめる。また説教が始まるのかという身構えだ。その時も奥野はそんな風にカーツンを見たのだが、ニヤッと笑って、

「先生、親父ギャグを言ってくださいよ」

 と言った。

「親父ギャグ? 」

 とカーツンは訊き返した。

「二年のスポクラで言ったんでしょう、コーディネートがどうたらこうたら」

 と奥野が答えた。ああ、あのことかとカーツンは思い起した。

 二、三日前の二年のスポクラの授業の折だった。その日、カーツンはいつもの上っ張りを着ていなかった。ひと月ほど着続けたので持ち帰って洗濯した。それを学校に持ってくるを忘れたのだ。それでその日は通勤時のブレザーのままカーツンは教壇に立っていた。

「おっ、先生どうしたん、今日は作業員の服装やないね」

 と生徒の一人が声をかけた。上っ張りとして使っている青色の薄手のジャンパーをカーツンが着た姿を、生徒たちは工場の作業員とか作業長、電力会社の社員、などと評した。

「ああ、上っ張りを持ってくるのを忘れてね」

 とカーツンは応じた。

「先生、なかなか決めてるやん。茶色で統一したん」

 確かにその日は茶色のブレザーに茶色のズボンを穿き、ネクタイとソックスまで茶色に揃えていた。それは偶然ではなく、カーツンには服装の色調を調えたいという志向があった。

「そうか。決ってるかね」

 カーツンは満更でもないような笑顔を浮かべた。そして、ちょっとふざけてやろうという気持を起した。

「コーディネートはこうでねーと」

 カーツンは声を少し励まして思い浮かんだ言葉を言った。生徒たちの中の数人の顔に笑いが浮かんだが、笑い声は起きなかった。

「先生のキャラには合わないよ」

 一人の生徒がもっともらしく頷きながら言った。

「そんなのを親父ギャグって言うんだよ」

 他の生徒が言った。このクラスらしい冷やかな反応だなとカーツンは思った。

「いいじゃないか親父ギャグで。親父ギャグが一番笑えるんだぞ」

 カーツンは負けずに言い返した。

 あのことが部活を通して三年生に伝わったのだとカーツンは思った。彼は奥野のリクエストに応えたいと思った。叱ってばかりじゃなく、こういう時に一緒にふざけることが大切なのだと思うのだ。

「そうなあ」

 カーツンは何かいいギャグはないかと考えた。すると幸い、昔冗談をよく言っていた先輩教師が口にしたギャグが思い浮かんだ。

「勉強してないので、解答欄に何もカイトウラン」

 カーツンがそう言って二秒ほど間があった。

「解答欄に何も書いとらんか」

 と奥野が言って笑った。他の生徒からも笑いが出た。

「すごいね、先生」

 と奥野が言った。

「もう一つあるぞ」

 とカーツンは応じた。そして声を高めて、

「お前たちは苦手な古典でコテンコテンだ」

 と言った。イマイチかなと思ったが、これも受けた。スポクラの授業で味わえる楽しみとはこういうものなのかもしれないとカーツンは思うのだった。

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