第11話

 6月に入るとワラシの後脚はめっきり弱った。散歩のために庭に出してもじっとして動かない。カーツンは平行歩行の足踏みをして待つが、百回を数えても動き出さない。埒が明かないのでカーツンはリードを引っ張る。引っ張られてワラシはつんのめるようにヨタヨタと数歩前に出るが、そこで止まる。また待機。この時排尿することもある。庭に出されて5分ほど経つと、ようやく脚も気持も歩行モードに入るようで、自分の意思で足を動かしたという感触がリードを通じて伝わる。引き摺られるようにして庭から旧国道に出るまで10分間はかかる。移動距離は5メートルもないのに。

 旧国道に出ても事態は変らない。ワラシは動かない。以前のように平行歩行で足踏みと前進を50回ずつ交互に行うやり方はもうできない。無理に引っ張ればワラシは腰砕けになって地面にへたばってしまう。旧国道をせいぜい10メートルばかり往復するのが関の山になってしまった。

 リードは首と両前足の付け根後ろの胴部を一回りするバンドに付けられている。前に引っ張れば後脚がついて行かず、ワラシは腰砕けになる。吊り上げるようにすれば、体は浮く感じになるが、後脚に負担がかからず、前足の掻きで進めるのではないか。そう考えてやってみたが、うまく前進できず、ワラシにはやはり負担になるようだった。ワラシの後脚はここまで衰えてしまったとカーツンは悲しんだ。

 後脚を補うものが必要だった。応急措置としてタオルで吊り上げてみた。カーツンはインターネットで犬の歩行器を検索して、怪我や老化によって後脚が立たなくなった犬のための歩行補助具を注文した。後脚をハーネスの穴に通して、オシメのように臀部に装着し、握りの付いた紐で吊り上げるという仕組みだ。タオルよりもちろんしっかりしている。体の前半分はリードで吊り上げ、後ろ半分は歩行具で吊り上げれば、ワラシは負担がなく歩けるのではないかとカーツンは考えた。

 歩行具が届いて、ワラシに装着した。最初はリードを着けず、歩行具だけで歩かせようとした。しかしワラシは腰を吊り上げても歩き出さない。やはり前方に引く力が必要だ。それでリードも着け、リードで前へ引っ張るようにした。ワラシは前進した。しかし自分の力で歩く感じはない。浮いた体を前に引かれて前のめりにヨタヨタと歩かされている感じ。スムースな歩行は実現できなかった。前脚の力も衰えてきているのだ。

 歩行具の装着は手間が掛かり、吊り上げる紐の長さの調節も難しかった。装着もそれによる歩行もワラシには負担になるようだった。それで歩行具は早々とお役御免となった。ワラシを吊り上げるには専らタオルが使われるようになった。

 やがて散歩に連れ出すのも、抱えて庭に出て、地面に下ろす形になった。それからリードを着ける。地面に下ろした途端、後脚が体を支え切れず、こけてしまうことが多くなった。ワラシは地面に置かれると、すぐ排尿するようになっていたが、こけたまま排尿するので体が濡れてしまい、カーツンは慌てるのだった。それでワラシを地面に置くと同時にタオルで腰を吊り上げるという早技が必要になった。気をつけてはいてもタオルを忘れて庭に出たり、早技が間に合わず失敗することも何度かあった。

 三つの食器に食餌を等分に分け、3匹を食器の前に「お座り」させ、カーツンが合掌して、「いただきまあす」と言ってから、「よし」の合図で食べ始めていた食事だが、十年以上続いたその形も終末を迎えようとしていた。ワラシの舌の力が衰え、自力では食べ物を口中に取り込めなくなってきた。煮えたカボチャやキャベツ、鶏の胸肉などの塊から一口分を分離して咥えることがうまくできない。舌は徒に食物を舐めるばかりだ。スプーンで掬って、ワラシの口許に差し出してやらなければならない。咀嚼力も衰えている。食べる速さがツムジ、カティアに大きく遅れて、早く終ったツムジはワラシの分を狙い始める。3匹が揃って食事をするのは無理になった。食餌の内容もワラシにはもっと食べやすいかたちのものを与えなければならなくなった。

 7月半ばを過ぎるとワラシはもう散歩ができなくなった。オシメをして一日家の中で過ごすようになった。食事の時の他は、ワラシはボックスの中で寝ていた。時折、ムーサンとカーツンが交互に、ワラシの胴を両手で支え、持ち上げるようにして畳の上を歩かせた。カーツンが禁酒に入っていた頃だ。

 最近近所にオープンしたディスカウントのドラッグストアで、小型犬用Mサイズの紙おむつを一袋買ってくる。一袋に30枚入っている。ワラシの紙おむつの付け替えが日課となった。朝夕取り替えるが、それに加えて就寝前や夜中に取り替えることもある。うっかりしていると、オシメがぐっしょり尿を吸収して重くなっている。「ごめんね、ごめんね」と言いながらオシメを付け替える。くり返すうちにオシメを着脱するカーツンの手際もよくなった。糞もオシメの中にする。外す時は糞をこぼさないように気をつける。

 八月に入ってワラシの便通がない日が三日ほど続いた。食物もはかばかしく摂らなくなっていた。ムーサンとカーツンはワラシを動物病院に連れて行った。カーツンが心臓のCT検査を受け、問題はないと言われた翌日のことだ。

 診察台の上に置かれたオシメ姿のワラシの体重は4・5キログラムしかなかった。いつも7キロ台を維持していたのに、と思うと、カーツンの目にジワッと涙が湧いた。

 院長ではなく、薄くあごひげを生やした若い獣医が診察を担当した。獣医は腹部を触診し、肛門の近くを触って、便が溜まっていますと言った。そして薄手のぴっちりしたゴム手袋をはめ、指を肛門に挿し入れ、糞便を掻き出した。塊が三つほど取れたが、合せれば五センチを超える長さの糞便だった。こんなことができるのか、という思いでカーツンは見つめていた。これをこそしてやるべきだったのだなとカーツンは思った。「ワラちゃん、よかったね。楽になったね」とムーサンが声をかけた。ワラシはこれ以後自力での排便ができなくなった。

 獣医は腹部のエコー検査をした。モニターに映し出される映像をカーツンとムーサンは並んで眺めていたが、外で待っていてくださいと言われて待合室に出た。再び呼ばれて診察室に入ると、獣医は大腸に腫瘍ができていると告げた。シュヨウと聞いてカーツンは眉を顰めた。それが大きくなるとやがて便が出なくなると獣医は続けた。絶望感がカーツンの胸に広がった。こうなるか! と思った。いきなり来やがった! と感じた。ワラシが可哀想でならなかった。ムーサンの目が涙で一杯になった。

「悪性なんでしょうか」

 とカーツンは訊いてみた。

「組織を取って検査してみないとわかりません」

 と獣医は答えた。

 便が出なくなる!? それはどんなに苦しいことだろう。ワラシがどんなに苦しむことだろう。その時のワラシの苦悶を思ってカーツンは胸苦しくなった。手術しかないだろう。手術はできないのか。カーツンは獣医に訊ねた。

「手術に耐えられるかということですね」

 と獣医は応じた。

「心臓の状態は悪くないので、私は可能だと思いますが」

 と答えた。そして、

「院長がどう言うかですね」

 と付け加えた。カーツンは執刀はやはり院長がするのかと思った。

「先生は手術できないんですか」

 とカーツンは若い獣医に訊いた。

「できます。でも院長が判断するでしょうから」

 カーツンと同年輩の、頭髪の薄くなった院長が側に来た。犬のことを「この人」と呼ぶ獣医だ。

「私は手術はようしません」

 と院長は言った。

「この人は痴呆が大分進んでおり、手術をすればもっと進みます。リスクを冒してまで手術をする価値はないと思います。痴呆状態で植物的に延命しても、交流の喜びはないですよ。むしろあなた方に恨まれることになるのではと私は懼れますよ」

 と言った。この院長には手術する気がない。それならこの若い獣医に手術を頼もうかとカーツンは対抗的に思った。手術をしなければワラシは確実に死ぬ。手術をすれば延命の可能性がある。ワラシにとにかく生き続けてほしいという気持が高まった。しかしリスクは高い。どうしようか。カーツンはムーサンと目を合せた。カーツンは唸った。ムーサンも涙を溜めた目で天井を仰いだ。こんな辛い選択をしなければならない状況に遂になったのだとカーツンは思った。そう思うと力が抜けそうだった。しっかりしろ! とカーツンは自分を叱咤した。考えてみれば、ワラシとの意思疎通が絶えた状態でワラシの肉体だけが生きていてもやはり無意味なような気がした。

「自然に任そうか」

 とカーツンはムーサンに言った。

「そうね」

 とムーサンは頷いた。

 ワラシとの別れを明確に前途に置いた日々がこうして始まった。

 その二日後のこと、ツムジがワラシを噛んだ。ワラシはいつものようにボックスの中で寝ていたのだが、何があったのかカーツンには分からなかった。噛まれたワラシは声も立てず、動かない。ツムジの頭を一つ叩いたが、カーツンには叱る気力もなかった。こんな状態になったワラシを噛むとは、この子は本当に鬼子なんだと思い、最後まで容赦のない動物界の過酷さを思った。

 ワラシは自力では排便ができない。獣医がしたように指で掻き出してやらなければならない。薄手のゴム手袋の箱入りを買ってきて、二、三日に一回の割で便を取る。最初はムーサンがやった。うまく取れた。大したもんだとカーツンは思った。自分にはとてもできそうにないと思われた。しかしムーサン任せにすることはできないのだ。意を決してカーツンも挑んだ。先ず肛門の下あたりを指で押して、便が溜っているかどうか確かめる。固い塊の感触があれば便がそこまで来ているのだ。ゴム手袋をはめて、滑らかに挿入できるように手袋の人差指の先にモイスチャークリームを塗る。肛門に挿し入れた指の先に固い便が触れる。それを迂回して更に奥に指を進め、便の切れ目にきたところで指先を曲げて掻き出す。肛門のすぐ側にティッシュを広げ、出てきた糞便の塊を落す。手袋の挿入部分は便で汚れているのでティッシュで拭き取って再び挿入する。

 ワラシの体内に指を入れれば、ワラシは痛みで苦しむのではないか、ワラシの内臓を傷つけてしまうのではないか、とカーツンは初めのうちはおっかなびっくりだった。それでひと塊が出ればそれで終了だった。何度かするうちに、ワラシにも苦痛な様子がないのを見て、二回、三回と挿入し、奥まで指を入れて取れるだけの便を取ることができるようになった。たくさん取れた時は、これでワラシも楽になった、ワラシの命が延びたと満足感を覚えるのだった。この作業をすると、元気だった頃のワラシが散歩に出て排便する時の様子が思い出された。後脚を四股を踏むようにグッと開き、天を見上げて尻を落すと、肛門からピンク色の薄膜の筒のようなものが押し出され、その中を通って糞便が出てくる。ワラシは満足気に目を閉じている。その光景をもう見ることができないのがカーツンを悲しませた。便を取った日はカレンダーに赤丸を付けた。

 食事もワラシだけは別になった。動物病院で缶詰のペットフードを買ってきて食べさせた。ワラシを抱えて、スプーンで口に入れてやる。よく食べる時は一回で一缶をほぼ空けてしまうこともある。そんな時はカーツンとムーサンは「よく食べたね」と喜び合うのだった。カーツンはワラシの口に食べ物がスムースに入るように、口を上向けにして、スプーンを上から差し入れて食べさせていた。しかしムーサンはあまり上向きにさせるのはよくないと注意した。食べ物が気管に入る恐れがあると言うのだ。ムーサンのやり方を見てみると、なるほど口は水平にして、スプーンを横から差し入れている。

 缶詰をあまり食べない時は何か補うものを与えなければならない。笹身をボイルして細かくむしったものや、チーズなどを与えた。

 金属製の円盤型の食器三つを十年間使ってきたのだが、その一つが不用になった。流し場の隅に置かれたそれを眺めることもカーツンには寂しいことだった。

 ワラシの運動は、胴体を両手で持ち上げるようにして支え、畳の上を歩かせる。前足が畳を掻いて前進し、衰えた後脚も前脚の動きにつられて動き出すことを期待して、足が畳から浮かないように注意する。できるだけワラシが自力で歩くように体を支持するのだ。ワラシの胴体を持って三周、四周とグルグル回る。上半身を倒したままの動きはきつい。終るとフーと息が出る。この運動はカーツンとムーサンのどちらかが気がついた時に行う。一日数回、二人交互に行うことを心がけた。ワラシがよく歩いてくれると二人は喜びと満足感を味わうのだ。

 二人の努力に反して、ワラシの脚力の衰弱はその後も進行した。九月に入ると右側の後脚が伸びきったままの状態で硬直し始めた。それは夫婦にとって新たな悲しみだった。

 いつもオシメをしていると、皮膚が尿で焼けたように茶色になってしまう。それを避けるために、また清潔を保つためにも、カーツンは時々オシメを外して、ワラシの腹から臀部を洗ってやった。シャワーの水をかなり長時間かけながら解す(ほぐす)のだが、それでも糞尿で強張った毛は柔らかくならなかった。洗い終えるとタオルで拭き、ドライヤーで乾かす。この時ワラシが快く伸びをするような仕種をするのがカーツンには嬉しかった。床に横たわっているワラシを見つめて、伸びきったままの右の後脚をカーツンは手で屈伸させた。やがて硬直が進み、屈伸もできなくなった。

 ワラシの首はなぜか尻尾の方に屈曲し、固定した。横たわったワラシが動かせるのは前足と左側の後脚だけになった。しかし、それもほとんど動かすことはなく、次第に麻痺していくようだった。


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