第10話


 カーツンは7月の始め頃から就床前や夜中に胸苦しさを覚えるようになった。気になっていたのだが、更にそれが出勤時にも現れるようになった。電車を降りて学校への坂道を上り始めると、胸苦しさが間欠的に襲ってきた。基本的には大したことはないと思っているのだが、心臓かどこかが悪くなっているのかという懸念も起きた。そんな憂いが胸苦しさに拍車をかけるようだった。今日も控えているスポクラの授業のあれこれを思うと、カーツンの足はさらに重くなった。胸苦しさが募り、坂の中途で足を止めたこともあった。

 一学期が終り、学校は夏休みに入った。夏休みの課外授業の割り当てがカーツンにはなかった。夏休みに課外授業をしなくてよいというのはカーツンが教諭になって初めてのことだった。定年が近づくと珍しいことが起きるとカーツンは思った。昨年末の冬休みの課外授業もカーツンは免れていた。それも初めてだった。特別な措置というわけではなく、授業担当クラスと担当教員の数によって割り振りされた結果なのだが、カーツンは有難いと思った。夏休みの間に心臓の状態をチェックしておこうと思った。掛かり付けの内科医院は循環器を専門としていた。疾患があれば早く見つけて処置しておきたいと思った。

 8月の初め、カーツンは意を決して内科医院を受診した。医師はカーツンの訴えを聞くと、心電図の検査を行った。安静時の検査の後、運動の負荷をかけた検査が行われた。カーツンは電極を胸に付けたまま、スポーツクラブにあるような自転車様の器具にまたがり、ペダルを漕いだ。女の看護師が側について、カーツンに指示を与えながら心電計の操作を行った。5分も漕いでいると額が汗ばむ感触がした。何分間漕ぐのか、始める前に訊いておけばよかったと彼は悔いた。ペダルを漕いでいる今では、ツンとすました感じのする看護師には弱音を吐くようで訊きにくかった。何となく心細い思いに囚われていたカーツンは、他人にそれを覚られまいとする心理になっていた。女の看護師は波形を眺めながら何も言わない。時折、計器のスイッチを押すような動作をした。〈どうですか〉とカーツンは訊きたかったが、やはり控えた。10分ほどすると医師が入ってきた。医師は波形を見ながら、「苦しくないですか」とカーツンに訊いた。「別に」とカーツンは答えた。医師の問いかけに、波形に異常が表れているのだろうか、と彼は訝しんだが、そんなことはあるまいと打ち消した。「そうですか。何ともないですか」と医師は重ねて訊いてきた。「はい」とカーツンが答えると、「波形に狭心症の徴候が出ています」と医師は言った。エエッとカーツンは驚いた。ショックだった。カーツンの感覚ではそんなに悪いはずはないのだった。

 心電図の後はエコー検査を行った。心臓のエコー検査をする設備はないようで、頸部に超音波を当て、頸動脈の画像を見せながら、ここにコレステロールが付着してきていると医師は指で示した。黒い血管壁にうっすらと白い層が見えた。厚さが1ミリくらいだと言い、頸動脈でこの程度であれば冠状動脈ではかなり動脈硬化が進んでいることが予測されると言った。カーツンにはショックの連続だった。

 検査後の面談で、医師はすぐに冠状動脈のカテーテル検査を行う必要があると切迫した調子で言った。明日にでもという語気だった。医師が病院に連絡して紹介状も書くと言う。その病院は医師が開業するまで勤務していた総合病院で、特に心臓病の治療で有名だった。カーツンも検査は早い方がよいとは思ったが、事態の急変に戸惑っていた。明日では少し早すぎると思い、明後日に検査を受けると答えた。答えた後、その日は職員会議があることを思い出した。カーツンは、「あ、すみません」と言って、明々後日に変更した。机に向かってペンを握っていた医師は舌打ちした。急を要することなのに何を考えているのだという苛立ちが表情に表れていた。ああ、そうか、職員会議などを顧慮している場合ではないのだとカーツンは思い直し、「いや、あさってでいいです」と元に戻した。

 医師はコレステロールや血圧を下げる薬など三種類の薬を出した。そしてためらうカーツンに「今日から飲んでください」と言った。おまけに狭心症の発作が起きた場合に備えてニトログリセリンの舌下錠まで出した。あれよ、あれよという間に重病人になってしまった気分でカーツンは医院を出た。

 カーツンの気分は暗かった。健康な体で定年を迎えるという目標に暗雲が掛かってきた。検査の結果、入院などとなればどうなるのだと思った。しかしそれも仕方のないことだった。検査結果がわかるまで先の見通しが立たなくなった。

 カテーテル検査も気の重いことだった。カーツンは六年前にその検査を受けた。職場の健康診断で心電図に異常があると言われ、精密検査を受けたのだ。負荷をかけて心電図が取られ、念のためにカテーテル検査をした方がよいということになった。局部麻酔をして手術台に横たわり、手首の血管からカテーテルが挿入され、頭上のモニターに心臓血管の画像が写し出された。自分の心臓の画像など見ていて気持のよいものではなかった。結果は異常無しだったが、心臓が少し肥大していると言われた。その検査をまた同じ病院で受けるのだった。

 指定された時間に病院を訪れたカーツンは、受付に持参した医師の紹介状を差し出した。そして広い待合所の長椅子に座り、大画面の薄型テレビが映し出す大リーグの野球中継を眺めながら順番を待った。イチローが打席に立つとやはり目が惹きつけられた。

 診察室で面談した医師は、六年前のカーツンのカテーテル検査を担当した医師のことを話題にした。同年輩で親しかったようだ。カーツンはそれで消えかけているその医師の若々しい面影を思い起した。その医師は現在、大阪の病院で勤務しているらしかった。医師の机上のディスプレイには六年前の検査時のカーツンの心臓血管映像が表示されていた。机上には差し出した紹介状も置かれていた。医師はカテーテル検査ではなくCT検査を行うと言った。CTの技術が進歩して、その病院では数年前から検査方法が変ったという。痛みもなく、短時間で終る検査であり、カーツンには朗報だった。

 検査後、実物のように肉色に着色されたカーツンの心臓と冠状動脈のCG画像を示して、医師はこことここに、と指差しながら、少しプラーク(コレステロールの付着)が見られるが、問題はないと言った。本当ですか、よかったとカーツンは喜んだ。自分の感覚ではそのはずだという思いがあった。心電図のおかしな波形については心臓壁が厚くなっている場合に表れることがあると説明した。とにかくこれでカーツンに日常が戻ってきたのだ。カーツンは何ものかに感謝したい思いに捉えられた。

 こうなると気になるのは薬だった。掛り付けの医師が出した薬は飲む必要がないのではないかとカーツンは思った。薬には必ず副作用があると思っているカーツンはできるなら薬は飲みたくない。医師にそのことを訊くと、ウーンと首を捻ったが、検査結果を内科医院の先生に伝えるので、その判断に従ってくださいと言った。

 数日後、病院の医師から手渡された検査結果の封筒を携えて、カーツンは内科医院を訪れた。医師が封筒を開けると、中には文書とともにCTの画像が数枚入っていた。どうだ、俺の心臓はそんなに悪くないだろう、あなたの見立て違いだ、という思いでカーツンは医師に対していた。医師は、よかったですね、と言った。が、笑みは見せなかった。そして、油断はできませんよ、と言った。現にコレステロールがたまり始めている箇所があるのだから、と続けた。カーツンとしてはそんなことを言う前に、先ずは一緒に喜んでほしかった。

 カーツンは薬について訊ねた。医師はさすがに三つの薬を全部飲めとは言わなかった。コレステロールを下げる薬は飲んでいたほうがいいですよ、と言った。確かにここ数回の血液検査では総コレステロール値が正常範囲を上回っていて、カーツンも気にはなっていた。これまでになかったことだった。ムーサンが糖尿病対策を頭において作る料理を食べているのに、コレステロール値が高くなるはずがないとカーツンは納得がいかなかった。医師に原因を訊ねても明確な回答はないのだった。カーツンは動脈硬化の主因子なので、コレステロールを下げる薬は飲み続けようかと思った。しかし他の薬は飲むまいと思った。

 この件でカーツンは掛り付けの医師に不信感を抱いた。この前の血糖値についての対応でも感じたが、この件についても大げさで強引な対応だと思われた。こちらの努力を評価しないことも不快だった。この医師の許に通っていたら、糖尿病でも心臓でもすぐに薬を飲まなければならなくなると思った。カーツンはできるだけ薬は飲まずに節制の努力を続けるつもりだった。彼は掛り付けの医院を変えることを決意した。

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