第9話

 学校では授業管理体制が強められつつあった。以前は授業の様子を見て回るのは校長に限られていた。それも毎日ではなく、思い出したように行われるに過ぎなかった。廊下から教室の中をちょっと覗くのだ。それが教頭はもちろんだが、昨年から学年主任までもが授業を見て回るようになった。そして今年度からは平の教員も他の教員の授業を見てもよいことになった。というより、それが研修として義務づけられた。一学期に最低二回は他人の授業を見て、感想や学んだこと、あるいは自分の授業についての反省を所定の用紙に記入して教頭に提出しなければならなくなったのだ。

 学年主任が授業のチェックをするようになって、そのやり方も変った。廊下から覗くようなソフトなやり方ではなく、直接教室の中に入ってくるようになった。そして、寝ている生徒を起したり、態度の悪い生徒を注意したりするのだ。

 嘗て授業中の教室は担当教師の聖域だった。校長ですら教室の中に入ってくることはなかった。それを思うと、カーツンは隔世の感を抱いた。

 平の教員が他の教員の授業を見る場合も、役職者と同様に授業担当者の事前の了解は不要ということになった。こうして今年度からは授業中の教室にいつ他の教員が入ってくるか分からない状況になった。

 二年のスポクラには授業中によく教頭が入ってきた。無言で入ってきて、寝ている生徒を起して回る。この鹿毛山という教頭は女子部の教頭をしていた人で、共学化するに際して共学部の教頭に異動した。それに伴って男子部の教頭が女子部の教頭を兼ねることになった。カーツンは教頭が教室に入ってくると、教室を見回し、寝ている生徒を苦い気持で注意する。放任はしていないことを示すのだ。寝ている生徒がまた居ると思っている鹿毛山の心中を察して、この生徒たちを一人も寝かさずに授業に引き入れることなどできるだろうか、それは不可能だ、とカーツンは自問自答する。あなたにできるか。できるならやってみるがいい。カーツンは胸の中で鹿毛山に言う。女子部にスポクラはない。ずっと女子部で過ごしてきた鹿毛山にスポクラの困難さは分らないとカーツンは思っている。鹿毛山は四、五人を起すと、スッと出ていく。

 カーツンが鹿毛山と初めて話を交したのは三年前の忘年会の折だった。共学化を控えてその頃から忘年会、歓送迎会などの行事は、男子部・女子部の垣根を無くして合同で行われるようになっていた。クジで決った席に座ると、そのテーブルに鹿毛山も座っていたのだ。電車通勤のカーツンは彼が学校最寄りの駅前で、女子部のスクールバスの乗車指導をしている姿をよく見ていた。その温和な顔つきや柔らかい雰囲気から、何となく文系教科を担当する教員だろうと想像していた。カーツンが教科を訊ねると、「何だと思います」と鹿毛山は訊き返した。カーツンは「国語」と答えたが、見事に外れた。鹿毛山は数学の教師だった。「よくそう言われますよ」と鹿毛山は笑った。

 鹿毛山が女子部の教頭だというのも意外だった。教頭がそんなに頻繁に朝の駅頭に立って乗車指導をするとは考えにくかったし、目が合えばすぐ挨拶をしてくる腰の低さも管理職のイメージに合わなかった。二人は話が合った。カーツンは宴会の時は途中で席を離れてあちこちと動くことはないが、鹿毛山も座を動かず、二人は宴が終るまで話を続けた。

 その出会いで二人は好意を抱き合った。その後二年間、二人は男子部と女子部、あるいは女子部と共学部と所属を異にして、日常的に接することはなかったが、廊下などで会えば親しく話を交してきた。カーツンにとっては相手が管理職であることが戸惑いを生んだ。彼は教員生活を始めてから管理職の教員と親しくなることはなかった。管理職とは親しくならない方がよいと思ってきた。しかし、せっかく生まれたつながりを断ち切る必要はなかった。いつか切れるだろうとは思いながらも、カーツンはその時々でできる心遣いをしながら対してきた。今年度は所属が同じ共学部となり、カーツンは上司としての鹿毛山に初めて接することになったのだ。その老成した風貌から鹿毛山を自分と同年輩だろうと思っていたが、実際は十歳ほど若かった。

 鹿毛山は度々教室に入ってきて、生徒を起して出ていくのだが、カーツンとの誼のためか、カーツンを呼び出して注意などしないのは有難かった。

 三年スポクラの教室には豊田という学年主任が入ってきた。彼は巡視という形ではなく、研修としての授業見学という体裁だった。豊田は職員会議などで、授業中の生徒の居眠りや雑談の撲滅を何度も主張してきた教師で、その主張の目的は居眠りや雑談を許す教師の取締りと排除にあった。授業中の教室に自由に立ち入って実状をチェックできる現在の状態は彼の主張が実現した形だった。

 豊田はカーツンを授業中の生徒管理が甘いと批判していた。カーツンは豊田を、生徒の外形的管理を以って教育の能事畢れりとする典型的な管理教育推進者と批判していた。二人は今まで何度か口論し衝突していた。その豊田が初めて学年主任になった。そして今年度、カーツンは豊田が学年主任を務める学年のスポクラに教えに行くことになった。念願の学年主任になって張り切っている豊田が自分の授業のチェックに来ることをカーツンは予期していた。平の教員も研修の一環として、一学期に最低二回は他人の授業を見学しなければならないという議案が可決された職員会議で、見学に際して授業担当者の事前の了解は必要なのかと質問したのは豊田だった。カーツンは自分を念頭に置いた質問だなと直感した。了解は不要と確認された。これで豊田は誰の授業でも気兼ねなくフリーハンドでチェックができるようになったのだ。その時、豊田は間違いなく自分の授業のチェックに来るとカーツンは覚悟した。

 豊田が教室に入ってきた時、カーツンは来たな、と思った。後ろの出入口から入ってきた豊田は、空席の椅子を引き寄せて教室の後部中央辺りに腰を下ろし、ノートを広げた。カーツンは覚悟していたとは言え、不快感とプレッシャーを覚えた。クラスは六組で、五組に比べれば静かだが、居眠りする生徒の多いクラスだった。カーツンは授業の声を高めた。生徒は学年主任が入ってきたことを意識しているせいか、話し声はなくなり、質問にも真面目に対応した。しかし見回すと机に俯している者がやはり何人かいる。カーツンは教壇を下り、それらの生徒を起して回った。寝ている生徒はいなくなった。カーツンは授業を進めながら何度か教室を見回し、寝ている生徒がいないことを確認した。六組で初めて経験する状況だった。これはいいぞ、と彼は思った。どうだ、これで文句はないだろう、と豊田に対して思った。豊田は二十分ほど居て、出て行った。

 数日後、豊田が教頭に提出した授業見学の報告書のコピーがカーツンの机上に置かれていた。どうせ良いことは書いてないだろうと思いながら、カーツンは手に取った。自分の学年のスポクラが江崎先生に迷惑をかけているというしおらしい書き出しだったが、その後は、寝ている生徒が八人数えられたとか、文法事項の教え方に疑問を感じるなど批判的な記述が続いていた。他教科の専門領域にまで口出しをする不遜さにカーツンは不快を覚えた。そこに何としても自分を否定し、排除したい豊田の意志を感じた。カーツンは報復として豊田の授業を見学してやろうかと思った。そして批判的な報告書を提出するのだ。しかし何も学ぶところはないと思っている教師の授業を見学するというのもおかしいと思い、やめた。そしてこのような研修制度は、学校の現状においては、結局、教員同士が互いを監視し、批判し合うことにしかつながらないのではないかと思った。

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