第8話

 授業が終り、カーツンは坂井を促して教室を出た。坂井は素直についてきた。職員室の出入口近くにある空き机の椅子に坂井を座らせ、カーツンは生徒部長の姿を探した。彼の座席は空いており、職員室を見回してもその姿はなかった。カーツンは席に居る学年主任に先ず申し出ることにした。

 学年主任の越谷に坂井の答案とコピーを見せて、カーツンは出来事を説明した。

「これはカンニングと内容的には同一の行為だから、同じように処分されると生徒には言っているんですが」

 とカーツンは説明の終りにつけ加えた。カーツンより十歳以上も年下の越谷は厳しい表情で話を聞いていたが、「そうですか」と言って立ち上がり、坂井の側に行った。

「馬鹿なことをしたな」

 と越谷は坂井に声をかけた。

「すみません」

 と坂井は言って頭を下げた。

「結局、お前は大損したのじゃないか。たった二、三点のことで。失うものの方が大きいぞ」

「はい」

 坂井は更に深く頭を下げ、俯いた。

「とにかく生徒指導部の先生に連絡して、調書を取ってもらいましょう」

 と越谷はカーツンの側に戻って言った。カーツンは頷いた。生徒が処分されると思うと気分は重かったが、自分の為すべき事は一先ず終ったような気がした。

 この件を聞いたのか、担任の大島が、

「坂井が答案を書き変えたらしい。これであいつ、来年は推薦入試が受けられん。届け出るのもいいが、ちょっと生徒の進路のことも考えて欲しいっちゃ」

 と臨席の教師に零すのをカーツンは耳にした。自分への当てつけだとカーツンは不快に思った。確かに担任にとって受持ち生徒の卒業後の進路の確保は気がかりな事に違いなかろうが、だからと言って、問題行動の摘発を迷惑視するような発言は本末転倒だろうとカーツンは思った。

 それからしばらくして、カーツンは副校長室に呼び出された。ノックをして部屋に入ると、

「そちらへどうぞ」

 と副校長はカーツンをソファに座らせた。

「いやぁ、先生、ご苦労おかけしますねぇ」

カーツンの前の椅子に腰を下ろした副校長の江夏が声をかけた。ワイシャツのボタンが飛び散りそうにせりだした腹がカーツンの視界に飛び込んできた。

「いやいや、大したことは」

 とカーツンは応じた。

「困った事が起きましたね。答案の書き変えですか」

 と副校長は言った。この事か、とカーツンは思った。どうして副校長が出てくるのか、と思った。

「先生はカンニングと同じように処分したいとお考えなんですね」

「はい。そうですね」

 カーツンは答えて、江夏の眼鏡の奥の細い目を見た。江夏はその目に少し笑みを含ませて、

「確かにやったことはカンニングと同じですよ。不正に点を取ろうとしたんですから」

 と言った。

「はい」

 カーツンは頷いた。

「ただ、事件が起きたのは試験中ではなくて、普通の授業中なんですよね」

「ええ」

「それでですね、これはやはり通常のカンニングと同様には処置できないということなんです。処罰規定はあくまでも試験中に起きたカンニングに対するものですから」

「そうですか」

 そんなものなのか、とカーツンは思った。

「それとですね。先生は答案のコピーを取ったんですね」

「はい」

「それはどうしてですか」

「したくはなかったのですが、証拠を示さないと、残念ながら生徒は不正を認めませんので、やむを得ず」

「そうですか。手を取りますよね、近頃の生徒は」

「はい」

 まったくその通り、とカーツンは頷いた。

「ただですね、この生徒を処分した場合、保護者に対して、証拠として答案をコピーしていたとは言いにくいんですよ、学校としてはですね」

「はぁ」

「学校はこんなことをしているのか、生徒を信用していないのか、という批判を招きかねないでしょう。先生のお気持はわかりますがね」

「はぁ」

「先生だって批判の対象になるかもしれませんよ。そうなれば」

「ふむ」

 副校長が言いたいことがカーツンにも解ってきた。どうやらこの件では生徒は処分しないということのようだ。

「だから、まぁ、この件は別の形で、生徒に十分反省させる処置を取りたいと思っているのです」

「はぁ」

 元々、生徒を罰したいと思ってしたことではない。生徒が反省してくれればカーツンの意図は達せられるのだ。

「そういうことでいいですか」

 副校長はカーツンの同意を求めてきた。

「はい。それはそれでいいですが」

 カーツンは言葉を切り、少し考えて、

「生徒にはどんな処置を取るおつもりですか」

 と訊いた。

「それは生徒指導部に考えてもらわないといけませんが」

 と副校長は答えた。

「私としては何らかの明確な処置を取ってもらいたいのです。不正が発覚したのに何もなかったのでは示しがつきませんから。クラスの他の生徒にも分かるような形で」

 カーツンがそう言うと、

「それはそうですね。そこら辺は話し合って決めましょう」

 と副校長は応じた。それで副校長との話は終った。話し合うのは誰でいつなのか気になったが、カーツンは部屋を出た。生徒が厳しい処分を受けずに済むことはカーツンの気持を楽にした。

 その後、カーツンは今度は学年主任に呼ばれて会議室に入った。部屋には生徒指導部長の三島も居た。

「どういう状況で起きたのですか」

 カーツンが椅子に座ると三島が訊いてきた。なぜ訊くのかな、知っているはずなのにとカーツンは訝しんだが、改めて俺の口から聞いておこうということだなと三島の意図を忖度した。

「答案を返して、解答と配点を言って、何か訂正があれば持って来いと言ったら、坂井が答案を持ってきたんです」

「それで」

「で、訂正箇所をコピーで確かめると書き変えていた」

「坂井は先生がコピーを取っていることを知っていたのですか」

「私はその前にコピーがあるぞと念を押しましたからね」

「そうですか」

 三島は頷いた。

「答えを書き変えるなんてことはよく起きているのですか」

 三島は更に訊いてきた。カーツンは嫌な質問をされたと思った。

「前回、中間考査の時に目立ちましたね。それで手を打たなければと思ったんですよ」

 カーツンは正直に答えた。

「先生は試験の解答はどんふうに行うのですか」

 これもカーツンには自分のやり方をチェックされていると感じられる不快な質問だった。解答の仕方など誰も同じだろうと思いながら、

「説明しながら答を板書します」

 と短く答えた。三島の質問はそれで終ったようだった。

「坂井に対する措置ですが、学年主任とも話したのですが、試験中のカンニングと同じようにはできないということですね」

「はぁ」

 それは副校長からも言われたことで、カーツンに異存はなかった。

「ただ何らかの明確な措置はしてほしいですね。何もなかったでは他の生徒に示しがつきませんから」

 カーツンは副校長に言ったのと同じ要望をした。

「しかしあまり厳しい処置はできない。他にも書き換えをして罰を免れている者もいるし、授業中の生徒管理の問題もあるので」

 三島の言葉は暗にカーツンの落度を批判しており、カーツンは不快を覚えた。「生徒管理の問題」などと言うが、答案の書き換えを防ぐ手立てなどあるのかとカーツンは内心で反発した。パーフェクトに阻止するには答案を生徒に返さないこと以外に方法はあるまいとカーツンは思った。

 三島はバスケット部の顧問であり、坂井はバスケット部員だった。自分に批判的な三島の言葉を聞くうちにカーツンはそのことに思い当った。三島としては坂井を救いたいはずだった。

「しかし、行為は悪質ですよ。コピーがあると言っているのに訂正を申し出てくるというのは」

 カーツンは思わず感情的になって学年主任の顔を見つめながら言った。そしてすぐ越谷に同意を求める形になったことを悔いた。

「私は訂正なんか受け付けませんよ。間違いはないと言ってますから。訂正を申し出て来る者はよほどの覚悟がある奴ですよ」

 これが越谷の反応だった。越谷はそれを当然のことという表情で言った。訂正を受け付けているカーツンが間違っているという語気だった。案の定、越谷は三島の側だった。学校の主流派に属する彼らは落ちこぼれと目されるカーツンの側に立つことはないのだ。二人は出世途上にある四十代半ばだ。

 結局、坂井に対する処置は学年主任による厳重注意と決った。懲戒には当らない措置で、罰を伴わないものだった。自分が顧問をしている部活の部員である坂井が推薦入試を受けられなくなる事態を避けたい三島は副校長に話をして、カンニングと同じ処分を考えているカーツンを抑えさせた。それは学年主任の越谷、担任の大島の意向とも一致する対応だった。カーツンにはそんな裏が見えてきた。しかし彼はこの処置に異存はなかった。ただこれがクラスの他の生徒にどう受け取られるかが気になった。

 坂井の処置が済んだ後の授業で、中井が、

「先生、坂井はどんな処分になったん」

 とカーツンに訊いてきた。クラス全員の前で、本人もいる所で、こういう事を平気で訊いてくるのが中井だった。

「学年主任による厳重注意だ」

 とカーツンは答えた。中井は何も言わなかった。カーツンはこれを機に少し話をしておこうかと思った。

「いいか。この前も言ったと思うが、不正行為は恥ずべき行為だ。そんなことをすれば、人間に一番大切な信用が失われる。信用は点数などには代えられない重大事だ。わずかな点数と引き換えに信用を失うのは大損だぞ。それを肝に銘じておけ」

 カーツンはあまり言うのも坂井を傷つけそうに思えて、そこで話を打ち切り、授業に戻った。

 事件後、坂井の授業態度は改まった。授業を聞き、ノートを取り、居眠りはしなくなった。いつまで続くかとは思いながらも、反省が表れているその態度を見て、カーツンはこれでよかったと思っていた。坂井の態度の変化は他の生徒の目にも映っているはずなので、坂井が反省していることが他の生徒たちにも伝わっているだろうとカーツンは思っていた。

 二年のスポクラの一学期の成績は平均点が48点だった。欠点者が五人いた。一学期の成績が示されると、成績の不良を公然とカーツンの授業のせいにする者も出てきた。

「先生、僕は現代文でこんな悪い点を取ったことがない。去年、丸山先生に教えてもらってる時は平均70点取っていたのに」

 などと言うのだ。カーツンは、この野郎、と思い、

「自分の不勉強を俺のせいにするのか」

 と言い返すのだが、

「先生の授業はわかりにくい」

「何を言っているのかわからない」

 などの声が他の二、三の生徒からも上がるのだ。それらの生徒の声は、定期考査を進学クラスと同一問題にして、しかも試験対策として特別な手立てを講じていないカーツンの〈手抜き〉への抗議という面もあった。が、カーツンはそれを生徒の自己正当化のための詭弁と専ら捉えて対処した。文句を言う生徒たちに彼は、

「成績の悪かった者は二学期はしっかり勉強して、回復しておかないと進級にも関わってくるぞ」

 と警告を発した。

「俺は点数の足りない者は容赦なく落すからな」

 と言い添えた。そして、念のために、

「あくまでも正々堂々と、努力して自力で点を取らないとだめだぞ」

 と付け加えた。すると中井が、

「先生はカンニングを見逃すからな」

 と言った。何の事を言っているのか、瞬間、カーツンには分からなかった。しかしそれは不快な、聞き捨てにできない言葉だった。期末考査の試験監督で中井の疑わしい行為を摘発できなかったことを言っているのかと思った。あれは仕方がなかった。俺は精一杯のことをしたとカーツンは思った。そしてこいつは摘発されたかったのかと腹立たしく思った。

「俺がカンニングを見過ごすというのか」

 とカーツンは中井に訊いた。

「坂井は見逃された」

 と中井は答えた。カーツンには意外な言葉だった。生徒たちはそんなふうにとっているのかと思った。

「坂井は学年主任から厳重注意を受けたじゃないか」

 とカーツンは応じた。確かに坂井の受けた処分はカンニングに対する通常の処分ではなかった。罰を伴わない処置だった。それを生徒たちは処分を受けなかったと理解しているのかもしれなかった。あるいは担任の大島が処分はなかったと説明しているのかもしれなかった。しかし、それは副校長が取った措置で自分が決めたことではない。自分は意を決して学校に申し出たのだ。カーツンは内心で反駁したが、もちろん生徒に言えることではなかった。

「俺は不正行為は見過ごさないぞ。ガンガン摘発してやる」

 とカーツンは言い返すことしかできなかった。


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