第7話

 一学期の期末考査で、カーツンは二年のスポクラの試験監督を割り当てられた。

 試験が始まって間もなく、中井が左隣の宅見の答案を覗くのにカーツンは気づいた。中井は要注意の生徒としてマークしているので、最初から動きに注目していた。すると、中井の目がチラチラと宅見の答案に流れる。宅見の答案もどうぞ見てくれというように机から半分近くが右へはみ出し垂れている。この二人は連携しているとカーツンは直覚した。不快な圧迫感がカーツンの胸内にせり上がった。やれやれ、授業だけでなく試験監督でもこいつとやり合わなければならないのかという思い。さて、どうしたものか。この種のカンニングは証拠が掴みにくい。現場を押えることが難しい。

 不正行為をしている生徒は試験監督から睨まれれば、怪しまれていると思ってその行為を止め、バツが悪そうに眼を逸らしたり、下を向いたりするものだが、中井の場合は見つめると見返してくる。さらに見つめ続けると、〈何? 何で俺の顔見よん?〉などと言いかねない。その時、〈お前、カンニングしよるやろ〉とは言えないのだ。証拠がないからだ。中井はもちろん否定するだろうし、証拠がないのにカンニングしたと言ったとして謝罪を要求してくるかもしれない。たとえカーツンが中井のカンニングの一瞬をとらえて摘発しても、中井は否認するはずだ。解答欄の記号の一致は証拠にならない。「見た」「見ていない」の水掛け論になれば教室は騒然となり、試験は続行できなくなって困るのは監督のカーツンだ。職員室に連れて行って話しても中井が否認を貫けば、彼は結局シロということになる。そして中井の憎悪をカーツンが一身に負うことになるのだ。

 カンニングが発覚すれば、当人はその試験科目が0点となり、一週間以上の謹慎処分を受ける。おまけに三年生になってから推薦入試を受けられなくなる。ほとんどが推薦入試を受ける予定のスポクラの生徒には痛い処分だ。だから生徒も罰を免れようと必死になるし、摘発する側にも覚悟が必要になる。

 カーツンは対応を苦慮した。そして先ず宅見に注意をすることにした。

「おい、答案は机の真ん中に置け」

 とカーツンは小声で宅見に言った。すると宅見は突然アアっというような声を発して、カーツンの注意を無視した。「アア」は、うるさいっ、と同様な意味合いをもつようだった。宅見の意想外な反応はカーツンを戸惑わせた。こんな生徒だったかなとカーツンは思った。それまでこの生徒からこのような反抗的な態度を示された記憶がなかった。その矯激な拒絶反応にカーツンは次の言葉が出なかった。注意をしたこちらの方が間違っているかのような気持になった。カーツンは一旦その場を離れた。

 確かに宅見も答案に記入している最中だ、あの答案の位置が書きやすいのかもしれないとカーツンは思い直した。中井が宅見を牽制していてあんな反応になったのかもしれないとも思った。カーツンは机間を巡って、教卓の椅子に座った。そして全体を見渡した。中井と宅見の他には不審を抱かせるような行為や状況は目につかなかった。

 カーツンは椅子から起ち、教壇に立った。そして中井と宅見を正面から見る位置に移動した。中井と目が合った。中井は答を考えているような表情をして目を逸らした。宅見の答案は依然として右端十センチほどが机からはみ出して垂れていた。

 カーツンは教壇を下り、再び二人の側へ歩み寄った。そして、

「おい、指示に従え。答案を自分の前に置け」

 と宅見に言った。宅見はうるさそうな顔をしたが、五センチほど答案を内側に戻した。指示通りではなかったが、宅見が一応従ったのでカーツンはすこしほっとした。これが限界なのかなと思った。宅見は問題と取り組んでいる姿勢をずっと持続させていて、これ以上言うのは受験の妨害になりそうで憚られた。仕方なくカーツンは二人の間に立つことにした。カーツンの体で中井は宅見の答案を見られないはずだった。中井はカーツンが間に立つと、いかにも邪魔だというように体を前に倒したり後ろに反らしたりして宅見の方を見た。ふざけているのだ。カーツンはそのふてぶてしさに苦笑を浮かべて、

「おい、何をしているんだ」

 と中井に声をかけた。

「別に」

 と中井は答えて静まった。

「キョロキョロするな」

 とカーツンは中井をたしなめた。

 終了のチャイムまでカーツンはその位置を動かなかった。


 現代文の試験が終って二年スポクラの答案を採点してみると、平均点は51・8で、中間考査より上昇していた。中間考査の成績が良くなかったので、バランス感覚が働いて期末考査は生徒も力を入れたのだと思われた。それでも欠点は五名居り、中間・期末と連続して欠点を取った者も四人居た。

 採点した答案を生徒に返す段になって、カーツンは中間考査での不快事を思い出した。答案の書き変えが行われたことだ。同じことがまた起きることが予想された。対抗手段としては答案をコピーするしかなかった。コピーと照合すれば書き変えは判明する。

 コピーを取るか、取らないか、カーツンは迷った。コピーを取ることは生徒に対する不信を露骨に表明する行為と思われた。生徒を罪に陥れる行為とも思われた。実は数年前にもカーツンは答案をコピーしたことがあった。三年のスポクラだった。その時も迷ったが、結局実行した。しかしその時はコピーを使わずに済んだ。止めようかと思った。不正をやる奴はやればよい。その報いはやがて本人に来るだろうと考えた。しかし、二年のスポクラの状況を考えると、甘い対応をしているととんでもないことになりそうな気がした。現に中間考査の時には八点も不正に点を上げた生徒がいたのだ。あんなことを繰り返されてはたまらないと思った。考査の意味がなくなる。正直に努力している生徒にも悪い。カーツンはそう考えてコピーを取ることに決めた。解答を終え、採点の間違いがあれば持って来いと呼びかける時、答案をコピーしているから答を書き変えていれば分かる、不正をした者はカンニングと同じ処分にすると生徒に予め警告を発することにした。そうすれば生徒をあみするという罪悪感を免れることができる。

 カーツンはコピーを取る対象範囲でも悩んだ。欠点者だけに絞るか。あるいは欠点より高いある点数を設定して、それ以下の者にするか。欠点者の答案だけをコピーすると、欠点者を不信の対象にしていることになり、差別だと批判されそうな気がした。結局、40点にボーダーラインを設定し、それ以下の点数の答案をコピーすることにした。

 その日となった。生徒に答案を返し、解答・配点を示して、訂正を受け付ける段階になった。カーツンは予定通り、答案のコピーを取っていることを全体に告げ、不正をしないよう警告した。「コピーを取ってるらしい」という囁きが生徒の間から聞こえた。そのためか、訂正を申し出てくる者は中間考査の時のようにドヤドヤという感じではなかった。それでも数名が答案を持って教卓に向かってきた。カーツンはその中に欠点者がいないかと注視した。坂井がいた。坂井は欠点を取っていた。カーツンは答案を差し出した坂井に改めて、

「大丈夫か。コピーを取ってあるからそれで確認するぞ」

 と念を押した。

「いいですよ」

 と坂井は動じなかった。坂井が指摘した訂正箇所は記号で答える箇所で、正解を書いているのに×になっていると言うのだ。なるほど解答欄には正解の記号が書いてある。しかし問題はそれが書き変えられたものではないかということだ。

「ちょっと待てよ」

 カーツンはそう言ってコピーを出して確かめた。するとコピーの同一箇所には正解ではない記号が書かれていた。

「お前、答を書き変えとるやないか」

 カーツンは怒気を含んで坂井に言った。

「ふざけるなよ。お前は0点だ。生徒指導部にも届けるぞ」

 カーツンがそう言うと、坂井は態度を一変させて、

「すみませんでした。許してください」

 と言い出した。カーツンは坂井の思考回路が理解できずに惑乱した。コピーを取っていると言っているのになぜ訂正を申し出てくるのか。念押しにも動じなかったあの態度は何だったのか。カーツンは裏切られた思いでショックを受けていた。同時に生徒を処分しなければならなくなったことが気持ちを重苦しくしていた。

「この時間が終ったら職員室に来い。答案は預かっておく」

 とカーツンは坂井に指示した。しかし坂井は動かない。

「先生、許してください。お願いします」

 坂井の顔面は白くなり、この生徒が今窮境にあることが伝わってきた。馬鹿な奴だとカーツンは思った。

「今さら何を言ってるんだ。カンニングと同じ卑劣な行為だ。許されん」

 教卓の周囲には坂井の他にも訂正を待っている生徒が数人いる。カーツンはその処理を先にした。その間も坂井は動かなかった。訂正作業が終ると、教卓を挟んでカーツンと坂井が対峙する形になった。

「席に戻れ」

 とカーツンは言った。

「先生、すみません。これから授業も真面目に受けるので、何とか許してもらえませんか」

 坂井の態度には処分は何としても避けなければならないという意志が表れていた。ならばどうして警告を無視したのか。カーツンは腹立たしかった。

「だめだ。コピーを取っていると言っているのになぜ出てくるのか。それが分らん。口先だけだと思ったのか」

 坂井は黙った。坂井はこのクラスでは授業態度の悪い方ではなかった。居眠りする傾向が少し見られたが、むしろ授業をよく聞く部類の生徒だった。記録簿を見ると、中間考査は36点で、欠点を危うく免れていた。今度の期末が33点で、一学期の成績、つまり中間と期末の平均点が欠点になることを避けたかったのだろう。33点を二点上げて欠点解消を図ったようだ。その不正はコピーによって阻止された。コピーの目的は達したとカーツンは思った。許してやろうか、という思いが起きた。生徒を罰することが目的ではないのだ。しかしクラスの全生徒が注視している。甘い対応はできなかった。

「いいから席に戻れ」

 カーツンは声を高めた。

「お願いします。許してください」

 坂井はそう言って頭を下げた。カーツンは少し持て余した。

「俺が今お前を許したら、皆にもそうしなければならなくなる。それはできんだろう」

 カーツンはそう言って周囲を見回した。ふと、この問題を生徒たちに投げかけてみようか、という気持が起きた。

「どうだ、皆、どうすればいいと思うか」

 カーツンが周囲に問いかけると

「俺たちに訊くことはない。先生が決めればいい」

 と田丸が応じた。

「うん。それはそうだな。もちろん最後は私が決めるんだが、君たちの考えも聞いておこうかと思ってね」

 とカーツンは応じた。すると中井が、

「許してやればいいじゃない。本人も反省してるんだから」

 と言った。

「うん。だがな、先生が気になるのは、また同じような事が起きた場合に、坂井が許された事を盾に取って処分を免れようとする奴が出てくるんじゃないかと思ってね」

 教室に沈黙が流れた。

「どうかな。そんなことはしないと君たちが約束してくれれば、許してやってもいいんだが」

 カーツンがそう言うと、坂井が生徒たちの方を向いて、

「みんな、すみません。馬鹿なことをしました。もう二度としません。よろしくお願いします」

 と言って頭を下げた。こいつも必死なんだなとカーツンは思った。ここでクラスの合意が得られれば、この件はこれで終らせようとカーツンの気持は少し楽になった。

「どうだ、約束してくれるか」

 カーツンは教室を見回した。その時、中井がまた発言した。

「そりゃ無理だよ。同じことをして一人は許されて、一人はダメだなんて。不公平だ」

 やっぱりこいつはこう言うだろうな、とカーツンは思った。やはり坂井を許すわけにはいかないな、中井のような生徒が一人でもいる限り、とカーツンはがっかりしながら思った。坂井を許した場合に出現する、カンニングのオンパレードの予想がカーツンを恐怖させた。

「そうか。仕方がないな。よし、決めた。処分を受けてもらうしかない」

カーツンは結論を出した。坂井も観念したようだった。

 授業に入る段階になったが、その前にカーツンには言っておくべき事があった。

「あのなあ、皆に言っておきたいのだが、君たちはスポーツマンだろう。スポーツにはルールがある。そのルールを守ってこそスポーツは成り立つ。フェアプレーの精神だ。その精神を大事にしてこそ真剣な努力が生まれ、向上することができるんだ。勉強でも同じだぞ。正々堂々と行け。点を取りたいのなら努力して、勉強して取れ。インチキをするな。カンニングや答案の書き変えなどは恥ずべき行為だ」

 試験監督をして実見したカンニングが臭う行為、そして中間考査の時にもあり、今も発覚した答案の書き変えという事態を受けて、それはカーツンがこのクラスに是非とも訴えたいことだった。

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