第3話

 カーツンは三ヶ月に1回、血液検査を受けることにしていた。彼は52歳の時、職場の健康診断で血糖値の高さが要精密検査と診断された。病院でブドウ糖を飲んでの負荷検査を受けると、血糖値は230を上回り、もはや「境界型」ではなく、明白な糖尿病だと医師に言われた。カーツンの前途に赤信号が点ったのだ。夫婦は危機に緊張した。カーツンは減量を決意した。本気になった努力でそれまで70キロをどうしても切れなかった体重が64キロまで落ちた。それにはムーサンの助力も大きく作用した。彼女は毎日の献立を野菜・魚を中心にした低カロリーなものにし、またそのような内容の弁当を作って毎日カーツンに持たせた。二人の努力によってカーツンの血糖値とヘモグロビンA1cはともに正常値の範囲に収まるようになった。数値的には糖尿病を脱したとカーツンは安堵した。しかし油断すると数値はすぐに正常値を逸脱するのだった。それで血糖のコントロールはカーツンの日常的な義務となった。

 3月の下旬、カーツンは掛かり付けの内科医院で血液検査を受けた。いつもは朝食抜きで検査を受けるのだが、その日は朝食後二時間の血糖値を計ってもらうことにした。その方が実態に近いと医師が勧めたのだ。結果は血糖値259、ヘモグロビンA1c6.4。医師は薬を飲んでもいい状況です、と言った。

 体重は70キロを超えることはなかったが、血糖値、ヘモグロビンA1cともに高めの傾向がここ数年続いていた。検査の結果を受けて、カーツンは毎日の酒量をビール350ミリリットル缶一つ、焼酎お湯割り一杯に制限することにした。薬はまだまだ飲みたくなかった。

 犬の散歩の時は太腿を地面と平行になるように引き上げて歩く「平行歩行」を行うことにした。朝夕の散歩で二千回の腿(もも)上げを目標にした。ワラシを散歩させる時は目標は容易に達成された。ワラシがヨタヨタ歩く速さは腿揚げしながら歩く速さに合っていた。ワラシが足を止めている間も、その場所で腿上げはできるので、回数は順調に増えるのだった。ツムジ・カティアを散歩させる時は、腿上げしながらだと2匹に遅れがちになる。それで機会を見ながらの実行となるので、一回の散歩で千回に達しない場合も起きた。

 4月に入った。カーツンの現役最後の年度が始まった。カーツンには最後の年度にもスポーツクラスの授業が割り当てられていた。スポーツクラスは運動部に所属する生徒たちが集められたクラスで、生徒たちのほとんどは部活の顧問の推薦によって入学した者たちだった。基礎体力テストと部活の実技試験で構成される推薦入試を経て入学してきた彼らは、部活こそが高校生活の主要内容であり、部活をするために入学してきたという意識が強かった。その分勉学の比重は低かった。国数英などの教科の勉強は付け足しのように意識されていた。一方、中学時代、あるいはそれ以前からの部活動によって集団生活を重ねてきた彼らは、人間関係的には揉まれていた。それが年齢不相応なふてぶてしさを彼らに与えていた。彼らは教師を観察し、対応が甘いと見ると、遠慮なく居眠りし、傍若無人にしゃべった。彼らは教師の言葉をチェックしてその矛盾を問い詰めたり、謝罪の要求までした。自分の成績や授業を受ける態度の悪さを教師の教え方の悪さのせいにすることも平気だった。スポーツクラスの教科を担当する教師が直面する困難は学習意欲の乏しさから生じる騒がしさや居眠り、そして素直に言うことを聞かない扱いにくさだった。カーツンが今年度受け持つ週十八時限の授業時数の内、十二がスポーツクラスの授業だった。カーツンが迎える春には、また新たなスポーツクラスで新たな苦労に直面しなければならないという憂いが毎年含まれていた。しかしそれも今年で最後になるのだ。

 4月に入ってすぐの土曜日、ワラシは朝の散歩で基本コースを一周した。3.11の快挙に次ぐ、今年二度目のコース一周だった。ワラシが一周する間にカーツンは1400回の腿上げをした。

 4月の第2日曜日、カーツンの家族は花見をした。向山公園に場所を選んだ。朝、カーツンとムーサンは場所取りを兼ねて犬3匹を連れて向山公園に散歩に行った。百本以上はある公園の桜が全て満開だった。桜の下には既に場所取りのシートが所々に敷かれていた。二人は公園の南縁にある土手の桜並木に場所を定め、持参した青いビニールシートを敷いた。

 正午過ぎ、カーツンの家族は公園に現れた。今日はムーサンの運転する自家用車では来なかった。タクシーに乗って来た。家族の花見でタクシーを使ったのは初めてだった。カーツンはサンジイの車椅子を押し、サンバアはワラシのリードを持ち、ムーサンはカティアとツムジのリードを持って、公園の外縁を一周する通路を青いビニールシートを敷いた場所まで歩いた。公園の中央にある円形の芝生広場や、その隣の大きな藤棚の下には十人を超すグループがいくつか円居して宴を開いていた。通路の傍らにもそこここに人々が座を作り、弁当を広げて花を見上げていた。

 土手の少し傾斜した地面に敷かれたビニールシートに家族はそれぞれ座を占めた。サンジイは車椅子に乗ったままだ。ムーサンの手作りの料理が取り出され、サンジイのためにムーサンは紙皿にいくつかの料理をみつくろって取り分けた。500ミリリットルの缶ビールをカーツンは手に取って、一口飲んだ。花見の今日は酒量制限を緩和することにした。ムーサンもロング缶を口に傾けていた。

「今日は飲めるからいいね」

 カーツンはムーサンに言った。

「そう。これからは毎年こうしよう。駐車する場所を探す手間もかからないし」

「そうだね。タクシーを使ったのは正解だった」

「母ちゃん、ビール飲むかね」

 ムーサンがサンバアに声をかけた。

「飲もうかね」

 サンバアは嬉しそうに応じた。

「あんまり飲まれんからね。これに入れてやろう」

 ムーサンは紙コップにロング缶からビールを注いだ。手渡しながら、

「これ一杯にしとき」

 と言った。

 サンバアは米寿を迎えた昨年の暮れ、脳梗塞で倒れた。朝、洗面所で髪を梳いていて倒れたのだ。ドタンという音でムーサンが気づき、洗面所に入ると、サンバアが仰向けに横たわっていた。口が利けず、左腕が硬直して動かなかった。すぐ救急車を呼び、病院に運んだ。処置が迅速だったので、発症後三時間以内に投与しなければならない血栓を溶かす薬が効いて、半身がマヒするような事態にはならなかった。しかし、二ヶ月ほどの入院の後、戻ってきたサンバアは、頓珍漢なことを言うようになり、歩行も杖を必要とするようになった。そしてデイ-サービスに通う日々が始まった。

 カーツンは頭上の桜を見上げ、前方の、滑り台やフィールドアスレチックの遊具が置いてある広場の桜を眺めた。陽光のなかで桜は輝くように咲き、周囲はまさに春爛漫の景色だった。しかしカーツンはその雰囲気のなかに浸ることはできなかった。彼には現役最後の一年は過酷な年になりそうな予感があった。サラリーマンは退職前が一番苦しいという。カーツンは誰かからそんなことを聞き、自分でもそう思っていたが、その通りの一年になりそうな気がしていた。

 カーツンの今年度の座席にその予兆は表れていた。職員室の机の列は向き合ってくっついた六つの机が一つのブロックを成しているが、カーツンの机は片側の三つの机の真中で、左右から挟まれる位置にあった。左右の教員の背後を通って自席に着かなければならない。椅子の後ろにはロッカーが迫っており、椅子の位置によっては「すみません」と声をかけて椅子を動かしてもらわないと自席につけないのだ。右隣の三十代のテニス部顧問の教師は女子部にいた人で、親しく接したことがなく、人柄は不明だったが、左の五十に近い年齢の教師はカーツンとはウマの合わない人だった。カーツンはこの人物が自分に強い対抗心を抱いていることを知っていた。油断をすれば足を掬われる恐れがあった。とにかく真中の席は左右への気遣いを強いられる貧乏くじの席だった。

 それだけではなかった。椅子の後ろのロッカーの扉が開かなかった。扉は閉められたままで、鍵がなかった。自分の椅子の後ろのロッカーがその人の使用するロッカーということになっていた。だからカーツンのロッカーは使用不能なのだった。座席の移動の際、昨年度のロッカーから中のものを出して移し入れることができず、カーツンの昨年度のロッカーを今年度使用することになっている人にも合鍵が出来るまで中味の移動を待ってもらうほかなかった。付け足して悪いことにはカーツンのロッカーの上には印刷物をページに綴じる機械が置かれていた。それはロッカーの上を覆ってしまう大きさの機械で、何年も使用されず放置されているものだった。ロッカーの上はそのロッカー使用者の物置場所として使うことになっていたが、カーツンはそれも使えないのだった。新年度のスタートに当って、ロッカーの中も上も使えないというハンディキャップはカーツンを心理的に圧迫した。

 カーツンの座席は昨年度まで非常勤講師たちが座っていたエリア内にあった。権利の弱い講師たちはこんな不便さにも文句も言わずにいたのだろう。カーツンはロッカーの合鍵の作成と機械の移動・撤去を早急にしてくれと事務長に要請したが、いつ解決されるか分からなかった。ずっとこのままの状態に置かれるのではないかという不安を抱えながら今年度は始まっていた。

 実際、カーツンが合鍵を手にしたのは四月の下旬であり、機械が撤去されたのはその一ヶ月後の中間考査の前だった。

 実はカーツンは二年前に退職を考え、ムーサンにその意思を伝えた。職場の人間関係が限界にきたように思ったからだ。カーツンはこの数年、職場の同僚たちとの繫がりを次第に失っていく自分を自覚していた。そんな状態でこれ以上職場にいるとトラブルや事故が起きそうな気がした。問題を起して辞めるより、未然のうちに去ったほうがよいという気持だった。しかしムーサンは定年まで勤めてくれと言った。それは人生におけるけじめや経済的な事情を考えればもっともなことだった。カーツンは「百尺竿頭一歩を進む」ような心境で職場に留まった。二年を耐えた。そしていよいよ最後の一年を迎えたのだ。彼は今や予期した通り、職場の人間のほとんど誰とも繫がっていない自分を見出していた。

 カーツンは陽光に輝く桜花を眺めながら、無事に定年退職を迎えること、これが今年度の最大の目標だと自分に言い聞かせた。

「父ちゃん、おいしいかね」

 ムーサンがサンジイに声をかけた。ソフト帽を被ったサンジイは車椅子の上でおにぎりを食べている。

「うん、おいしい、おいしい」

 サンジイはそう言って、「ありがたいこっちゃ」と続けた。

 サンジイが大腿の骨を折ってから、もう三年が過ぎた。88歳の誕生日に自転車に乗っていて倒れ、骨折したのだ。敬老会に出席して米寿の祝福を受けた帰りの事故だった。坂道に差し掛かり、スピードダウンした自転車はバランスを失ってサンジイは自転車ごと横に倒れた。倒れ方か打ちどころが悪かったのだろう。「自転車は危ないから乗っていきなさんなと言ったのに、聞かんのやから」と後でサンバアが何度もサンジイを責めた。

 骨折部分にボルトを入れる手術をした。リハビリを兼ねて半年ほど入院した。サンジイがおとなしく医者の指示に従っていれば、再び歩けるようになったかもしれない。しかしサンジイは家に帰りたがり、制止する病院側や家族の言うことを聞かなかった。側に誰もいない時に何度もベッドから出ようとして転落し、あるいは歩こうとして転倒した。その衝撃でボルトにずれが生じた。しかし、再手術は年齢や体力を考えて見合わされた。結局サンジイは車椅子から離れられない身となった。退院後、要介護3の認定を受け、月曜から土曜までデイ-ケアに通う生活が続いていた。

 カーツンとムーサンは食事をしながら、食べ物を少しづつ犬たちに与える。ツムジが一番食べたがる。前足でチョイチョイと膝をつついて催促する。鶏の唐揚げは好物だが、カロリーを下げるためにコロモを取って与える。カティアは鼻先に持っていけば、匂いを嗅いで、徐に口を開ける。ワラシもよく食べる。

 大きめのおにぎりを二つ食べ、缶ビールを空け、冷酒と焼酎のお湯割りを各一杯飲んで、カーツンの腹はくちくなった。気分も少し陶然とした。横になれば眠りそうだった。しかしシートの上には体を横たえるスペースはなかった。食後の腹ごなしにカーツンとムーサンは犬を散歩させることにした。ムーサンがカティアとツムジのリードを持ち、カーツンがワラシのリードを持った。

 ワラシはヨッチラヨッチラ歩く。たちまちツムジたちとの距離が開き、ムーサンは先の方へ行ってしまった。カーツンは腿上げをしながら、「ワラシ、歩け、がんばれ」と声をかける。ワラシの歩みは遅々としているが、止まらないのがいい。すれ違う人がワラシを見て道を空ける。いつもの散歩とは場所も雰囲気も違うことをワラシも感じているのだ。元気な頃のワラシは、いつもと違う場所に連れ出すと、興味津津という様子で跳びまわったものだ。もっともそれは、カティアもツムジも同じだが。

 カーツンはワラシと一緒の花見は今年が最後になるかもしれないと思った。そうあってほしくなかった。ヨタヨタと歩くこの姿が見納めになるのかと思うと、強く抱きしめたくなった。カーツンは屈んでワラシの頭を撫で、顔を覗き込んで「ワラチン、がんばれよ」と声をかけた。ワラシは立ち止まり、カーツンの顔を見上げた。それは何か遠くのものを眺めるような、あるいは、あなたは誰、と訝るような、ワラシが時折見せる眼差しだった。歩きを止めちゃったな、とカーツン思った。「よし、よし、ワラシ、さあ歩け」カーツンは声をかけてリードを引いた。ワラシはしばらく動かなかった。カーツンはその場で数を数えながら腿上げをした。やがてワラシは歩き始めた。

 ワラシは公園を一周する通路の四分の一くらいまで歩いて止まった。そこからカーツンは引き返した。戻りもワラシは止まらなかった。往復で公園を半周したことになる。人が並足で歩いて一周するのに15分はかかる公園だ。「ワラシはよく歩いたよ」とカーツンはムーサンに報告した。


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