第2話

   


 ワラシの後脚の衰えは昨年の夏頃から目立つようになった。犬の老化は後脚から始まるということをテレビ番組で知っていたカーツンはワラシにそれが現れたのを見てショックを受けた。散歩は一日に朝夕二回、ほぼ毎日怠ることなく行ってきたので、ワラシの健脚を信じていたカーツンには早過ぎると感じられる衰えだった。歩けなくなれば、それは終末が近いことを意味する。ワラシの終末の兆しが早くも現れたことに理不尽さと無念さを覚えた。ツムジを原因とするストレスがワラシの老化を早めたとカーツンは苦く思った。彼はその頃ワラシの死の予感に怯え、その死を悲しむ詩を書いた。

 昨秋,カーツンとムーサンは結婚30周年を記念して一泊旅行をした。ワラシとカティア、ツムジの犬3匹も伴った。ペットと泊まれる宿を予約したのだ。カティアは二番目にワラシのお腹から出てきた子で、長女に当る。これはツムジとは対照的に親思いの子だった。ツムジがワラシに噛みつくと、カティアはツムジに吠えかかりながら間に入り、ワラシを庇った。宿の部屋でワラシは落ち着かなかった。日頃使っているワンちゃん用の座布団を三枚、家から持参していたが、ワラシはその上で寝ることもなく、あちこちと動いて、とんでもない所でオシッコをしたりした。ボケも少し始まっていたのかもしれない。就寝のために寝床を敷くと、ツムジとカティアはその上で横になるが、ワラシはツムジに遠慮するのか、布団の上には上がらなかった。端の方で丸くなっていた。夫婦の周囲を動き回るのはツムジとカティアばかりだった。宿の周囲の散歩に出ると、辻を一つ曲がったところで、ワラシの足は止まり、引き返さなければならなかった。その頃からワラシの影は薄くなり始めていたのだ。

 後脚の衰えによって、ワラシの日常の散歩の距離も短くなっていった。家に接している旧国道に出て百メートルほど行き、路地に折れて7、80メートル下り、田圃の中の農道を二百メートルほど行って、折れて路地を上がり、また旧国道に戻って、7、80メートル歩いて家に帰ってくる。この四角形のコースが所要時間20分ほどの基本コースだった。このコースが最短で、散歩はこれに追加したり、別の経路を採ったりしてこれより長くなるのが通常だったが、ワラシはこの基本コースを回るのが精一杯となった。また、ツムジ、カティアのペースとワラシのペースとの懸隔が大きくなり、一緒に散歩することができなくなった。夫婦で散歩させる時は大体カーツンがワラシを担当し、ツムジたちとは別のコースを採るようになった。一人で散歩させる時はワラシと、ツムジ、カティアと二回に分けて連れ出さなければいけなくなった。年が明けると、ワラシは基本コースを一周することも困難となった。

 それは3月11日の朝の散歩だった。その日はムーサンが午前中から夕方まで不在になる日で、サンジイの介護のためにカーツンは年休を取っていた。朝の散歩には夫婦で出た。ワラシのリードはカーツンが持った。家を出て旧国道を南に歩き始めた。北に行くか南に行くかは人間が決める場合とワンちゃんが決める場合と半々くらいだ。カーツンが一人で散歩させる場合は七、八割方ワンちゃんが決める。

 70メートルほど歩くと松岡のおじさんの門扉の前に着く。ワラシの長男ネロが貰われていった家だ。ネロを産んだ時、腹から飛び出した物体に驚いてワラシは逃げ出したものだ。ヨタヨタと歩いてきたワラシはそこで足を止めた。ここまでか、とカーツンは思った。

 ワラシが元気だった頃(と言ってもほんの一年ほど前だが)、散歩の折、松岡さんの門扉の前に来ると、ワラシとツムジはよく足を止め、金属製のフェンスの下の隙間を覗き込んだものだ。松岡のおじさんはワラシたちを目にすると、愛犬ネロの母親と妹たちを招き入れてご馳走を振舞ってくれた。おじさんは特にツムジが気に入っていた。玄関の土間に入ると、おじさんはネロのおやつに買ってあるビスケットや鶏の干し肉などを出してくれるのだ。カーツンたちよりも先に土間に駆け込んでいるワラシとツムジは吠え声をあげておじさんが食べ物を持って出てくるのを待っている。この二匹はガツガツ食べる。カティアは食べない。カティアはなぜかよその家では出された食物を食べないのだ。だからカティアは「口綺麗」だ。しかし、カティアには自他の糞便を食べるという悪癖があった。それでカーツン夫婦はカティアを「ウンチ食いの口綺麗」と呼んでいた。カティアの分は包んで持ち帰る。家のなかだとカティアは食べるのだ。

 そんなことがあるので、ワラシとツムジは松岡さんの門扉の前に来ると、ご馳走に与ろうとして動かなくなるのだ。「おいちゃんはいないよ」「おいちゃんは散歩に行ってるよ」と夫婦は声をかけてリードを引っ張るのだが、なかなか動かない。

 しかし、3月11日の朝、ワラシが松岡さんの門扉の前で足を止めたのはご馳走のためではない。もう歩きたくなくなったのだ。その証拠にワラシはフェンスには無関心だ。その下から覗き込んだりしない。今いる所が松岡さんの門扉の前という認知もワラシにはないだろう。歩いてきて、きつくなって足を止めた所がたまたまこの場所だったに過ぎない。カーツンにはそのことも悲しかった。しかし、ここで引き返しては散歩の距離としてあまりに短すぎる。と言って無理やり引っ張って行くのもためらわれた。どうするか。カーツンは考えた。ムーサンに連れられたカティアとツムジはもう30メートルほど先を進んでいる。カーツンはワラシを抱えあげた。百メートルほど先にある十字路までワラシを抱えて行くつもりだった。そこから引き返せば、まあまあの距離になるだろうと思われた。スタスタと歩けば2分もかからない距離だ。しかしこの距離すら今のワラシには難儀なのだ。ワラシの重みが腕に負担として感じられだす時、十字路に着いた。そこには「行通安全」と彫られた石柱が立っていた。大正14年に立てられたことがわかる高さ一メートルほどの石柱だ。その側に抱えていたワラシを降ろした。

 ワラシを置いた地面は砂利が敷いてあって、周囲には草が生えている。犬が好みそうな場所だ。ワラシは地面を嗅ぎ始めた。散歩に出てから初めてする行為だ。ひとしきり周囲を嗅いだ後、草の上に小便をした。十字路の角にコンクリート製の電柱が立っている。ワラシはその電柱の根本を嗅ぎ、右に折れて坂道を上り始めた。ワラシは道を引き返さず、交差する上(かみ)の神社に向かう道に入ったのだ。カーツンには意外な展開だった。

 ワラシはそのままコンクリートの緩やかな傾斜を上って行く。ほう、とカーツンは思った。これはどうしたことだ。さっきまでとは全然違うぞ。しかし、このまま行かせていいものかな。きっと途中でへたばるぞ。また抱きかかえて帰らなければならなくなるぞ。カーツンは喜びと懸念の二様の気持ちを抱いた。しかし、ワラシは止まらなかった。カーツンの懸念をはね返して、ワラシは止まらなかった。坂を上りきり、下りに入った。下りきって、道が二又に分かれている地点まで来た。カーツンはワラシを左折させ、農道に導いた。農道に入ってもワラシは止まらない。ワラシとこの道を散歩するのは久しぶりだと思いながらカーツンは歩いた。記憶を辿ると一年以上のブランクがあった。

 ワラシは止まらない。これまでヨタヨタとしか歩けなかったことへの憤懣を一気に晴らすように、頭を低くしてしゃにむに歩いている。これは何だ、これは奇跡だ、とカーツンは思った。公民館の前までワラシはノンストップで来た。大したもんだ。カーツンは胸の内でワラシを褒めた。もう休んでもいいぞ。お前もそろそろ休みたいだろう。カーツンはワラシが間もなく足を止めるだろうと思った。公民館の前を過ぎた。ワラシは止まらない。また道が三叉に分かれる地点に来た。左折した。この道をしばらく行くと上り坂になる。カーツンはワラシに休んでいいぞともう促す気はなかった。行け、行け、ワラシ、ノンストップで一周するんだ!

 道はやがて上り坂になった。20メートルほど続く坂道だ。カーツンはいつワラシの足が止まるかと懼れながら歩いた。しかし、リードは決して引っ張らなかった。あくまでワラシが自力で歩くのだ。坂の中途を幅15センチほどの溝が横切っている。その上に格子状の金属製の蓋が被せてある。犬はその蓋の上は歩けないので飛び越えなければならない。ワラシは飛び越えられるか。そこでストップということになるのではないかとカーツンは思った。その溝にさしかかった。カーツンは溝を越え、ワラシを待った。ワラシは溝の前で足を止めたが、一呼吸置いて飛び越えた。すごいぞ、ワラシ! カーツンは心の内で拍手した。坂を上りきって、カーツンとワラシは旧国道に戻った。

 残すは60メートルほどの直線道路だ。

「ワラシ、がんばれ! がんばれ! ワラシ! 」

 カーツンはひた向きに歩くワラシに声をかけた。ワラシはその声援に応えるように遂にノンストップで家の庭に歩み入った。基本コースを上回る距離を一周したのだ。ワラシがコースを一周したのは年が明けてから初めてだった。

 その日の午後、東日本大震災が起きた。そのため、このワラシの快挙もいっそう印象深いものとなった。

 テレビ画面に映った、津波が整然と区切られた水田を呑みこんでいく光景。燃えている家屋がいくつかその中に浮いている濁流が美しい田畑を覆っていく珍奇な光景はカーツンに深い印象を残した。


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